紙上談爾〈再録〉
@he1le
劉邦という男について
紀元前二二〇年(沛県)
劉邦について教えてくれ? ああ、あのろくでなしの季のことだね。いったい誰のことかと思ったよ。しかしあんなやつのことを知りたいなんて、なんでだい? 大方あいつに何か吹き込まれたんだろうけど……。
ずいぶん嫌っているようだって? 当たり前だろう。ここらの大人ならやつにいい顔するわけがない。するのはガキどもとあいつに妙な言葉囁かれていい気になった女くらいさ。
やつは子供の時分からろくでなしでね、末っ子だから甘やかされたんだろう。畑はろくに手伝わない、他の仕事をさせてみれば道具を盗んで売っぱらう、その金でそこらのクソガキを餌づけして従える、ろくでもないね。何が最悪って今もそれをやってるってとこだよ! あんなの山賊と変わらないじゃないか。せめて世帯を持てば落ち着くかもしれないけど、あんなやつに嫁がせたい親がいるわけないね。ああやだやだ、とっとと村を出ていってくれたらいいのに。
紀元前二一二年(沛県)
劉兄ィはどんな人かって? ヘェ、あんたあの人に興味あんのかい。なかなか見る目があるね。俺でよければ口添えしてやっけど……え、そういうのはいい? ふーんまあいいか。
あの人はここらの亭長やってんだ。じじばばどもはあの人を職なしのろくでなしみたいに貶すけど、ちゃーんとお上から任された仕事に就いてんだぜ。……まあたしかにあんま仕事しねーし、金もらったら多少のこと見逃しちまうけどよ。あ、でもさ、いいとこもたっくさんあるんだぜ! 独り身の爺さんが盗みを働いてとっ捕まっちまったけど、劉兄ィはしばらく食べものの世話して親戚も探してやったんだ。ふつーの役人だったら即牢屋即棒叩きさ。俺も「お上にばれたら劉兄ィもやばいことになるよ」って言ったんだけど、そしたら「つまり誰も言わなきゃいいんだろう? なあ皆、言わねぇよな!」って村中に大声上げたのさ。たしかにこれでバラせば人じゃねぇや。どうやら向こうの上の人も握り潰したみたいでね、兄ィの行動はきっとこれから天下も動かすようになるよ。
紀元前二〇九年(沛県)
劉邦のことを教えろ、だって⁈ まさかあんた秦の使者かい? ああ助かった。わかってることは教えるから早くあの反逆者と裏切り者どもをとっちめてくれ……。
あいつはここらの反乱軍の元締めでね。亭長やってたくせに任務をほっぽり出して山に篭ったんだ。まぁ山賊に毛が生えた程度だったんだが、県令さまはずいぶんおそれてた。私も絶対信用ならないって言ったんだ。でも蕭や曹のやつがやたら推すもんで、県令さまも騙されてしまったんだ。けど県令さまもあいつらを見たら正気を取り戻してね、何とか締め出すことができたんだよ。でも何てこった! もうすでに劉邦のやつは城の中に間者を入れてたんだ……そして県令さまは殺されて、あいつは城主気取りだ! ああいったいどうすればいいんだ。そうだあんた、すぐに秦に戻るって言うんなら私も連れてってくれないか……え、あんたどこへ行くんだ! おい! 置いてかないでくれ!
紀元前二〇七年(彭城)
え、項羽軍と劉邦軍、どっちが関中入りが早いかって? えー俺は使者に過ぎないからどっちだろうと構わないんだけど……いや正直言うと劉邦軍の方がいいかなぁ。だってあの人は特に王とか推戴してないし、人柄も優しいって評判だし。この戦が終わったあと面倒なことにならなさそうだなって思うんだ。
でもやっぱり早いのは項羽軍だろう。何せ大義名分がしっかりしてるのは連中の方だ。それに項羽将軍も若いながらもとんでもない強いって評判だしな。有名な軍師さまもついてるみたいだし。ああでもなぁ、大義名分がしっかりしてるってことはそのぶん熱くなってるってことだろうし、咸陽入りするやいなやその熱で全部燃やしたりしなきゃいいんだけど。あと絶対領土云々でうるさいだろうしなぁ。武功一番なのは誰も疑わない話ではあるけど……今からすでにちょっと憂鬱だよ。
紀元前二〇六年(咸陽)
何だいあんた……話が聞きたい? タダでする話なんてないよ……フン、まあいいだろう。で、何だって? 劉邦さま? ああ、懐かしい名だね。反乱軍が関中に入ってきたって聴いたときは、子供を抱いて震えたものだけど、いざやってきたと思ったら、あの人は市井じゃ一滴の血が流れることも許さなかった。しかも兵たちが好き放題暴れないようにもしてくれた。あとあの法律。あれはちょっと笑ったけど、ありがたかった。あれが施行されて初めて、ああ本当に秦の政治は息苦しかったなぁって、言えて、そんな言葉で笑えた。こんな日が来るなんて、って思ったよ。なのに、なのに……。
正直、ここからはもう思い出したくもないんだ。あの人が一番だったってのに、それをなかったことにしてあの男が乗り込んできてからのことは……。夫も、子供も死んじまった。殺されたんだ。劉邦さま、今は漢の方に行ってるんだってね。ずいぶんなとこ行かされたけど、あの人が治めるところならきっといいとこになるんだろうねぇ。ああ、行きたかったなぁ……。
紀元前二〇五年(彭城)
劉邦について思ってること教えろ、だって⁈ 何だあんた、あいつのことなんか思い出したくもないってんだ! あいつの軍は俺たちの食いもんを根こそぎ奪って、俺の娘も攫ったんだぞ! 項羽さまの軍の方がよっぽどしっかりしてた。あんなことは絶対しない軍隊だったよ。風の噂で優しいだとか英雄だとか持ち上げられてたけど、嘘っぱちだ。仮に本当だったとしても調子乗ったんだろうよ。みんなそんなもんだ。もういいだろ、あの男のことなんか思い出したくないんだ! あんなやつ項羽さまにぶっ殺されちまえばよかったのに、逃げおおせやがって……。
紀元前二〇四年(彭城近辺)
はぁ、劉邦について教えろ? お前、我々を誰だと思っている? 喧嘩でも売ってるのか! ついさっき我々のご主人様はそいつのせいで死んだというのに!
そういう恨み節でもいいから話を聴かせてほしい? よくわからんやつだな……まあいい。多少の気晴らしにはなるだろうからな……。
我々の主人は楚に仕えていた。すでに結構な年を召されてたというのに、身体に鞭打って天下のために働いたんだ。立派な方だ。当然すぐに楚で重用され、主君を亡くされてもその後継によく仕えてらっしゃった。二人の関係は、それこそ多少口論もあったが、互いに尊敬し合ういいものであったんだ。
けれど劉邦……やつの策のせいで二人の絆は瞬く間に引き裂かれた! 世間はやつを慈悲があるとか、天下を統べるにふさわしいとか抜かすが、あんな卑怯で残酷な真似をできるやつがやさしいものか! やつは所詮、逃げるときに子供を投げ捨てるような男なのだぞ!
主人はかつて仰った……『本当は星占いで劉邦の勝利は見えていた。それでも私は項羽さまに仕えたのだ。最後まで貫き通し、必ずや彼を天下人にせん』と。なのに、どうして……こんなことに……。
紀元前二〇三年(広武山近辺)
漢王さまについて教えてほしい? 何だあんた、間者か何かか? ……本当に俺の見る漢王の人となりが知りたいだけ、ねぇ。信用できないなら話したあと斬っても構わないって……変なやつ。まあ俺でよければ話すがよ。
俺の見た、ねぇ。ああこないだここら辺であの人の父君が殺されかけたことは知ってるかい。そうそう、項羽に大釜で煮殺されるところだったんだ。で、熱くなってる項羽に王が何て言ったか知ってるかい。『そのあと煮汁をくれ』だよ。まー何というか、度胸があるのはそうなんだけど俺はあれ聴いたとき顔が青くなる感覚がしたね。だって自分の父親だぜ? 私情を挟まないのは立派っちゃそうだけど。あれで止まったからよかったけどさ、俺としては項羽の性格だと本当に煮ちまってもおかしくなかったと思うんだよなぁ。向こうの人が止めなきゃまずそうなったろうに。
ああ、でそのあと漢王さま弩で撃たれたわけだけど……実は俺あのときわりと近くにいてさ、たしかにあの人、手で庇おうとしたけど、胸の辺りに当たったように見えたんだよなぁ。でも本人が『指、指に当たった!』と喚くし、周りも『おのれ項羽、漢王の指に矢を!』ってしつこいくらい言ってたからたぶんやっぱり上手く庇えたんだろうな。それからすぐ軍中回れるくらい元気だったわけだから。
紀元前二〇二年(彭城)
何だいあんた……劉邦? ああ、項羽さまが負けたってのは知ってるよ。……ふーん、皇帝に即位したのか。
興味がなさそうって? 興味を持たないようにしてるのさ。今だから言うけど、私は項羽さま……項羽と劉邦、どっちも嫌いだったよ。私はここらに住んでたから項羽を支持しなきゃいけなかった。別に劉邦の領地の方が平穏に過ごせるって言っても、正直興味なかった。どんなとこでも底辺は絶対に生まれる。私はその底辺に落ち込む運命なんだ。どんなとこでも敗れ去る身なのさ。
それに連中だって、一対一で戦ってたわけじゃない。兵士を使ってたわけだろう? ここらでも家族を亡くした連中がわんさかいるよ。生活の保証とか言い出すかもしれないけど、そんなものすぐになくなるもんだ。何より、当然負けた楚には劣るだろうけど、漢にだってたくさんいることだろう。失った人たちが。漢は勝ったのに、その人たちはある種負けている。おかしな話だね。
つまりさ、勝ち負けってのは表裏一体じゃない。ごちゃまぜなんだよ。泥水と綺麗な水が混じるみたいに。一部は澄んでても、他のところは濁ってる。そんなものなんだ。
だから、劉邦も勝ちはしたけど負けてる部分もあるってわけ。それは味方に配る褒賞かもしれないし、はたまた自らが負った傷かもしれない。
紀元前二〇二年(長安)
へー、皇帝陛下のことお知りになりたいの? 私みたいな小間使いに聞いてもしょうがない気が……。まあ今ちょうど人もいないし大丈夫でしょ! いいよ話したげる。
んーと、正直怖いかなぁ。わりと長く陛下の按摩してる人は昔はかわいかったとかわかりやすかったとか言うけど、脚のほくろとか見るとぞわっとするんだよね。そもそも私勤めたの最近だしやっぱ怖いもんは怖いわぁ。ずっと目が疲れてるっていうか、はたまたギラついてるようにも見えるっていうか。まあ嫌なこと多いんでしょうね。何かまた反乱起こったって話だし。
ここら辺は全然平和なもんだけど、わかんないよねー。たとえば今軟禁されてる元大将軍さまが、仲間引き連れて大反乱! ってなったらこの国も秦みたいにあっという間に滅んじゃうのかな? そうなったら項羽じゃなく昔の皇帝陛下みたいに決まり事は三つ、とかにしてほしいわ。今の皇帝陛下は嫌ね。決まり事たっくさん作りそうだもの。あっこれ私が言ったって言わないでね!
紀元前二〇〇年(匈奴領)
リュウホウ、について教えてくれ、だって? 誰だよそいつ……ああ、南の単于のことか。なんで俺に聞くんだよ。ちょっと前に連中と戦争してたんだぞ俺たち。
印象、ねぇ。俺は直接顔を見たわけじゃないし。ま、思ったよりは弱かったかな。ウチの単于は自信たっぷりだったけどな。これに乗じてどんどん拡げてくつもりだぜ単于は。
ああでも、取り囲んだのに逃げられたのは正直びっくりしたなぁ。いったいどんな手を使って逃げたのやら。ただあのときの単于はそんなに苛立ってなかったし、なんか密約があったんだろーな、とは思ってるよ。いつもだったら怒って誰かしら斬ってるとこだし。そう考えると存外感謝の気持ちが強いかもだな、南の単于……リュウホウ、だっけ。あんたが負けて金払って娘差し出してくれたおかげでウチの単于はご機嫌です、ってね。
紀元前一九六年(沛県)
おお皇帝陛下の話を聴きたいというのは君か。いやぁ若いのに殊勝なものだ。ふむ、まず陛下がここらの出身であるのは当然存じていよう。そう、陛下は幼き頃より働きもので村中の子供、大人にも慕われていた。ゆえに
だが陛下は同時に秦の暴政に心を痛めておいでだった。だからこそ陛下は義勇軍を結成したわけだ。陛下はみるみるうちに頭角を現されたのだが、ここで陛下の道を阻むものが現れた。項羽である。やつは秦に対する大事な一戦で大敗を喫したにも関わらず、大きな態度を改めようともしなかった。だから陛下が先に咸陽入りを果たしたわけだ。
だが卑怯にも項羽は、先に咸陽入りしたものこそ関中王と約したにもかかわらず、陛下の功をねたみその上で奪ったのだ! 陛下は秦の臣下や民にも寛容な政治を敷いていたというのに、項羽は入るやいなやそこを焼け野原にしてしまったという……おそろしい話である。
そして陛下は漢という地に遷されてしまったわけだが、そこでめげる陛下ではなかった。陛下はその地をきちんと統べ、その上で楚を討つべく蜂起なさったのだ。
だが諸侯たちの身勝手なこと! 一時は項羽の本拠地までもを征服したというのに、油断したせいで奪い返されてしまったのだ。そのとき陛下のご家族も項羽に囚われてしまった……お可哀想に……。
だが当然、大敗を喫しても諦めないのが陛下である。陛下はその後一騎討ちに際しても堂々と項羽に立ち向かい、己が家族も取り返されたのだ。そして陛下は地方を降し、項羽をも討ち今あられるということである。
……何だと? 今まで聴いた話と違う箇所がある? それはあれだ、おぬし楚人等に聴いたのであろう。連中にはいまだ陛下を逆恨みするものらも多いはずだ。
何? たしかに自らの慢心で大敗した彭城の戦いについては楚人から聴いたが、その後自らの子を放ったり、父親を煮込めるなら煮込んでみろ、といった発言はたしかに漢の人から聴いた話、だと?
お前! 何たる口の聞きようか! それだけでなく陛下の御名を口にするなど……! 誰か! このものを捕らえよ! 近々漢より軍がいらっしゃるという。そのとき差し出してやる! ……ん? い、いなくなった……。
「はぁ。最後の最後にやばいやつにぶち当たっちゃったよ。逃げる必要ないのに逃げ出しちゃった」
私は空気の薄い山の上、スクリーンを表示させ、さっき聴いた会話ログを文章に起こさせる。読み直しても、まさに作り話もいい内容だ。
「でもこうして見ると、本当に当時の歴史家って優秀だったんだなぁ。再現された存在とはいえ、ああいう連中絶対いただろうしね」
スクリーンを閉じると、私は機械上の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「さて、じゃあ帰ってレポートにしますかっと」
_AI_で再現された今の時代にはない土の感触を踏み締める。名残惜しいがこれ以上はきりがない。木々が風にゆらめく音にありはしない懐かしさを覚えながら、私はリターンボタンを押した。
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