口切りの断つは
空月 蓮
第1話 水屋
口切りの断つは1
雨粒がぽつり、と小窓の軒に当たる。
九月の雨は気まぐれだ。強く降ったかと思うと、さめざめと空気を濡らす。
小窓の向こうでは、松島が雨に滲んでその風情をいっそう高めている。
だが、外の音も湿った空気も、この小さな茶室には届かない。
静謐と沈黙、それがこの空間を占めるすべてだった。
この芭蕉亭の家元である華月時雨は一人、点前稽古のためにこの部屋にいた。柄笏で湯を汲み、目の前の茶碗に注いだところだった。
「真木さん」
後ろに控えていた女性に声をかける。その声も静かで、誰かに話しかけるときのものではない。
水屋で湯の注ぎ足しのために火加減を見ていた真木珠江は、声をかけられるまでもなく立ち上がって中に入った。足音はおろか呼吸音さえさせず、小窓の筵を下ろす。それで茶室はますます静かになった。まるで、二人の心臓の音が聞こえるかのように。
珠江は戻ったすぐ後に沸いた湯を継いだ。時雨は満足そうに眉を上げる。
時雨は茶筅で立てた茶を飲み干し、茶碗を鑑賞する。今日の茶碗は高麗青磁の年代物だ。稽古には大げさだが、時雨はその佇まいが好きだった。着物も青磁色の羽織りと白い袴、稽古にしては正式なものだ。
茶碗を持つ指先ひとつ、袱紗で道具を清める仕草。水屋で裏方仕事をする珠江は時雨の所作を一つ一つ、目ではなく感覚で感じている。それは、沈黙の中にある空気の動き、彼の熱の巡りでもある。その動作がすべて、静かな、人とも思えぬ茶の精霊が降りてきたかのようだった。
――先生。
彼の指が、声にならずに自分を呼ぶ。珠江はこの瞬間を何よりも愛していた。
自稽古が終わると、使用した茶器は珠江が水屋に運び、綺麗な布で清める。大事な茶器を丁寧に扱うことから茶事は始まっている。珠江は亡くなった父にそう教わった。
珠江の父は時雨の父親だ。珠江は両親に捨てられ、施設で育った。そこでたまたま慰問に来た時雨の父親と巡りあい、珠江の才能を見抜いて芭蕉亭に住まわせることにしたのだった。
時雨は珠江と十歳も年が違う。逆に言えば、十才しか違わない。父親が突然亡くなり、時雨は若くして家元にならなければならなった。その重圧を珠江は誰よりも知っているつもりでいた。水屋にいることによって。
だが、知っていたからと言ってなんになろう。時雨の元にはいずれ家元の妻にふさわしい女性がその地位につくのだ。珠江の想いは、茶室が静謐であればあるほど、彼女の中で重く苦しくなるのだった。
十月になったある日のこと。ようやく秋がその顔を見せ始め、空気は涼しさを増してきた。
珠江はこの家の家事手伝いでもある。先代が拾ってきたどこともわからない娘ということから、芭蕉亭の中では最下層とされ、食事や掃除など面倒事を押し付けられるのだ。
だが、珠江はそれを苦であると思わなかった。
時雨の存在だ。
時雨の茶事は表千家の理想だった。
人柄も同じようで、なにが起きても静謐と沈黙を守る。それによって自分を主張するのだ。その謙虚さと辛抱強さに珠江は惹かれた。この人に着いて行きたいと思ったのだ。
長い廊下を拭いて雑巾を絞ると、珠江は急ぎ水屋に向かった。時雨が一人稽古の準備をしているところだった。
すると、廊下の曲がり角から男がひとり、芭蕉亭にはふさわしくない足音を建ててやってきた。
「彰人さま」
華月彰人は時雨の弟だった。といっても、血は半分しか繋がっていない。先代には妾がおり、時雨の母が亡くなったあとは彼女が実質、芭蕉亭を仕切っていると言ってもよかった。
時雨よりも彰人を家元にしたい。それは時雨の母が死ぬ前からの彼女の望みだった。
「よお」
彰人は珠江を見下ろし、下卑た笑いを浮べた。
「また時雨の水屋に行くのか。なにしに行くんだ?」
「なに、って。先生のお稽古ですもの。お手伝いに参ります」
彰人は珠江の横の壁に両手をつき、珠江が逃げられないように膝を彼女の足の間に押しこんだ。
「なにをなさいますの。人を呼びますわ」
「呼んでみろよ。誰がお前の言うことを信じる? お前が俺を誘惑したと言えばすむことだ」
「――――!」
どうして? と珠江は思う。
どうしてこんな目に遭わなければならないのかと思う。
私がそういう人間だから?
足から力が抜けていく。珠江には両親にも施設の人間にも酷い目に遭わされた過去があった。
それが蘇ってくる。
それが吹き飛んだのは、彰人の次の言葉だった。
「なあ、時雨とはもうやったんだろう? あいつはどうだった?」
珠江の胸に、自分でも恐ろしいと思うほどの力が湧いてきた。珠江は両手にあらん限りの力を込めて彰人の胸を押し返した。
「ふざけないで! 時雨さまはそんなおかたじゃない。時雨さまを侮辱するのは許さないわ!」
彰人はたたらを踏み、二、三歩後ろに引き下がった。その間に珠江は彼の横をすり抜け、廊下を走り抜けた。
彰人は呆然として、珠江を追うのも忘れて彼女の後ろ姿を見送った。
許せない。許せない。
あんなことを言うなんて。
彰人が追って来ないところまで来ると、珠江は柱に腕をついて息を整えた。ふと見ると、枯れた葉が廊下の窓から風に乗って舞い落ちてきていた。
それを拾おうとして、手が震えているのに気がついた。
時雨さま。時雨さまのところに行かなければ。
――時雨とはもうやったんだろう?
彰人の声が蘇る。珠江は床に座り込み、耳を塞いだ。
そんなんじゃない。わたしの時雨さまへの気持ちは、そんなんじゃ――。
ああ、でも。沈黙の中で彼の息遣いを聞くとき、自分は誰よりもその熱を望んでいるのではないだろうか。
望んではいけない想いに、毎夜、気が狂いそうなくらいそうなくらい苛まれているのではないか。
珠江は震える足をなんとか立たせ、水屋に向かった。
「遅かったですね」
珠江を責めるでもなく、普段通りの静かな声。珠江はその声に、強張っていた全身の力が解けるのを感じた。
「申しわけありません」
と、それだけ言って、後は言葉の要らない世界に没頭する。
火をおこし、湯を沸かす。茶具を清める。すべて手順通りだ。
ところが。
時雨が茶杓を取り上げたとき、珠江はふと違和感を覚えた。
はじめは自分が動揺しているせいかと思った。が、そうではない。いつもはぴったりと合っている二人の呼吸がずれている。時雨のほうが、普段の静謐さを保てずに呼吸を乱しているのだ。茶筅を回し、茶碗を手に取る。そのとき、珠江は時雨の手が震えているのを初めて見た。
時雨さま。
なにかあったのだ、と直感した。
なにか、時雨をそれほど動揺させるなにかが。
稽古が終わり、珠江は茶器を洗って清めた。そうしていると安心する。彰人の物言いはただの失礼な振る舞いなのだと、半ば無理やり思おうとした。
そのとき、後ろに人の気配を感じた。誰よりも知り慣れた、息を合わせるときにのみ自分は生きていると感じる人の気配。
「珠江さん」
しばらく振り返れなかった。彼が自分の名を呼ぶのは数えるほどしかない。
珠江はそのとき茶筅と袱紗を手にしていた。
「珠江、さん」
時雨の声は苦しそうだった。静謐を破って突き上げようとする熱と激しさを抑えこむような。
珠江は思わず振り返った。そのとき、珠江の方に手を伸ばしかけていた時雨の指先と当たり、茶杓が床に落ちた。
「も、申し訳ありません」
珠江が慌てて茶杓を拾い上げようとする、その指先に時雨が触れた。
「構いません。今のは私が悪かった」
時雨は触れている手をすぐには離そうとしなかった。珠江の指先がじんじんと痛むように熱い。
――先生。
――お願い。なにか仰ってください。
しかし、時雨はなにも言わなかった。珠江が茶杓を手に立ち上がった頃、先ほどと同じような苦しげな口調で語った。
「義母は、――あの人は彰人をこの家の家元にしたいと思っている。それはそれは、強く。あの人の人生を賭けた願いだ。彰人も、彼はこの家の家元にふさわしい人間だ。ひよっとしたらら私よりも。そのためには私が邪魔なのです。わかりますか」
珠江は頷いた。先代の妾のことは、芭蕉亭の空気から知れていた。
「しかし、私も家元を譲るわけにはいかない。私にだって私の事情がある。ですから、そのためには、どのような醜聞も、スキャンダルも避けなくてはならない」
時雨の言いたいことに察しがついて、珠江の心臓が一気に冷たくなった。
時雨は自分が見ていたよりも、もっとずっと苦しんでいたのだ。家元という地位に、その責任に。耐えなければならない重圧に。
だから、――
「私はあなたが好きです、珠江さん。でもこの気持ちは封印しておかなくてはならない。私はあなたのことを隠しておけないから。私がどれほどあなたに助けられているか、癒やされているか。じきに他人に知られてしまう。だから、あなたとは離れなくてはならない。私の水屋は他の者に任せます」
珠江はどこをどう歩いているのかわからなかった。
時雨の言葉のうち、最も傷ついたのは、
――私の水屋は他の者に任せます。
だった。
あのかたのお手伝いができないのなら、私がここにいる意味はない。
私が生きている意味もない。
芭蕉亭は本棟の他に別棟があり、そこには小さな茶室がある。珠江は別棟に寝泊まりすると同時に茶室で稽古もしていた。
ふらふらと歩いていたが、習慣で別棟に来たらしい。扉を開けようとしたとき、一人の男が闇に潜むように立っているのに気づいた。
時雨の言葉の衝撃で気が抜けていた珠江は、その男の行動に対処できなかった。
別棟の中は暗く、薄月の仄かな明かりだけが部屋の中を照らしていた。
「彰人、さま……?」
珠江は男に強い力で引っ張られ、彼の胸に顔を押し付けられた。
「時雨になにか聞いたのか」
彰人の声には余裕がなく、彼の時雨に対する感情を顕にしていた。
「どうせあいつは涼しい顔をして俺を馬鹿にしているんだろう。妾の子だと」
「時雨さまは、そんなことはひと言も」
時雨は、彰人が家元にふさわしいとまで言ったのだ。
だが、その言葉は珠江から出てこなかった。彰人の唇が珠江のそれを塞いだからだ。
彰人さん、なにを。
彰人は珠江の口に吸い付き、珠江の反応も知らぬげに彼女の口内を貪った。
いや。
いやよ……!
いつの間にか、背中を畳の上に押し倒されていた。彰人は珠江の両手を畳に強く押し付けながら言った。
「いつもだ。いつもあいつは俺の欲しい物を奪っていく。父も、茶事の才能も、家元も、愛も。だから今度は、あいつのものを奪ってやる」
「彰人さん、やめて……!」
「おまえが俺のものにならなければ、おまえを追い出すだけだ。路頭に迷うがいい。でなければ、おまえをここに置いてやる。せいぜい時雨と同じところで、あいつを遠くから眺めるだけだがな」
珠江は心がひび割れて崩れ落ちるような感覚に、ものも言えず彰人を見上げた。だが彰人の顔は薄月の闇に紛れてよく見えない。
それを返事と捉えたのか、彰人は珠江に覆いかぶさった。
――先生。
「先生、ごめんなさい……」
彰人の行為に、珠江が言葉を発することができたのはそれだけだった。
だがそれは、余計に彰人を激高させた。
「こんなときにまであいつの名前を呼ぶのかよ……っ」
彰人は珠江の服を引き裂くようにして肌を顕にさせた。その手が珠江を掴み、痛いほどに弄る。
彼の憎しみが誰に対するものなのか、珠江はそれもわからずに闇の中に落ちていった。
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