第3話 昭和47年11月5日

「こんな場所に温泉地があったなんてね~」

「知らなかったでしょ、ここ。親戚から聞いたんだけど。“限桐村”なんて聞いたこともない所だったからちょっとな……って思ってたけど、景色いいよね」


 東京でOLをしている武藤詩織と田中恵美は3連休を利用し、限桐村へ温泉旅行に訪れようと車を走らせていた。


                ◆◆◆


(普段から人がいっぱいいるところで仕事してるのに、なんで休みの日に好き好んで人がわんさかいる場所に遊びに行かなきゃいけないのよ! ああ、癒しが欲しい……)


 休み前、旅雑誌を広げながら詩織はため息をついていた。

 3連休となれば、どこの観光地も込み合う。特に今年は上野動物園でパンダが公開する、なんてビッグニュースもあり動物園や観光地は多くの人で賑わうことが予想された。

 特に決まった目的地もないまま、雑誌のページをパラパラめくっていると、頭上から声をかけられた。


 限桐村っていう温泉地があるんだけど、一緒に行かない?


 声の主は同僚の恵美だった。同僚と言いつつも、部署が違うためお互いを『同じ年に入った人』くらいにしか、認識はしていなかった。

 そんな恵美から急に声をかけられ、詩織の肩は不意に小さく跳ねた。

 恵美が言うには、親戚の集まりで青森にいい温泉地がある、と話題になったらしい。温泉好きの恵美は是非とも行ってみたかったが、一人で見知らぬ土地に行くには気が引け思案していたところ、ちょうど旅行雑誌を広げ頭を抱える詩織を見つけ、白羽の矢を立てたのだそうだ。


(正直、どこよそれって感じで心配だったけど……)


 詩織が車を降りると、そこは『古き良き日本』というタイトルがぴったりな農村が広がり、ところどころから温泉特有のかおりが漂っていた。

 都会ではほとんど姿を見せなくなった風景があり、観光客はほとんど見かけない気がした。

 そもそも道を歩いている人が少ない。着いたのは午後3時頃であったが、歩いている人と言えば、皆農作業用のヤッケを纏い黙々と道具を運んでいたり、犬の散歩をしていたり……。その程度だ。

 詩織はこのド田舎加減に期待を寄せ、いそいそと旅館の玄関をくぐった。




 温泉は最高だった。

 とろっとした湯質で、乾燥を防ぎ美容効果が高いらしい。さらに身体は冷めにくく、上がった後もほかほかと心地よい満足感が持続する。

 温泉から上がり、しばしすると女将が食事に呼びに来た。

 旅館と言えば、大広間で豪華な料理……と期待した詩織だったが、出された料理はシンプルなものだった。

 地元の野菜とジビエを使った鍋。近くの川で取れた川魚の塩焼き。旅館の畑で取れた白菜や大根の漬物。湯豆腐や小鉢の類も全て地元の物で作られていた。


(でも、これはこれでおいしそう)


 予想通り、料理は素朴だがどれも丁寧にした処理や味付けされており、詩織と恵美は一品一品に舌鼓を打った。

 腹が満たされ部屋に戻ると布団が敷かれている。

 窓を開けるとコオロギや秋の虫たちが互いの想いを主張し合うように鳴き、賑やかだが美しい音が、満たされつつある五感をさらに満たしていく。


「恵美、誘ってくれて本当にありがとう。私の思い描いてた休日になった!」

「それは良かった。私も誘ったかいがありますよ」


 それから2人で他愛もない話をした。上司の愚痴、誰がかっこいい、カシオミニは使ってみたか、最近ジーンズを買ったなどなど……。

 旅館のお土産売り場で売っていた地酒を嗜みながら、乙女話に華を咲かせ、2人はこの時を目いっぱい楽しんだ。



 次の日は旅館周辺にある温泉を巡ろうという話になっていた。

 朝食を食べ、準備をし、2人で玄関へ赴くと従業員や女将が小さなひそひそ声で、しかし慌ただしく動き回っていた。

 2人がいるのにも気づいていない。


「あの……、どうかしたんですか?」


 恵美が女将に問いかけると、女将は必死の形相でこちらを向いた。

 しかし、声は聞こえるか聞こえないかの小さなものだった。


「お客様……! 濃霧注意報が出ております。今日外出することはできません。ご了承ください」


 訳が分からない。濃霧注意報が出てなんだというのだ。


「たかが霧が濃いだけですよね? なんで外に出ちゃいけないんですか。私たち今日も予定あるんです」

「なりません。今日は旅館の中で、できるだけ音を出さずにお過ごしください。濃霧注意報が解除となるまでは、ひっそりとお過ごしください」


 ますます訳が分からない。どうして静かに過ごさなければいけないのか。この村の慣習なのだろうか。しかし、何も詳しい説明の無いまま、ただ何もせずに旅館に滞在しろというのは、あまりに勝手が過ぎる。


「そうしなきゃいけない理由があるんですよね? じゃあ、理由を教えてください」

「理由はお教えできません。これは村の決まりです。どうか、本日はひっそりとお過ごしください」


 女将はその一点張りで、他の従業員も理由については口を閉ざす。

 詩織と恵美はあの手この手で理由を聞き出そうとしたが、その努力は無駄に終わった。


「正当な理由もないまま、ただ旅館にいろなんて納得できません。私たちは旅行史に来てるんですから、どうしようと私たちの勝手でしょ?! 詩織、行こ!」


 痺れを切らした恵美は詩織の手を引いて玄関に向かった。

 追いすがる女将の手を振りほどき、恵美はずんずんと車に向かい詩織を助手席に押し込むとエンジンをかけた。

 ふと気がつく。あんなに必死に止めていた女将や従業員たちは旅館の建物から出ようとしないのだ。

 ただただ怯えた瞳で一同がこちらをじっと凝視する。身は一つも動かさず、視線だけが2人に刺さり続ける。

 いや、口だけは小さく動いている。皆が、同じことを言っている、口の形は揃っていた。


 仕方ない、仕方ない、仕方ない、仕方ない、仕方ない、仕方ない……


 皆が同じ言葉を繰り返している。音は聞こえない。がそう言っていると2人は思った。

 得も言われぬ不気味さを感じ、恵美はアクセルを踏み目的の温泉を目指し山道を昇った。





「……何あれ。怖いんだけど。そんなにやばい習わしとか、伝説とかあるのかな、ここ」

「どうだろ……。なんか尋常じゃなかったよね。……戻る?」

「今更? 勢いで出てきちゃったし、霧なんて日が高くなれば晴れるじゃん。とりあえず温泉入れるところに入って、あとで謝ろう。だって、あっちも理由言わないんだもん。『ただここにいろ』なんて、温泉目当てで来た私にとっては拷問だよ。他にはなんもなさそうだし」

「ははっ。なんもないは言い過ぎでしょ? あんだけお酒美味しいって言ってたのに」


 2人は異様な恐怖を紛らわせるため、努めて明るい方に話題を持っていこうとした。



 次第に車内の雰囲気は明るさを取り戻し、周囲には霧が立ち込めた。

 視界が靄に覆われ、辺りは薄暗くなる。とっくに日が登っている時間だが、むしろ暗さが増している。

 恵美は車のライトをつけたが、光は靄に反射しごく近くを照らすに止まる。

 先ほどまで辛うじて見えていた山道も、今はその車体に伝わる振動だけが頼りとなっていた。


「ねぇ恵美……。大丈夫、これ。一度止まった方がいいんじゃない?」

「でも、止まっても狭い山道だよ? 向かいから車来たら終わりじゃん」

「このまま進んだって終わりだよ! やっぱり今から戻ろうよ」

「どうやって戻るのさ! こんな道、バックで降りられ……!」


 急に詩織の乗る助手席側が傾いた。恵美はとっさに右側にハンドルを切ったようだったが、車体は大きく左に傾き道を外れようとしている。

 山道を踏外した車はそのまま崖下へと転落した。幸いに数m程度の崖だったらしく、車は一回転し崖下に着地した。

 そこそこの衝撃を割れたフロントガラスが物語る。


「――って~……。詩織、大丈夫?」

「だ、大丈夫……。私がうるさく言ったからだ、恵美ごめん」

「いや、違うって。あんだけ霧が濃くなったら誰でもああなるよ。本当に道の端っこ見えなかった。くっそー、車ダメになったかも」


 互いの無事を確認したが、事態の深刻さは変わっていない。ここから助けを呼ばなければ。幸いしっかりと着地できたため無理な体勢で待つことにはならなそうだ。



 気配がした。

 何、というわけではない。しかし、の気配がした。


「ねぇ、恵美……。なんかいない?霧で良く見えないけど、なんか嫌な予感がする」

「……」

「ねぇ…、ねぇ! 恵美!」

「……」

「恵美ったら!!」


 詩織が運転席を振り向くと、先ほどまであった恵美の顔が見えなかった。

 正確には

 恵美の顔があった場所は灰色の濃い霧に覆われ、首元には無数の鋭い、長い棘のような何かが刺さっている。棘は黄ばんでおり、ところどころ赤い何かの染みがついている。恵美からは噎せ返るような赤錆のような臭いが漂っていた。

 詩織が息を呑むと、霧は恵美の頭を離した。

 頭だったものは水分を抜かれたようにカラカラに干からび、触れると枯葉のような音が鳴りそうだった。

 恵美の頭上、一筋の赤い横の線があった。

 線は恵美の頭上から詩織の方へ近づいてきた。

 その線には牙があった。さっき、恵美の首に刺さっていた、無数の牙だった。

 線が開いた。紅赤べにあかの生肉のような湿り気を帯び、赤錆の臭気を放っていた。


 生臭い紅赤は詩織の顔を飲み込んだ。



 捜索願が出された数日後、遺体が発見された。

 は運転席と助手席にあり、服のような布を纏っていた。

 捜索隊がを人と判断するのは容易ではなかった。



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