第42話 「峠の口火」
北の渡しは、昼を過ぎると急に音が変わる。午前の喧噪がほどけて、綱の軋みと水の擦れる音が前に出る。渡し小屋の壁には、長い竿が三本、乾いた影を落としていた。
渡し守の婆さんが、ひとつ結わえ直した髪を簪で突きながら言う。
「夕餉前に一度、妙なのが来るよ。荷の口も開けず、“重さ”だけ確かめて金を置く。こっちは助かるけど、気味が悪いね」
婆さんの目は水の色だ。濁っていない。
「秤は?」
「棒秤。錘は二つ。どっちも古いけど、目は狂ってないさ」
俺たちは小屋の陰に腰を落ち着け、順に確認を回した。レオンは携行秤の糸を張り、目盛りの糸目を爪で合わせる。ヘルミナは封蝋と印紙を革袋から出して並べる。サビーネは弦の端を指で撫で、屋根の角度を目で測る。イリアは写し帳を膝に開き、頁を親指でぱらりと動かした。クロは渡し板の縁に前足をそろえ、鼻先で川の匂いを一つ嗅いだ。
「きょうのかわ、しずか」
「静かな日は、舟が早い」
川面を斜めに横切って、一艘、二艘。渡し舟ではない。細身の舟が、無言で下る。積み荷は薄い布でくるんであるが、角が出ている。袋の角。その舟が渡しの下流でゆるりと旋回し、対岸の柳の影に吸い込まれていく。岸に人影はない。だが、ある。影の形をした「待ち」がいくつも並んでいる。
「買い上げは、川ではなく岸でやる」
レオンが低く言い、棒秤の錘を指で弾いて音を確かめる。澄んだ音だ。狂いはない。
「証拠は昼に押さえた。今夜は“路”を拾う」
「尾を切らせないことが先ね」
サビーネが屋根を見上げ、昏くなりはじめた空の色を確かめる。雲は薄い。峠からの風は、まだ息を潜めている。
砂利の音。小道の向こうから、二頭の騾馬が姿を見せた。背に積んだ袋は、口を麻紐でふさぎ、さらに薄紙を重ねてある。袋の一つに、狐の焼印。今日、帳場で見た印だ。手綱を引くのは黒外套の男、二人。顔は布で覆っているが、歩幅が揃いすぎていて、それだけで「訓練」を感じさせる。
「渡しの秤を使わせろ」
黒外套の一人が婆さんに言う。婆さんはわざと肩をすくめ、棒秤を出す。重さを確認し、金を置く。袋の口は開けない。
イリアが写し帳に書き込む。
《騾馬二/袋六/狐印×四・無印×二/秤=渡し所》
ヘルミナが印紙を指で抑えながら、視線だけで俺を見る。合図。中身は見ない。なら、外から拾う。
俺は息を整え、掌を胸の前でそっと返した。袋の口で密かに渦を作り、麻紐の余り糸をわずかにほどく。ほどけはしない。遊びをつくるだけでいい。そこに“印粉”を落とす。オズが調合した蛍砂だ。夜になると薄い青で浮くが、肉眼で追うには淡すぎる。追跡は、雷のほうが早い。
「クロ」
「うん」
猫が袋と袋の間を身体を横にしてすり抜け、尾を軽くぱちと振った。静電の火花が、ほどいた糸に小さな噛み跡のように残る。見えない“刻み”だ。俺が指を軽く押し出すと、刻みは糸の芯に潜り、走る荷の“目印”に変わる。
秤は三度。錘が乗り、外套の男が頷き、金が置かれる。その間中、騾馬の耳はぴくりとも動かない。甘い匂いは、ない。砂糖ではない荷。なのに「重さだけで買う」。粉でも穀でもないなら、紙か、乾物か。偽版はもう押さえた。残るのは――。
「布地だ」
ヘルミナが呟く。「浅瀬」の銘柄。軽く作れば利益が出る。重さは帳場で改ざんする。だが、この袋は重い。重すぎる。帳に書かれた重さを“合わせる”ために、異物を混ぜている可能性。
「下に石。上に布」
レオンが錘の揺れを目で読みながら囁いた。あり得る。混ぜ物は、秤の揺れ方で分かる。揺れに“粘り”が出る。錘の戻りに微妙な遅れ。
黒外套は秤を終えると、金を婆さんの前に三枚ずつ置き、すぐ梶棒を返した。渡しを使わない。上流の浅瀬へ回るつもりだ。橋を避ける路。峠へ向かう荷のやり方だ。
「追う?」
サビーネの視線。頷く。ヘルミナは印紙を革袋にしまい、レオンは錘を布にくるむ。イリアが婆さんへ軽く会釈。
「秤、ありがとうございました。今夜は厄介ですね」
「この川は昔から厄介さ。流れは真っすぐでも、人は曲がる」
婆さんが笑い、クロの頭をなでてくれた。クロは目を細め、喉で小さくころころ鳴らす。緊張が少し緩む音だ。
黒外套たちは渡しを離れ、河畔の並木道を北へ取る。足取りは一定、周囲への目配りは最小。慣れている。俺たちは距離を保ち、木の影から影へ移る。クロは地面に腹を近づけ、尻尾の先だけぴっと立てて合図をくれる。
風が変わった。峠の口の方角から、冷たい一筋が降りてくる。音が消える風だ。サビーネの睫毛が揺れ、矢筒が一度だけこつと鳴る。前方、路の真ん中に不自然な黒。倒木――いや、違う。片側だけが浮いている。ロープだ。引けば落ちる仕掛け。後ろの二人が通り過ぎた瞬間に路を塞ぐつもりだ。
俺は掌を低くして小さく押し出し、路面の砂をなでる。砂が返した音は、乾いていた。仕掛けの木は軽い。落ちたときの“重さ”で動きを止める型ではない。目的は閉じ込めること。囲い込みだ。
そのとき、右の笹藪で金属が軽くかちと鳴った。弩の爪。左の土手の陰では、短いささやき。下手な連係。だが、数はいる。尾をつける者を狩る罠だ。
クロが一歩、俺の足首に前足を置く。ちょん。目だけが言う。「いる」。俺は頷き、サビーネと視線を結ぶ。彼女は矢を半引きで保ち、イリアは身を低く、小石を三つ拾って指の間へ。レオンは錘の袋を脇に寄せ、ヘルミナは封蝋の箱を背に回した。誰も刃を抜かない。だが、抜ける位置にはいる。
黒外套たちは気づいているのかいないのか、歩調を崩さない。いや――崩さないことで合図している。守りの連中に「予定どおり」を送っている。つまり、彼らも囮か。上に「指」がいる。
路の上、鳥が一羽、低く横切った。尾の白い小さな鳥。次の瞬間、倒木ががたんと落ちた。土埃が上がり、空気がひと押し逆巻く。右の藪から弩がぶんと鳴り、矢が一本、路面にべちと刺さる。左の土手から短剣がひとつ、様子を見るように投げられた。俺は掌を返し、ひと息だけ風を斜めに起こす。矢の頭が地に沈み、短剣は土手に跳ね返って落ちた。視界の端で、クロの毛がぶわっと逆立つ。雷が好きな猫は、空気の擦れ音に敏い。
「前へ!」
サビーネの声。短い。黒外套たちは倒木の隙を潜って駆け抜け――振り返らない。やはり囮。その背に、俺が刻んだ“雷印”が淡く光った。距離が開いても追える。
藪の中の足音が散る。囲み切る算段が崩れたのだろう。だが、終わりではない。峠道はこの先で狭くなる。真正面から塞がれたら、騾馬も通れない。荷はどこかで枝道に抜ける。そこが“口火”だ。
俺はクロを腕に抱き上げ、一度だけ目を合わせた。瞳がまっすぐに返す。「だいじょうぶ」。尻尾が俺の手首をぴとと叩く。温かい。
「倒木の基部、見てくる」
レオンが身を低くして走り、楔を一本、木の下から抜いた。軽い木だ。人が二人いれば上がる。上がれば路は開く。ヘルミナが手ぬぐいで砂を払い、滑り止めの砂を一握り撒いた。イリアは石の列を素早く組み替え、足運びの目印を作る。サビーネは藪の口へ一本、矢を浅く刺す。突っ込まれるのを牽制する音だ。
倒木が上がり、路が戻る。そこへ、上流から一陣の風。峠の口が開く合図のように、乾いた草の匂いが降りてきた。遠くで、短く笛。二度。追手の合図だ。黒外套たちは峠へ向けて走っている。俺たちも、行くしかない。
「峠で口火を切る」
サビーネが頷く。レオンが錘の袋を肩に掛け、ヘルミナが封蝋を押さえる。イリアは写し帳を閉じ、クロは肩に乗って尻尾をびんと立てた。
「いく!」
並木道を抜けると、路は右に折れて、岩壁の影へ入る。峠へ上がる一本の筋。そこで――風の音が、一瞬、無くなった。嫌な無音。空気が引かれる。前方の岩棚の下、黒い裂け目。そこに、人の気配が短く揺れた。
踏み出した足を、俺はぎりぎりで止めた。次の瞬間、岩棚の上から砂がざっと落ち、薄い網が路へ滑り落ちた。足を絡める仕掛け。風で押し返すには、近すぎる。
――二歩、遅れていたら、絡め取られていた。
息を一つ、吸って吐く。峠の口は、思ったより近い。火はもう上がりかけている。ここから先は、外側だけでなく、芯を叩く。準備は、できている。
◇
網は足元の砂を舐めるように広がり、路の端で皺を作って止まった。目は粗い。絡めて転ばせるための道具で、捕獲用の強度はない。
「右、崖肩に二。左の藪に一」
サビーネが矢の腹で指し示し、息だけの声で告げた。イリアは石片を三つ、親指と人差し指の間に挟み、地にちょんと印を打って足場を示す。レオンは携行秤の錘袋を投げ縄のように振り、ヘルミナは腰の小瓶を一つ抜いた。中身は砂ではなく、牛脂に混ぜた松脂。投げれば滑り止めにも、逆に足を取らせる泥にも化ける。
先に動いたのは、崖肩の影だ。弩の頭が、岩の影からぬっと出て、すぐ引っ込む。探る動き。次の瞬間、土手の藪から石が一つ、様子見に転がり出た。
クロが俺の肩からぴょんと飛び、網の上を斜めに走った。小さな身体が布目を押し下げ、隙間が一点に寄る。そこへ俺が掌でふっと風を押すと、網の端がくるりと裏返って自分の仕掛け杭に絡んだ。通り道ができる。
「下がれ!」
崖肩から声が割れた。次の刹那、短い笛が二回。倒木の合図と同じ数。囲い込みはやめ、狙いは足止めへ切り替わったか。
レオンの錘が、藪の口へひゅっと飛んだ。鈍い金属音。枝に引っ掛けて一瞬視界を切り、その間にサビーネの矢が崖肩の岩をぱしっと叩く。音だけで十分だ。顔が引っ込む。
「進む! 左、足下注意!」
サビーネが先に飛び、イリアが続く。ヘルミナが松脂の小瓶を地にぱちと割り、網の端をぬらして滑るのを止めた。俺はクロを抱え直し、風で砂埃を前へ押して視線を奪う。
峠道はそこから狭く、岩棚の下をひと筋に通る。前方、黒外套の背はもう見えない。だが、尻尾の先で刻ませた“雷印”は、指先の内側に淡く触れている。追える距離だ。
岩棚の下、路が一度だけ広がる場所に出た。誰かが待っていた。身の丈のある男がひとり、両手を広げて路の真ん中に立つ。外套は灰。腕に革の輪。顎が鋭く、目に刺がある。
「お前たち、峠で迷うな。ここから先は商いの路だ」
言葉だけは柔らかい。だが、後ろの影が動いた。男の背の岩陰に、細身が二。短剣の柄に手が置かれている。
「路は誰のものでもない」
サビーネが弦を半引きで言い返す。男は肩をすくめた。
「では“重さ”の話をしよう。秤は渡しで済んだ。袋は重さのぶん、価値がある」
「袋の下に石を敷く価値は、いくら?」
ヘルミナが一歩前に出た。男の唇が薄く歪む。図星だ。背後の細身の一人が短剣の角度を変える。
風が、ほんの一瞬止まった。峠の口の向こうで空気が入れ替わる気配。男が目だけで合図し、岩陰から煙壺が一つ、ぽとりと落ちた。白い煙がふわっと広がる。鼻に刺さらない。甘くも辛くもない。視界だけを奪う煙。
「クロ」
「ここ」
足首にちょんと前足。位置は分かる。俺は煙の縁で掌を返し、上へ持ち上げる風を敷いた。白い膜が頭上へずると引き上げられ、崖に沿って流れていく。男の目が一瞬見開かれる。もう一度、指先で風をねじる。煙は渦を巻き、落ちてきた方向へぼすんと戻った。投げ手が咳き込む。
その隙に、サビーネの矢が男の足元、岩の割れ目にかつと刺さった。威嚇。イリアの石が二つ、背後の細身にぴし、ぴしと当たる。痛みだけ。レオンは錘袋をぶらぶらさせながら一歩前へ出て、男の視線を引いた。ヘルミナは男の言葉の隙を逃さず、袋の口に革の札をぺたりと付ける。封印札――剥がせば跡が残る。
「退け。今ならまだ尖った方で話せる」
サビーネの低い声に、男の顎がさらに尖った。
「“尖っていない”やり方で貫通してきた連中の口じゃないな」
「尖らせる前に止めたほうが街に残る」
「街? 峠の向こうの話も知っているのか?」
男は笑い、左手をひらりと振った。合図。崖上の影がひとつ、路の横の滑り岩をごろりと転がす。狙いは荷ではなく、足場。石ががらと崩れ、路の端がえぐれた。足を取られれば、前に出る速度が落ちる。あの騾馬たちが通り抜けるには丁度いい幅が開く。
クロがその崩れ縁にぴたと張り付き、前足で小さく掻いた。かり、かり。先っぽだけで。次の瞬間、尻尾をぴんと立て、空に向かってぴくと振る。ぱちと青い火が弾け、崩れた砂礫の表面に細い線が走った。目に見えるほどではない。だが、俺の指先はその線を“掴める”。
俺は崩れ縁へ息を滑らせる。風に“触れる”感覚が掌の内側に集まり、砂粒の重さが揺れに変わる。線の上をなぞると、崩れた砂が一度だけ固まる。足を乗せる一歩ぶんの“硬さ”。サビーネがそこへ足を置き、矢の角度を上げる。
「上、右!」
彼女の声。矢がぱすと飛び、崖縁の手にがつと当たる。指が弩から離れる。落ちた矢は路面にべち。崖上の影が動揺した一拍で、レオンが錘袋をくるりと振って、崖上の細い枝に引っ掛けた。かちゃと金具が鳴り、枝が視界を隠す。男の頬に初めて焦りが浮かぶ。
「退けと言った」
サビーネの矢尻が、男の足首と地面の間の、もっとも嫌な位置に静かに移動した。男は舌打ちをひとつし、背後の細身に顎で合図を送る。細身の一人が短剣を下げ、もう一人が崖上へ退いた。引くつもりだ。峠の奥へ流すために。
俺は男の視線から半歩ずれて、路端の袋に手を伸ばした。封印札の端を指ではじく。革の下でざらりとした感触。布の重さではない。下からごろと丸い形が指に当たる。
「石を抜いて軽くしたぶん、帳場で紙を重くする。よくある手だ」
ヘルミナが淡々と言うと、男は表情を変えないまま肩をすくめた。
「重い布を欲しがるのは、お前たちのほうだろう。手間賃を払ってもらうだけ」
「なら、その石は今ここで返す」
レオンが袋の口を指で割り、掌一杯の小石をざらと掬った。川石だ。角が取れている。浅瀬の色。男の目が一瞬だけ苛立ちに細くなる。
崖上で笛が短く二度。合図が繰り返された。峠のさらに先、切通しで何かが動いた。黒外套の囮は、予定の地点まで荷を運ぶ。そこで“継ぎ手”がいる。口火は、そこだ。
「引くぞ」
男が決め、後ろの影が崖の陰へ消えた。争わない。峠の先で口を開くつもりだ。ここで時間を潰すのは得策ではない。
風が戻る。岩肌を撫でる音が耳の奥に薄く通る。クロが肩にぴょいと戻り、耳をぴくと動かした。
「まえ、におい、かわる」
「粉じゃない匂い?」
「かわ、いし、ひと、すこし、くさ」
切通しの手前で、荷を受ける連中が待っている。峠の風に消えない匂い――獣脂。滑車に塗る用の。樽で来る。つまり、ここから先は“滑らせて”運ぶ気だ。峠の腹に張った縄に滑車を掛け、袋を吊って越す。騾馬は囮で、重い袋は上から下へ流す。
「滑車の音が出る。隠せない」
サビーネが顎を上げる。イリアは写し帳の端の頁にさらさらと走り書きし、ヘルミナは封蝋の箱を閉めた。レオンは錘をしまい、俺はクロの背中をすっと撫でてから、指先を空気に立てた。
峠の切通しが見える場所に出た。岩と岩の間に、暗い口。そこに、紐の筋が三本、上から斜めに垂れ、滑車が二つ。黒外套の囮二人は、そこへ袋を運び入れるふりをして、実は脇へ抜けた。中の人影は五、六。滑車の紐に手がかかる。樽が一つ、ぎいと音を立てた。
ヘルミナが小さく唇を噛み、耳元でささやく。
「獣脂、火が入ればよく燃える。けど、ここで火は出さない。風で戻す?」
「風だけだと力比べになる。音を切る」
俺は切通しの口の上、岩の角に視線を滑らせた。風が当たって生まれるひゅうという細い音。そこに、静かな“壁”を立てる。音は壁で折れ、切通しの中へ戻る。滑車のぎいが、二重に重なって自分たちの耳に返る。
「うるせえ、止めろ!」
「紐が鳴ってるだけだ!」
内側の声が乱れる。滑車の油が足りないのか、獣脂が冷えているのか。どちらにせよ、今は「耳」を攻めれば手が迷う。サビーネがその隙に岩の縁へ矢をぱすと置き、足場を切ろうとする影の前でかつと弾いた。レオンが腰の鉤縄を投げ、滑車の支点の一本にかしゃと絡める。
「いま! 上の支え、押す!」
ヘルミナが声を出す前に、クロが肩から飛んだ。切通しの縁へすたたっと駆け、支えの木杭の頭を前足でかりとひっかく。ぱちと青い火花。その瞬間、俺は風を杭の横へぎゅっと押し、楔にかかった「遊び」を外した。木杭が半分だけ浮き、滑車の角度がきゅっと変わる。張りが崩れ、樽がわずかに戻る。中の人影が一斉に手を出し、体勢が崩れた。
イリアの石がぴし、ぴしと二発。手に当たり、叫びが上がる。サビーネの矢が滑車の輪の脇、木の肉にぐさ。輪が傾き、樽の腹が岩にごんと当たって止まった。獣脂の匂いが濃くなる。火は、ない。よかった。
崖の上で、短い笛が三度。新しい数。黒外套の囮は峠の裏へ抜けた。内側の連中も、合図どおりに引くつもりだ。荷は置いていく。口火は切らせた。次は、手繰る。
切通しの口に、灰の外套がひとり現れた。顎の鋭い、さっきの男だ。息は乱れていない。目だけが怒っている。
「峠の路で暴れるのは、どっちだ」
「暴れていたのは秤だよ」
レオンが錘袋を肩に回し、淡々と言い返す。男の視線がその袋にちろと落ちた。計り直されるのを嫌がる目だ。
「袋を開ける」
ヘルミナが封印札を指で押し、革をぺりと剥がした。中から出たのは、予想どおりの川石と、薄い布の端。浅瀬の銘柄。端に付いた印は、狐。男の頬がぴくりと動いた。
「……売りたいのは布じゃない。路だ」
男が吐き捨てるように言った。峠の路を自分たちの“価値”として売る。秤も、印も、そのための飾りにすぎない。
「路は貸し借りできるけど、盗めない」
イリアが静かに言い切った。写し帳を胸に抱え、黒い眼がまっすぐに男を見ている。小柄だが、目は揺れない。
沈黙。男は鼻で笑い、肩を落とした。
「今日は負けだ。だが、峠はひとつじゃない」
崖の上でまた笛が二度。退きの合図。男は身体をひねり、切通しの影に溶けた。追えば捕れる距離。けれど、樽と袋がここにある。証拠は十分だ。俺たちは目を合わせる。サビーネが小さく首を横に振り、クロが肩の上でふると尾を揺らした。追いすぎない。ここで切る。
ヘルミナが樽の栓を半分だけ抜き、獣脂を指先でちょんと取って匂いを確かめる。
「山側の工房の脂じゃない。南の谷だね。混ぜものの臭いが薄い」
「谷を越えてる」
レオンが頷く。「尾は明日へ回せる。今は押収と報告」
袋の中から、薄い蝋板が一枚出てきた。狐印の刻み、小さな符丁、そして――《夜四/峠裏/笛三》。今夜の“終い”の合図が書いてある。あと一度、笛が三度鳴れば、峠の裏で手仕舞い。荷は散る。つまり、ここが今夜の最後だ。
「終わらせる」
サビーネが言い、矢を収めた。イリアは封紙に朱を入れ、ヘルミナが押印する。レオンは錘で袋の“正味”を計り直し、俺は切通しの上へ風で砂をさらと一筋流して、戻ってくる靴跡の道筋を薄く描いた。クロは樽の影から小さな蜥蜴をじっと見つめ、尻尾をぴぴと二回弾いた。緊張がほどけた合図だ。
笛が遠くで、三度、短く鳴った。峠の裏で終い。ここは静かになっていく。夜の匂いが戻る。川の湿りと、草の乾きと、獣脂の薄い甘さ。その全部が、もう“証拠”の匂いに変わっている。
「戻ろう。関所で秤の話を通す」
レオンが樽の栓を締め直し、サビーネが先に立つ。イリアは写し帳を抱え、ヘルミナは封印札の袋を肩にかけた。クロは俺の肩にすりと乗り、頬をこつんと当ててくる。汗で濡れた髪に小さな鼻先。冷たくて、少しくすぐったい。
「ありがと、クロ」
「うん」
峠の風が、今度は背中を押してくれた。口火は切った。次は、燃え広がらないように囲いを作る。町に戻れば、秤と印の話は通じる。狐の尾は、これで束ねられる。ここからさらに奥――それは、明日の路だ。
◇
網は足元の砂を舐めるように広がり、路の端で皺を作って止まった。目は粗い。絡めて転ばせるための道具で、捕獲用の強度はない。
「右、崖肩に二。左の藪に一」
サビーネが矢の腹で指し示し、息だけの声で告げた。イリアは石片を三つ、親指と人差し指の間に挟み、地にちょんと印を打って足場を示す。レオンは携行秤の錘袋を投げ縄のように振り、ヘルミナは腰の小瓶を一つ抜いた。中身は砂ではなく、牛脂に混ぜた松脂。投げれば滑り止めにも、逆に足を取らせる泥にも化ける。
先に動いたのは、崖肩の影だ。弩の頭が、岩の影からぬっと出て、すぐ引っ込む。探る動き。次の瞬間、土手の藪から石が一つ、様子見に転がり出た。
クロが俺の肩からぴょんと飛び、網の上を斜めに走った。小さな身体が布目を押し下げ、隙間が一点に寄る。そこへ俺が掌でふっと風を押すと、網の端がくるりと裏返って自分の仕掛け杭に絡んだ。通り道ができる。
「下がれ!」
崖肩から声が割れた。次の刹那、短い笛が二回。倒木の合図と同じ数。囲い込みはやめ、狙いは足止めへ切り替わったか。
レオンの錘が、藪の口へひゅっと飛んだ。鈍い金属音。枝に引っ掛けて一瞬視界を切り、その間にサビーネの矢が崖肩の岩をぱしっと叩く。音だけで十分だ。顔が引っ込む。
「進む! 左、足下注意!」
サビーネが先に飛び、イリアが続く。ヘルミナが松脂の小瓶を地にぱちと割り、網の端をぬらして滑るのを止めた。俺はクロを抱え直し、風で砂埃を前へ押して視線を奪う。
峠道はそこから狭く、岩棚の下をひと筋に通る。前方、黒外套の背はもう見えない。だが、尻尾の先で刻ませた“雷印”は、指先の内側に淡く触れている。追える距離だ。
岩棚の下、路が一度だけ広がる場所に出た。誰かが待っていた。身の丈のある男がひとり、両手を広げて路の真ん中に立つ。外套は灰。腕に革の輪。顎が鋭く、目に刺がある。
「お前たち、峠で迷うな。ここから先は商いの路だ」
言葉だけは柔らかい。だが、後ろの影が動いた。男の背の岩陰に、細身が二。短剣の柄に手が置かれている。
「路は誰のものでもない」
サビーネが弦を半引きで言い返す。男は肩をすくめた。
「では“重さ”の話をしよう。秤は渡しで済んだ。袋は重さのぶん、価値がある」
「袋の下に石を敷く価値は、いくら?」
ヘルミナが一歩前に出た。男の唇が薄く歪む。図星だ。背後の細身の一人が短剣の角度を変える。
風が、ほんの一瞬止まった。峠の口の向こうで空気が入れ替わる気配。男が目だけで合図し、岩陰から煙壺が一つ、ぽとりと落ちた。白い煙がふわっと広がる。鼻に刺さらない。甘くも辛くもない。視界だけを奪う煙。
「クロ」
「ここ」
足首にちょんと前足。位置は分かる。俺は煙の縁で掌を返し、上へ持ち上げる風を敷いた。白い膜が頭上へずると引き上げられ、崖に沿って流れていく。男の目が一瞬見開かれる。もう一度、指先で風をねじる。煙は渦を巻き、落ちてきた方向へぼすんと戻った。投げ手が咳き込む。
その隙に、サビーネの矢が男の足元、岩の割れ目にかつと刺さった。威嚇。イリアの石が二つ、背後の細身にぴし、ぴしと当たる。痛みだけ。レオンは錘袋をぶらぶらさせながら一歩前へ出て、男の視線を引いた。ヘルミナは男の言葉の隙を逃さず、袋の口に革の札をぺたりと付ける。封印札――剥がせば跡が残る。
「退け。今ならまだ尖った方で話せる」
サビーネの低い声に、男の顎がさらに尖った。
「“尖っていない”やり方で貫通してきた連中の口じゃないな」
「尖らせる前に止めたほうが街に残る」
「街? 峠の向こうの話も知っているのか?」
男は笑い、左手をひらりと振った。合図。崖上の影がひとつ、路の横の滑り岩をごろりと転がす。狙いは荷ではなく、足場。石ががらと崩れ、路の端がえぐれた。足を取られれば、前に出る速度が落ちる。あの騾馬たちが通り抜けるには丁度いい幅が開く。
クロがその崩れ縁にぴたと張り付き、前足で小さく掻いた。かり、かり。先っぽだけで。次の瞬間、尻尾をぴんと立て、空に向かってぴくと振る。ぱちと青い火が弾け、崩れた砂礫の表面に細い線が走った。目に見えるほどではない。だが、俺の指先はその線を“掴める”。
俺は崩れ縁へ息を滑らせる。風に“触れる”感覚が掌の内側に集まり、砂粒の重さが揺れに変わる。線の上をなぞると、崩れた砂が一度だけ固まる。足を乗せる一歩ぶんの“硬さ”。サビーネがそこへ足を置き、矢の角度を上げる。
「上、右!」
彼女の声。矢がぱすと飛び、崖縁の手にがつと当たる。指が弩から離れる。落ちた矢は路面にべち。崖上の影が動揺した一拍で、レオンが錘袋をくるりと振って、崖上の細い枝に引っ掛けた。かちゃと金具が鳴り、枝が視界を隠す。男の頬に初めて焦りが浮かぶ。
「退けと言った」
サビーネの矢尻が、男の足首と地面の間の、もっとも嫌な位置に静かに移動した。男は舌打ちをひとつし、背後の細身に顎で合図を送る。細身の一人が短剣を下げ、もう一人が崖上へ退いた。引くつもりだ。峠の奥へ流すために。
俺は男の視線から半歩ずれて、路端の袋に手を伸ばした。封印札の端を指ではじく。革の下でざらりとした感触。布の重さではない。下からごろと丸い形が指に当たる。
「石を抜いて軽くしたぶん、帳場で紙を重くする。よくある手だ」
ヘルミナが淡々と言うと、男は表情を変えないまま肩をすくめた。
「重い布を欲しがるのは、お前たちのほうだろう。手間賃を払ってもらうだけ」
「なら、その石は今ここで返す」
レオンが袋の口を指で割り、掌一杯の小石をざらと掬った。川石だ。角が取れている。浅瀬の色。男の目が一瞬だけ苛立ちに細くなる。
崖上で笛が短く二度。合図が繰り返された。峠のさらに先、切通しで何かが動いた。黒外套の囮は、予定の地点まで荷を運ぶ。そこで“継ぎ手”がいる。口火は、そこだ。
「引くぞ」
男が決め、後ろの影が崖の陰へ消えた。争わない。峠の先で口を開くつもりだ。ここで時間を潰すのは得策ではない。
風が戻る。岩肌を撫でる音が耳の奥に薄く通る。クロが肩にぴょいと戻り、耳をぴくと動かした。
「まえ、におい、かわる」
「粉じゃない匂い?」
「かわ、いし、ひと、すこし、くさ」
切通しの手前で、荷を受ける連中が待っている。峠の風に消えない匂い――獣脂。滑車に塗る用の。樽で来る。つまり、ここから先は“滑らせて”運ぶ気だ。峠の腹に張った縄に滑車を掛け、袋を吊って越す。騾馬は囮で、重い袋は上から下へ流す。
「滑車の音が出る。隠せない」
サビーネが顎を上げる。イリアは写し帳の端の頁にさらさらと走り書きし、ヘルミナは封蝋の箱を閉めた。レオンは錘をしまい、俺はクロの背中をすっと撫でてから、指先を空気に立てた。
峠の切通しが見える場所に出た。岩と岩の間に、暗い口。そこに、紐の筋が三本、上から斜めに垂れ、滑車が二つ。黒外套の囮二人は、そこへ袋を運び入れるふりをして、実は脇へ抜けた。中の人影は五、六。滑車の紐に手がかかる。樽が一つ、ぎいと音を立てた。
ヘルミナが小さく唇を噛み、耳元でささやく。
「獣脂、火が入ればよく燃える。けど、ここで火は出さない。風で戻す?」
「風だけだと力比べになる。音を切る」
俺は切通しの口の上、岩の角に視線を滑らせた。風が当たって生まれるひゅうという細い音。そこに、静かな“壁”を立てる。音は壁で折れ、切通しの中へ戻る。滑車のぎいが、二重に重なって自分たちの耳に返る。
「うるせえ、止めろ!」
「紐が鳴ってるだけだ!」
内側の声が乱れる。滑車の油が足りないのか、獣脂が冷えているのか。どちらにせよ、今は「耳」を攻めれば手が迷う。サビーネがその隙に岩の縁へ矢をぱすと置き、足場を切ろうとする影の前でかつと弾いた。レオンが腰の鉤縄を投げ、滑車の支点の一本にかしゃと絡める。
「いま! 上の支え、押す!」
ヘルミナが声を出す前に、クロが肩から飛んだ。切通しの縁へすたたっと駆け、支えの木杭の頭を前足でかりとひっかく。ぱちと青い火花。その瞬間、俺は風を杭の横へぎゅっと押し、楔にかかった「遊び」を外した。木杭が半分だけ浮き、滑車の角度がきゅっと変わる。張りが崩れ、樽がわずかに戻る。中の人影が一斉に手を出し、体勢が崩れた。
イリアの石がぴし、ぴしと二発。手に当たり、叫びが上がる。サビーネの矢が滑車の輪の脇、木の肉にぐさ。輪が傾き、樽の腹が岩にごんと当たって止まった。獣脂の匂いが濃くなる。火は、ない。よかった。
崖の上で、短い笛が三度。新しい数。黒外套の囮は峠の裏へ抜けた。内側の連中も、合図どおりに引くつもりだ。荷は置いていく。口火は切らせた。次は、手繰る。
切通しの口に、灰の外套がひとり現れた。顎の鋭い、さっきの男だ。息は乱れていない。目だけが怒っている。
「峠の路で暴れるのは、どっちだ」
「暴れていたのは秤だよ」
レオンが錘袋を肩に回し、淡々と言い返す。男の視線がその袋にちろと落ちた。計り直されるのを嫌がる目だ。
「袋を開ける」
ヘルミナが封印札を指で押し、革をぺりと剥がした。中から出たのは、予想どおりの川石と、薄い布の端。浅瀬の銘柄。端に付いた印は、狐。男の頬がぴくりと動いた。
「……売りたいのは布じゃない。路だ」
男が吐き捨てるように言った。峠の路を自分たちの“価値”として売る。秤も、印も、そのための飾りにすぎない。
「路は貸し借りできるけど、盗めない」
イリアが静かに言い切った。写し帳を胸に抱え、黒い眼がまっすぐに男を見ている。小柄だが、目は揺れない。
沈黙。男は鼻で笑い、肩を落とした。
「今日は負けだ。だが、峠はひとつじゃない」
崖の上でまた笛が二度。退きの合図。男は身体をひねり、切通しの影に溶けた。追えば捕れる距離。けれど、樽と袋がここにある。証拠は十分だ。俺たちは目を合わせる。サビーネが小さく首を横に振り、クロが肩の上でふると尾を揺らした。追いすぎない。ここで切る。
ヘルミナが樽の栓を半分だけ抜き、獣脂を指先でちょんと取って匂いを確かめる。
「山側の工房の脂じゃない。南の谷だね。混ぜものの臭いが薄い」
「谷を越えてる」
レオンが頷く。「尾は明日へ回せる。今は押収と報告」
袋の中から、薄い蝋板が一枚出てきた。狐印の刻み、小さな符丁、そして――《夜四/峠裏/笛三》。今夜の“終い”の合図が書いてある。あと一度、笛が三度鳴れば、峠の裏で手仕舞い。荷は散る。つまり、ここが今夜の最後だ。
「終わらせる」
サビーネが言い、矢を収めた。イリアは封紙に朱を入れ、ヘルミナが押印する。レオンは錘で袋の“正味”を計り直し、俺は切通しの上へ風で砂をさらと一筋流して、戻ってくる靴跡の道筋を薄く描いた。クロは樽の影から小さな蜥蜴をじっと見つめ、尻尾をぴぴと二回弾いた。緊張がほどけた合図だ。
笛が遠くで、三度、短く鳴った。峠の裏で終い。ここは静かになっていく。夜の匂いが戻る。川の湿りと、草の乾きと、獣脂の薄い甘さ。その全部が、もう“証拠”の匂いに変わっている。
「戻ろう。関所で秤の話を通す」
レオンが樽の栓を締め直し、サビーネが先に立つ。イリアは写し帳を抱え、ヘルミナは封印札の袋を肩にかけた。クロは俺の肩にすりと乗り、頬をこつんと当ててくる。汗で濡れた髪に小さな鼻先。冷たくて、少しくすぐったい。
「ありがと、クロ」
「うん」
峠の風が、今度は背中を押してくれた。口火は切った。次は、燃え広がらないように囲いを作る。町に戻れば、秤と印の話は通じる。狐の尾は、これで束ねられる。ここからさらに奥――それは、明日の路だ。
◇
白樺亭の戸を押すと、湯気が胸に当たった。鍋の匂い、焼いたパンの香り。マルタが大椀を並べ、リナが湯を注ぐ。
「顔が帰ってきたね。今朝は豆と麦。猫さんは塩抜き」
「お願いします」
クロは椅子に前足を揃えて座り、湯気をくんと嗅いでから小さくうなずく。出された小皿を前歯でこつこつ崩し、時々こちらを見上げて「おいしい」を目で言う。見ていたマルタが笑って、包みを一つ差し出した。
「干し魚。灰玉に渡しておいで」
「預かります」
腹が落ち着くと、医務。セレナが手を洗い、脇の掠りを見て薄く薬を塗る。
「動きは問題なし。今日は冷えるから、帯を一枚追加して」
「はい」
クロの頭に指を近づけると、彼はすんと嗅いでから緩く目を閉じた。「匂いで安心するんだよ」と言わんばかりだ。
ギルドではミレイユが札束を揃え、簡潔に段取りを出す。
「正午、北門の帳場で立ち会い。セルジオ側は印判人を二人付ける。――人目を集めすぎないこと。商人の足は“静けさ”で戻る」
「了解」
「それと、灰玉の礼は“音の小さい”包みでね。紙のかさかさは猫の敵」
北門へ戻ると、灰玉が簀の子で丸くなっていた。干し魚の包みを見せると、片目がぱちと開く。手のひらに乗せると、灰玉はそっと咥えて、帳場の奥へ案内するように先を歩いた。クロが隣を並び、二匹の尾がぴぴと合図みたいに揺れる。
帳場はもう人で詰まっていた。セルジオが印判人とともに机の端に立ち、ランベルトが入口の影を固める。狐印の若い書記が二人、帳匠(ちょうしょう)らしい年配が一人。年配は顔色を作るのが上手で、口元に笑みを載せつつ目は動かさない。
「昨夜の出納、こちらで拝見」
セルジオの声は低い。年配が帳面を差し出す。表紙は整っている。だが、綴じ糸の端が新しい。イリアが目で合図を寄越す。俺は机の脚を軽く叩いて「綴じ目」の位置を確認し、糸の返しを覗き込む。細い針でやり直した跡。ページの端、ほんのわずかに“風合い”が違う。
「昨日は、ここからここまでで締めましたね」
ヘルミナが指を置く。指先の温度だけで紙がふわと動き、貼り込みの僅かな段差が浮く。年配が眉根だけ動かす。
「紙は紙だ。数字は合っている」
「数字は合うように貼れる」
レオンが錘袋を机に置き、黙って糸の端を“見せる”。沈黙が机の上を走る。灰玉が机の角にぴょんと乗り、問題の頁の上でどすんと座った。誰かの喉が鳴る。猫は苦手な相手の上に座る。知っている者は、知っている。
セルジオが印判人に顎を引き、印紐を渡す。頁の端を三点留め、現状のまま預かり冊に入れ替える。「二重帳」の可能性を、言葉にせず形で固めていく。年配は最後まで笑みを崩さなかったが、若い書記のひとりは耳たぶに汗を浮かべていた。
「昨夜、帳面を落とした者は?」
ランベルトの問いに、奥から別の若い衆が青い顔で出てくる。灰玉がそちらへすたすた歩き、足元でくるりと一回転。尻尾で足首をぺし。本人がさっと目を逸らした。
「詰所で話を聞こう」
セルジオが静かに告げる。年配の視線が一瞬鋭くなる。斜め後ろで腕を組んでいた別の男が、わずかに体重を移した。逃げ足の気配。外で、荷車の車輪がきいと鳴る。
クロが肩から飛び降り、戸口へ走る。車輪止めの楔に前足をぎゅっとかけ、身体を細く伸ばして踏ん張る。御者が驚いて手を離し、車輪は楔に噛んだまま止まった。ほんの一拍の遅れ。それで十分だった。ランベルトが扉脇から滑り出て、男の肘を抑える。抵抗は短かった。糸が切れる音はしない。息が一つ、空気に溶けた。
帳面は関所預かりになり、年配には“呼出”が渡された。今日のうちは逃げない。逃げれば印が変わる。狐の尾は、根元を押さえれば動けない。人波がいっせいに緩む。灰玉は干し魚の包みをかりと咥え、簀の子へ帰っていった。クロがその後ろ姿を見送り、俺のところへ戻ってくる。胸の前でぴょんと跳ねて、爪を出さないまま服にしがみついた。よくやった、と額を指でとんと弾くと、目を細める。
関所での手続きが終わった頃には、陽は天井の梁の上まで来ていた。外に出ると、風が乾いている。ミレイユが使いの少年を寄越していて、札が三枚届く。《黒灯の撤去完了》《狐印帳場の立ち会い》《夜間巡回は軽装》。ギルドの記録は、いつも無駄がない。
「午後はどうする?」
レオンが肩を回す。サビーネは短く考え、北門の通りを一度眺めた。
「狐印の“外側”は通せた。内側は今夜、セルジオの線で詰める。私たちは路の“穴”を先に埋めよう。甘粉の残り、峠下の曲がり角。明るい時間に“目印”を置く」
目印といっても、大げさな杭ではない。馬が自然に避ける淡い香草を、風の筋に合わせて束ね、路肩にすうっと載せるだけだ。匂いの線を、匂いで消す。クロが鼻で“筋”を読む。俺が小さな風で“流し”を整える。ヘルミナが包帯を切って束をくるみ、イリアが地図の端に印を付ける。レオンが重い方を持ち、サビーネが一歩先で人の流れを整える。
夕方、峠下の曲がり角に最後の束を置く頃には、馬の耳が楽そうに揺れていた。御者が帽子を持ち上げて礼をする。
「通りが軽い」
「峠の火も消えた。今夜は静かになる」
そう答えると、クロが尻尾でふりふりと「そのとおり」と言う。思わず笑ってしまい、御者も笑った。
陽が傾く。関所へ短報を入れ、ギルドに戻る。ミレイユが手短にまとめてくれた。
「今夜は北門の“帳”が本番。セルジオの手で詰める。あなたたちは外回りを軽く一巡して上がっていい。明日は堰の朝見と、市場の“甘さ抜き”の仕上げ」
白樺亭に帰ると、マルタが鍋の蓋を少し開けた。
「今日はよく動いた顔だ。――雑穀と鶏の煮込み。猫さんは塩抜き」
「いただきます」
クロは椅子でふみふみと前足を動かし、眠気に勝つために大きく一度だけ伸びをした。食べ終えると、包帯の丸を思い出したのか、椅子の上でそれをころと転がし、俺の手元へ押し戻してくる。
「あとで」
「あとで」
部屋に戻り、装備を拭き、紙を整理する。――峠:獣脂押収/狐印・帳場立会/目印束設置。短く書いて、畳んで袋へ。窓を指一本開けると、冷えが頬に触れた。遠く、北門の方角で人の声が小さく重なり、すぐ静かになる。糸は、正しいところへ通り始めた。
灯りを落とす前、クロが胸の上に丸くなる。左前足の黒い点が、布越しにとんと当たる。
「きょう、よくできた?」
「うん。みんなでやった」
「よかった」
そのまま、彼は小さく喉を鳴らした。静かな音。目を閉じる。明日は“甘さ抜き”の仕上げと、堰の朝見。狐の尾はもう一度だけ踏むことになる。それでも、路は戻りつつある。そう思いながら、眠りに落ちた。
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