蒼雷旅団記 ― 風使いの少年と黒猫の相棒
@u7046
プロローグ 「もう一度、歩く」
終電一本前のホームは、雨を吸った照明が白かった。
神代 明(かみしろ・あきら)六十歳。大手プロフェッショナルファームの子会社――基盤業務を請ける現場寄りの会社で、取締役を務めている。裁くより整える役回りが増えたここ数年、難しい案件ほど言葉は短く、礼は深く、書類は薄くで通すのが癖になった。
駅から十分。マンションの鍵を回す音が廊下に響く。
「ただいま」
返事はない。黒白の猫が角をぬるりと回り、足首に体を添わせてくる。クロだ。皿にぬるい水を入れてやると、鼻先を一度だけ触れてから、静かに飲む。喉が動くたび、耳が小さく揺れる。
湯を沸かし、味噌を溶くだけの椀を用意する。テレビはつけない。机の引き出しから古い写真を一枚取り出す。二十代の自分、胴着。横には父と師範。道場の板の匂いが、紙からまだ立ち上るように思える。
古武術は十三で始めた。
足の裏で床を「つかむ」こと、肩に力を入れず肘で向きを変えること、押さずに通すこと、受けの中で息を置くこと――そういう基礎ばかりを何百回も繰り返した。大学、社会人、役職がついてからも、週二回は欠かさなかった。四十を過ぎると若いのを受け、五十を越えると崩しを受け流して場を収める係になった。
その稽古は会議室でも使えた。強く言えば通る場面ほど、通さずに済ませる。縛る結び目は、ほどくために浅く結ぶ。相手を立たせたまま落ち着かせる。手を出す順番を入れ替えるだけで、だいたいは回る。
妻は早くに逝き、子は独立して遠い。兄弟もそれぞれの暮らしがある。家に帰って灯りをつける音を聞くのは、自分とクロだけだ。寂しいかと問われれば、そうだと答えるしかない。だが、愚痴をこぼして楽になる年齢でもない。できることだけを、できる範囲で。若い頃に選んだやり方で、ここまで来ただけだ。
椀をすすり、クロに軽いおやつを一粒。爪は短く、毛並みはつやがある。首輪はつけない。必要なものだけ。
机に戻り、メールを二通だけ打つ。明日の休み届――件名は五文字、本文は三行。もう一通は部長宛てで、案件の進捗と引き継ぎのメモの場所。送信を押す指は軽い。逃げるためではない。立ち止まって呼吸を整えるのは、崩しの前の手順だ。
引き出しを整える。紙束は三つに絞る。
・必要な手順
・誰がどこまで知っているか
・自分がいなくても回る段取り
どれも分厚くしない。読む者が次の手を出せる厚さに抑える。書き終えたらホチキスを一回だけ。針穴が増えるほど、紙は読み手から離れていく。
クロは椅子の背からこちらを見ている。灯りに瞳が丸くなる。
「もう少しで終わる」
返事はない。尻尾の先が一度、空を切る。十分だ。
風が変わった。窓の外、雨が上がったらしい。明日は休みだ。道場に顔を出すには時間が中途半端で、朝は神社に回ろうと決める。駅前の喧噪から一本入っただけで空気が変わる、小さな社だ。掃除が行き届いていて、柄杓は軽い。
何かを願いに行くのではなく、ここまで無事に来られたことへ礼を言いに行く場所。そういう距離感が、明には楽だった。
寝具を整える。クロは布団の端に丸くなる。心臓の鼓動が彼の体温と重なる。
枕元のノートの最後のページに、ここ数年で自分がよく見る言葉を書き写す。
・押さず、通す
・ほどくために結ぶ
・場を整える
稽古の合間に師範が口にした短い句。仕事が荒れた日に自分へ戻すための目印。字は大きくしない。手に馴染む言葉で書く。
灯りを落とす前、明日は靴を拭こうと思い出す。革はよく磨くほど、足の裏の感覚が素直になる。歩幅が整えば、呼吸も整う。
クロの寝息が静かだ。
窓の外で、細い雲がちぎれる気配がした。雨の匂いが、石と土の匂いに変わっていく。
目を閉じる。考えごとは、明日の朝に回す。朝の頭で決めるほうが、だいたい正しい。
◇
夜の雨が抜けた朝は、街路の石が薄く光っていた。
神代 明は、靴を拭いてから玄関を出る。クロは足元を三歩だけ付いてきて、踵のところで座るのがいつもの決まりだ。鍵を回す音に耳を動かし、のそのそと窓辺へ戻る。声は出さない。尻尾だけが、ゆっくり一度、左右に揺れた。
駅前を抜け、商店街の裏にある小さな社へ向かう。鳥居は低く、注連縄は新しい。掃き清められた砂の上で、音が小さくなる。
手水で指先を冷やし、二礼二拍手一礼。拍手は打ち付けるのではなく合わせる。掌に残るのは、木の香と乾いた空気。願い事をせず、ここまでの礼だけを置く。いつも通りだ。
境内の隅に、竹箒を立てかけた棚がある。張り紙が一枚。「気づいたらひと掃き」。
明は背広の上着を脱ぎ、袖をひと折りして、参道の端を掃く。湿り気が残った砂がさらりと動く。
「助かりますねえ」
社務所から顔を出したのは、七十を越えたくらいの管理人だった。冬でも麦わら帽子をかぶる癖のあるひと。
「気づいたら、の札が好きで」
「ええ札でしょう。頼みごとを増やさないから、みんな拾いやすい」
掃き終えて柄を戻す。賽銭箱の脇、古い奉納札のすみが剥がれていた。角をそっと押さえて戻す。そのくらいの手数が楽だ。
境内の隅で、少年がランドセルを背負ったまま、うつむいていた。片方の靴紐がほどけている。明はしゃがみ、目線を合わせる。
「ほどけやすい結びだね」
少年がうなずく。明は紐の長さをそろえ、ほどくための結び目で一度、輪をつくる。強く引いても固まりすぎず、片手で解ける結び。
「帰ったらもう一度やってみるといい。明日には忘れるから、明日ももう一度」
少年はなぜか真剣に頷いた。礼を言って駆けていく。結びは軽いが、足取りは重くない。
鳥居を出る前、明は境内へもう一礼した。
社の奥、御神木の枝に白い紙垂(しで)がわずかに揺れる。風はほとんどないのに、そこだけ呼吸をしているように見えた。
管理人が小さな鈴を手に、慣れた手つきで鳴らす。高くも低くもない、短い音。
「朝のご挨拶はこれくらいがいいんですよ」
「重くならないですね」
「ええ。重い鈴は人の耳ばかりに響くから」
帰り道、商店街で温いパンを一つ。袋の口を片結びにして、すぐ解ける余地を残す。
横断歩道の手前で、車椅子の年配の女性が信号の変わり目に戸惑っていた。明は声をかけず、青の残りを見計らって押し手の横に手を添える。押したのはわずか半歩。渡りきる前に女性の連れが追いつき、自然に手が離れた。礼は要らない距離。そういう立ち位置のほうが、場が乱れない。
マンションに戻ると、クロが窓辺から伸びをして迎えに来た。
「ただいま」
小さく喉を鳴らし、明のズボンの裾に鼻を触れる。パンの袋に興味はないらしい。水だけを少し飲む。
テーブルで、今日の用事を三つに分ける。
・家の片付け(紙を薄く)
・職場への最終メモ(人に残す)
・体の整え(歩幅と呼吸)
紙は午前中で片がついた。棚の上段に「誰がどこまで」の索引を残し、下段に「見れば分かる」資料だけを立てる。人の頭を使い過ぎさせない並べ方をする。
昼は簡単にすませる。クロは日だまりの上で丸くなり、時々だけ尻尾を打つ。病院帰りの記録は冷蔵庫に貼ったまま。体調は安定している。この家の時間は、クロが中心だ。
午後は体を整える。道場の鍵を預けた日からも続けている、玄関先の黙稽古。
足幅を決め、親指球から土踏まずへ重みを送る。肩の力を落とし、肘の向きで身体を運ぶ。前へ押さない。通るほうを選ぶ。
歩幅を一定にして、十歩。引き足で十歩。呼吸は鼻で、吐き切らない。
見えない相手に手を出さず、手前の空気だけを撫でる。
若いころ教わった「突くな、通せ」を、今でも繰り返す。掌の中の余白を残すと、体は軽い。
稽古を終えたころ、スマホが一度だけ短く震えた。プロジェクトの若手から「段取り表、使いやすかったです。ありがとうございました」とだけ。文末の句読点がない。急いでいるのだろう。返信は「よくやった。続きはチームで」。それ以上は要らない。
画面を伏せると、部屋の空気が戻る。クロが窓辺からこちらを見て、前足を揃えた。
「夕方、もう一度、社に寄る」
返事はないが、尻尾が一度だけ立った。
日が傾く。裏路地のコインランドリーの前で、古いベンチに腰を下ろす老夫婦が言い合っている。洗濯かごの入れ違いらしい。声は強くない。明は通り過ぎる。
関わらないことが場を守るときもある。手を出す順番を間違えると、結び目は固くなる。若いころより、そういう見極めは早くなった。
社は朝よりも静かだった。鈴は鳴っていないのに、境内に薄い音が漂っている。
石段の途中に、古い木箱。寄進の札の余りが収められている。管理人が箱を開け、札を手のひらに載せる。紙は柔らかい。
「夕方の風は、余計な音を運ばない」
「そう見えます」
「ええ。だから、ここでは短く祈るより、短く聞いたほうがいい」
何を、とは言わない。明も聞き返さない。こういう話は、定義を増やすとすぐに遠くなる。
拝殿の前に立つ。朝と同じ手順で礼をし、ただ静かに立つ。
仕事で使う言葉が、頭のどこかで薄く流れた。押さず、通す/ほどくために結ぶ/場を整える。
それが終わると、なにも残らない。残らないことに、明は安堵を覚える。ここでまで自分の言葉を拡げたくなかった。
鳥が一羽、境内の端を斜めに横切った。
御神木の紙垂が、また呼吸のように揺れた。ほんの一瞬、胸の奥に踏み出しの前の間ができる。
立ち位置を半歩だけ整える。肩が落ちる。
そのまま、明は深く息をした。
帰り道、スーパーの角で小さな劇団が通行のじゃまにならないよう練習していた。台詞は曖昧に聞こえる。
マンションに着くころには、空は淡い群青だった。玄関の灯りを点ける。クロがいつもと同じ速さで出てきて、足首に体を寄せる。
「ただいま」
それだけ言って、明は靴を脱ぐ。
この夜が特別かと言われれば、違うと答える。いつも通り――そう思って灯りを落とす。
枕元のノートに、今日の三行だけを記す。
・掃く/結ぶ/戻す
・押さずに通す
・明日も同じことをする
窓の外で、風が一度だけ向きを変えた。
クロが布団の端に丸くなり、喉を一度だけ鳴らす。
明は目を閉じる。朝の頭で決めるつもりのことが、ひとつだけ胸の奥に残る。
――もう一度、歩く。
意味は定めない。定めないまま、眠りへ降りていった。
◇
翌朝は、目覚ましが鳴る前に目が開いた。
クロは窓辺で丸くなっている。薄い雲の向こうに日があり、部屋の端だけが白く明るい。水を替え、皿を拭き、ブラシで毛を軽く梳く。喉をごろ、と一度だけ鳴らして、また丸くなった。
スーツは紺の無地。ネクタイは灰の小紋。襟元を整え、鏡の前で肩を落とす。肩が上がると、声が硬くなる――若いころ師範に言われたことを思い出す。
靴ひもはほどくための結び。強く締まるが、片手で解ける。ほどけないことと、解けにくいことは違う。会議室でも、結びでも、それは同じだ。
地下鉄を降り、子会社のエントランスを抜ける。ガラスの向こうに、親会社のロゴ。大手プロフェッショナルファームの子会社――この肩書きは便利で、重い。
朝の取締役会は手短に終わった。決算説明の数字はもう磨いてある。議題の中心は後任の動線。
「現場の最初の三か月は、手を出しすぎないでください」
明がそう言うと、若い役員が頷く。
「はい。指示より、順番を整えます」
「順番が整えば、半分は終わっている。残り半分は、邪魔をしないこと」
それだけ言って、席を立つ。自分がいなくても回る形を、数か月前から整えてきた。回る仕組みを残すのが、役割の終いだ。
昼はデスクで軽く済ませる。最後の引継ぎメモは三枚に収めた。
・やらないこと(期限・判断の線)
・待つこと(誰の番か)
・見ること(数字と足元)
そこに余白をひと手。余白がないと、読む人が呼吸できない。
若い担当が受け取り、短く礼を言う。
「困ったら、順番から見なさい」
「はい」
それ以上の言葉は要らない。背中を押すほどの力は、もういらない。
夕方、部署の挨拶は小さく。花も色紙もない。歓送の場を作ると、誰かの仕事が止まる。各自の机で「お疲れさまでした」を一度ずつ。
エレベーターホールで、人事の女性が小さな封筒を差し出した。
「ご自宅の近くの神社に、少しだけ寄付が届いていました。お名前は……伏せてありました」
「管理人さんが、喜びます」
「そう思って」
封筒は受け取らない。住所と名前だけメモして渡す。「直接、お願いします」と言えば、彼女はすぐに頷いた。間に人を挟まないほうが、後が軽い。
地上に出ると、空が低い。すこし湿気が戻っている。
帰り道、道場の前を通る。シャッターは半分降り、すき間から畳の匂いが漏れてくる。稽古は休みの日だが、手を合わせる。
師範に言われた言葉が、背中から前へ回ってくる。
「突くな、通せ。通すには――そこにいない手になれ」
いない手、とは、相手の前に出ない手。通り道だけを残す手。
若いころは、意味が分かったような顔だけをしていた。今は、足幅と呼吸で分かる。押さない。ほどくために結ぶ。結んだら、手を離す。
マンションの前に、見慣れない自転車が一台。サドルが低い。二階の隣人の姪だろう。階段ですれ違い、会釈だけする。
玄関を開けると、クロが歩いてきて、足に頬を押しつけた。
「ただいま」
洗面台で手を洗い、クロの水を替え、ごはんを計り、薬を一粒だけ砕いて混ぜる。食器はすぐ洗う。待ち時間を作らないほうが、猫の機嫌がいい。
食後、家の中の「誰が見ても分かる」に手を入れていく。
救急箱のふたの裏に、連絡順。
冷蔵庫の側面に、停電のとき。
書類の引き出しには、見てほしいもの/見なくていいものを仕切る紙。
クロのワクチンの控えは透明のポケットに差す。いつどの病院でもいいように、問診票の前の一枚で分かるように。
できるだけ自分の名前を残さない。残すと、次の人が迷うから。
夜、洗濯物を取り込み、窓の外を見やる。遠くの鉄道高架が、赤い点でゆっくりと呼吸する。
テレビはつけない。代わりに、封筒を一枚。遺すほどの財はないが、要らない重りを一つでも減らす。
ペンを取る。書き出しは、冗談みたいに軽い。
「もし、いなくなったら」
――ここで筆を止める。いなくなる、という言葉の重さを、クロは知らない。机の角で丸くなっている背中を見て、言い換える。
「もし、長く帰れないことがあれば」
鍵の場所、管理人の電話、貯金の口座、動物病院の名前。説明の要らない順番に並べる。
最後に一行だけ、余白に残す。
「朝と夕方に、窓を少し開けて風を入れてください。クロは風に顔を向けます」
封をする前に、ふと思って、ペン先をもう一度紙に落とした。
「この部屋は、よく働いてくれました。ありがとうございました」
モノに礼を言うのは、昔の道場の癖だ。畳、木刀、釜。道具に礼を言うと、自分の手が落ち着く。
封筒を机の引き出しに戻し、クロの寝床のそばに座る。
右手で顎の下をゆっくり撫でると、喉がころ、と鳴る。足先が揃って、力を抜く順番が見える。
「明日、いつも通りに起きて、社に寄って、社にも寄って……」
ルートを声に出さずに、頭の中で並べる。いつも通りが一番強い。
湯を落とし、風呂から上がる。脱衣場の鏡に映る自分は、年相応だ。
肩幅は少し削れたが、前へ押す肩ではない。踏み出す前に、踏み出せる空間を作る肩。
電気を少しだけ落とし、窓の鍵を確かめる。
枕元のノートに三行。
・順番を渡す
・余白を残す
・明日も同じふうに
横になる。クロが足元からのそのそと来て、布団の端に丸くなる。
どこかの部屋で遅い洗濯機が回っている音。遠くの高架が、赤い点でまたひとつ息をした。
眠りの手前、胸の奥に小さな間ができる。
――もう一度、歩く。
意味を決めないまま、その言葉の軽さだけを、呼吸の中に沈めていく。
鈴の音は、今夜は聞こえない。聞こえないほうが、いい夜もある。
◇
夜更け。
窓を少しだけ開けて、風を一呼吸いれる。街路の梢がわずかに触れ、遠くの高架が赤い点をまた一つ灯す。クロはカーテンの陰で丸くなり、尻尾の先だけをゆっくり揺らしていた。
机の上の封筒を引き出しに戻し、照明を落とす。枕元のノートには三行。
・順番を渡す
・余白を残す
・明日も同じふうに
ペン先を置くと、胸の内側で波が静かに引いた。やるべきことを小さくたたむと、体が軽い。六十という数字も、ただの目安に戻る。
横になって目を閉じる。息を細く吐くたび、畳のない部屋に、古い道場の空気がすこし戻ってくる。
「突くな、通せ」
師範の声が遠い。そこにいない手で、道だけを残す。年齢を重ねて、やっと意味が骨に降りた。押さずに通す。ほどいて結ぶ。結んだら、手を離す。
どれほど眠ったのか、分からない。
鈴の音が、ひとつだけ鳴った。実際の音ではない。耳の手前で転がる、記憶に近い音。続いて、あの路地の祠の匂いが立つ。雨上がりの石と、乾いた木の匂い。
目を開けると、闇ではなく、柔らかい薄明かり。畳でも床でもない、正体のない平らの上に、神代 明は立っていた。足元は濡れていない。靴もない。体は軽く、痛みはない。
祠にいた、見えない「誰か」が、こちらを見ている――そう思った。形はない。けれど、こちらを傷つけない目というのは分かる。道場で、師範が新入りの癖を見抜く、ときの目に似ていた。
言葉は、声より先に、意味から来た。
『もう一度、歩くか』
問いは短い。返事も短くていい。
「はい」
それ以上の飾りの言葉は、向こうの役に立たない。順番だけを渡す。
『ならば、少しだけ道具を渡す。
名を問う必要はないが、念のため』
「神代 明」
『覚えた』
薄明かりの中に、紙でも石でもない「札」が三つ、ふっと浮いた。手に取る感覚はあるが、触ってはいない。
『アプレイザル。見る順番を整えるための札だ。
インベントリ。抱え込まず、必要なものだけを手元へ。
ランゲージ。聞くために、話すために。
魔力は、いくぶん多めにしておく。骨に無理のない範囲で。
危ないことは、しないように』
言い回しは淡々としていた。こちらがうなずくと、札が胸の奥へ沈んでいく。熱くも冷たくもない。置き場所が決まるだけだった。
『もう一つ。置いていくものはないか』
少し考えてから、首を横に振った。
「置いていく、というより、渡す順番はもう書きました。家の鍵、管理人、病院、猫の水。私の名前はいりません」
『そうか』
それで、向こうは充分に分かったようだった。問い詰めない。確かめすぎない。必要な線だけ確認する手つき。
『では、行き先を一つだけ告げておく。
市と隣り合う世界だ。
人の暮らしと、魔の暮らしが、塀一枚で接している。
危険は隣にある。だが、危険だけではない。
決めるのは、いつもおまえだ。止めるも、通すも』
師範の言葉が、胸のほうから静かに重なる。突くな、通せ。
こちらが返す番だ。
「押しません。通す準備をします。必要なときだけ、一打で足りる力を置きます」
『それでいい』
薄明かりが、わずかに明るくなる。
『忘れることを、恐れるな。
忘れるのは、捨てることではない。
今の手を軽くするための余白だ』
頷く。余白は、次の判断のための空間だ。若いころに欲しかった言葉だが、今のほうがよく入る。
気配が薄れる。挨拶は、こちらからで良いのだろう。
「ありがとうございました」
頭を下げると、あちらの気配が小さく揺れた。礼を受ける側の沈黙というものが、確かにある。
足元の平らが、土の感じに変わった。湿りの度合い、草の匂い、遠い水音。闇は闇ではなく、目が慣れる前の朝に近い。
落ちる、のではない。ほどける。結び目を自分で緩めたときの、あの手触りに似ている。
胸がすこし浮き、体が無駄な力を手放していく。痛みが一段、消える。呼吸が深くなる。
最後にひとつだけ、確認しておきたいことがあった。
「クロは、ここで眠っています。連れて行けるなら連れていきます。もし叶わなくても、私が不在でも回る順番は置いてきました」
返事は、風の具合で返ってきた。
『風は入る。水もある。人の手もある。
おまえは、おまえの歩幅で歩け』
それで、充分だった。
鈴が、もう一度だけ――今度は確かに――鳴った。
音がほどけ、薄明かりがすっと引く。
手が軽い。肩が軽い。次の一歩の場所だけが、はっきりしている。
草の匂い。湿った土。遠いほうで、鳥が短く鳴いた。
——。
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