第40話 「暁を待つ波」

 短く眠って階段を降りると、白樺亭の戸口にはもう港の匂いが立っていた。潮とタール、焼いた魚の煙。外は薄く晴れて、川風が街を撫でていく。

 クロは窓枠に前足を掛けて外を見て、ひげをぴんと前へ。「きょう、うみ」

 「うん。港で鏡を外す。昼のうちに」


 関所経由で港へ出ると、青い帆の船は白布で包まれていた。桟橋には衛兵と水夫、港湾ギルドの腕章を付けた数人。ランベルトがこちらに気づき、短く手を上げる。

 「来たか。船は抑えた。名簿の照合は港湾側でやってる。鏡は塔と外防波の二か所、あと船上に一枚」

 隣に背の高い男が立つ。灰色の髪に海塩が乾いて白く残っている。

 「港湾頭(かしら)のトビアスだ。よろしくな」

 手は硬く、目の奥がよく動く。

 「鏡の取り外しはこっちの指示で。割ると破片で子どもが怪我をする。布で包んで、ねじ穴に栓を残す」

 「分かりました」

 トビアスは桟橋をとん、と靴で叩く。「それから、見物を寄せるな。今日は魚より見ものが多い」


 サビーネは灯台側の見張りへ、イリアは押収控えと写し。俺はクロと一緒に船上の鏡から着手した。

 青帆は巻かれ、マストの途中に、手のひら三枚ぶんの鏡が一枚。金具は新しく、日差しを拾う角度で固められている。

 「ひとまず影に入れたい。クロ、帆布の陰に入れる位置、見える?」

 猫は甲板の継ぎ目をととっと渡り、マストを見上げて尾で「ここ」と点を打つ。

 「そこで止める。帆の影が落ちると反射が弱くなる」


 ロープをもらい、結び目を一回で留め、帆を半歩だけ戻す。鏡面が陰に入った。

 「布を」

 港の若い衆が差し出す。薄い麻布をそっとかぶせ、縁を紐で一周。ねじの頭にタールをつけ、逆回しで固着を切る。きゅと小さく鳴って、金具が動いた。

 「割らずに済むか」

 トビアスが下から見上げる。

 「はい。……おりるよ、クロ」

 「おりる」クロはマストを抱えたままするりと半歩降り、最後は爪をしまって俺の肩にぴょんと移った。甲板に降りた瞬間、船大工の老人が目尻を下げる。

 「よくできた相棒だな。爪を出しっぱなしにしないとこが偉い」

 クロは胸を張り、「けが、しない」と真面目に言った。


 外防波(そとぼうは)の方は、もっと厄介だった。石積みの外側に、小さな三脚。上に鏡がのり、裏に薄い刻み——狐印。風が当たるたび、微かに角度が揺れる仕掛け。

 「遠くの沖からでも拾える位置だな」サビーネが目を細める。「曇天でも、あの角度なら低い太陽で光る」

 「布で包んでから足を切る。海に落とさずにね」

 トビアスが縄梯子を示し、俺と港の衆が降りる。塩で滑る石の面に、クロが鼻先を近づける。「すこし、すべる」

 「分かってる。無理はしない」


 三脚の足には鉛の重し。結びは二重。急造ではない。

 ねじを半回し、麻布をかぶせ、紐を一回し。持ち上げると、海風がすうと走った。思ったよりも軽い。

 「落とすなよ」

 上からランベルト。

 「はい」

 腕にくる重みを逃がしながら、ゆっくりと運ぶ。クロは俺の足の半歩先で足場を探し、濡れた面にぺたぺた肉球を置いていく。最後の段で、後ろ脚がつるっと滑って腰がぺたん。

 「わっ」

 慌てて尾をぴんと立て直し、何事もなかった顔でこほんと咳をした。港の若い衆が笑いをこらえて目を細める。

 「……見なかったことに」

 「みなかったこと」クロはきっぱり復唱して、堂々と胸を張った。


 防波の上に上がると、港湾ギルドの控えが布と藁で受け、鏡は箱に収められた。

 「塔のは?」

 イリアが紙を掲げて走ってくる。「外した。刻みは同じ。狐印/北門系の番号」

 トビアスが短くうなずく。「相手は街中と港を同じ“手”で使ってる。輪の頭は一つだ」


 青帆の船に戻ると、船長を名乗る中年男が名簿を握りしめていた。ひたいに汗。

 「商用の鏡だ。海鳥を見る——」

 ランベルトは淡々と切る。「海鳥を追うには鏡の向きが逆さまだ。言い訳にしては拙い」

 男は口を噤んだ。桟橋の上で船員が二人、視線だけで何かを交わす。逃げ足の合図だ。

 「桟橋、右端」サビーネが低く言った。

 俺は“風”を薄く通し、足音の向きを測る。右端に走った二つの影。そこで一度角を曲がる。

 「追う?」ランベルト。

 「いまは押収が先」

 追えば捕れる。けれど、鏡と蝋板が長く外に晒される方が危ない。港は広く、抜け道が多い。

 「向こうの網置き場へ衛兵を回しておく。足止めだけだ」

 ランベルトが副官を走らせる。俺はトビアスに向き直った。

 「鏡は全部で?」

 「塔一、外防波一、船一。あと、倉庫の二階窓に小さいのが二つ。そっちはさっき外した。光を拾う面は全部、朝のうちにこっちで押さえたよ」


 イリアが薄紙に素早く写し、控えに釘印を付ける。

 「倉庫の窓、方角は?」

 「東を向いていた。暁の光を拾う角度」

 「つまり『外海船・暁』は、時間を示す合図でもある」サビーネが顎を引く。「沖から帆を一度だけ立てて、ここで反応を見る」

 「港外の見張り台に一人増やす。光で返されても、返さない」ランベルトの声は平らだ。

 港湾衆がうなずく。トビアスは短く言う。

 「朝の刻から、海門(かいもん)を半分閉じる。出入りは一列。帆を上げたまま入る船は止めろ」


 ひと息つくと、トビアスが俺の手の包帯を見た。

 「やられたか」

 「かすり傷です」

 「港の仕事は地味に見えるが、刃は静かに出てくる。次は革手(かわて)をつけな。釣り針よりましだ」

 「覚えます」

 彼は工具箱から手頃な革手を一双出してくれた。においはタールと油。手には柔らかく馴染む。

 クロが鼻先でくんと匂い、「つよそう」と真顔で言う。港の衆が笑う。


 「昼のうちにできるのは、ここまでだな」トビアスが港全体を見渡す。「暁は明け方四つ前。外海の風は夜中に変わる。沖の見張りは港湾で持つ。君らは関所経由でセルジオに全部渡してくれ」

 「了解」

 ランベルトがこちらを振り返る。「少年、猫。よくやった。——夜は、早めに目を閉じろ」

 クロが即答する。「ねる」

 「でも、ひとつだけ回りたい」俺はイリアとサビーネを見る。「市場の粉袋。掲示の言い回しを、港の言葉に合わせたい。『路に置かない』だけじゃ、潮場では弱い気がする」

 サビーネは少し考えてからうなずいた。「『船の鼻を下げる匂いは袋の中に』はどう?」

 「いい。港には通じる」イリアが炭筆を走らせる。「“袋の中に”を太くするね」


 港の端を歩く。魚の箱に水が打たれ、氷の白い息が立っている。クロが箱の影を覗きこみ、ぺたと肉球を濡らしてぷんと尻尾を振った。

 「なにかいた?」

 「ちいさい、はやい」

 「鼠だよ」トビアスが笑う。「港では友達だ。追い回さないでくれると助かる」

 「ともだち」クロは少し胸を張って、追いかけるのをやめた。代わりに乾いた網の上をふみふみ。網の目の感触が気に入ったらしく、前足で確かめるたびに満足そうに目を細める。


 桟橋を離れながら、俺は振り返った。白く包まれた青帆、布にくるまれた鏡、塔の上の空白。輪は一旦切れた。だが、刻は動く。

 「夜の前に、街で一枚だけ掲示を差し替える。港と関所、それから市場角。言葉は揃える」

 サビーネが「行こう」と短く言い、イリアは板を抱え直した。クロは尾を高く、「いく」と言って足を早める。


 港のざわめきが背後に薄くなっていく。潮の匂いが、石壁の匂いに重なる。

 暁までに、できることをすべて積む。海の方角に心を置きながら、歩幅を揃えた。



 港を離れて市場へ向かう。屋台は夕方の名残で、紐と紙がひらひらしていた。

 「文言はこれでいく」イリアが板を広げる。

 〈船の鼻を下げる匂いは袋の中に。路には置かない〉

 縁だけ赤で細く囲い、紙角は二結び。クロが紐の端を口にくわえてずいと引く。

 「ありがと。……噛んでない?」

 「かんでない」胸を張る。前歯でそっと押すだけにしているらしい。


 果物屋のフィオナがのぞいて親指を立てた。

 「港言葉、わかりやすいよ。客にも言っとく」

 「助かる。水は塩なしで一本」

 クロが瓶の口をくんと嗅いで、「すっぱい、すこし」。


 掲示をもう一枚、門の柱へ。ランベルトが見張り台から声を落とす。

 「港の鈴は鳴らさない。夜は口だけで回す。——短く頼む」

 「了解」

 イリアが文字の太さを揃える間、クロは柱の根元でふみふみ。指の間に入る木肌が気に入ったらしい。


 関所アルダ。塔影は潮風で冷たかった。

 セルジオに蝋板と控えを渡す。

 「鏡三。刻みは狐印系。外防波は三脚仕掛け。港湾頭トビアスの指示で押収済み」

 セルジオは即座に赤印を押し、頁の余白に短く加える。

 「暁四つ前、港門半閉。帆掲げ入場=停止。見張りを一段増。——君らは一度休め。夜半、港の見張り所で再集合だ」

 「はい」

 クロが紙束の角を指先でちょんと叩く真似をして、「おぼえた」。


 ギルドに戻ると、ミレイユが店先の鈴をちりと鳴らした。

 「港の件、聞いた。掲示の副本ここに。——アキラ、夜前に食べときな」

 台所から薄いスープ。クロの小椀は塩抜き。

 「おいしい」

 「よかった。……それ、持ってって」ミレイユが布包みを出す。「小さい砂袋。掲示の足元にちょいと置くと紙がめくれない」

 クロがうやうやしく受け取り、袋の上に前足をぽす。誇らしげだ。


 医務室でセレナに傷を見せる。脇のかすり傷に薄い薬。

 「夜は冷える。温かいものを一口飲んでから外へ。——猫さんは走らない」

 「はしらない」クロは即答したあと、少し考えて付け足す。「でも、すこしはやくあるく」

 「それはいい」セレナは笑って、猫の額をそっと撫でた。


 日が落ちきる前に、もう一枚だけ。港へ続く坂の手すりに掲示を留める。

 〈光で呼ばれても返さない〉

 船の男たちがそれを見て、互いの顔を確かめ合う。

 トビアスが通りかかり、短く合図。「よし、言い方が港向けだ。——今夜、海門の鎖は俺が見る。あんたらは刻で来い」


 白樺亭に戻って仮眠の支度。マルタが皿を置き、リナが寝具を整える。

 「夜中に起きる顔だ。猫さんの分は、水だけ枕元に」

 「のむ」

 クロは器に鼻先をつけて、ぺろ、ぺろ。そのあと布団の端をふみふみして、丸くなる位置を探す。

 「そこ、俺の枕」

 「ここ、クロのまくら」

 「交代で使うか」

 「こうたい」

 なんとか真ん中で折り合いをつけ、尾を顔にかけられつつ目を閉じた。短く眠る。


 刻三前。外はまだ墨色。風向きが変わって、川筋から冷えが降りてくる。

 関所の鐘がからんと一度だけ。港へ向かう足がいくつも重なった。

 見張り所に入ると、トビアス、ランベルト、港湾の若い衆、衛兵が数名。

 卓の上に簡単な地図。灯台、外防波、海門、桟橋、網置き場。鏡があった場所には×が打ってある。

 「配置はこうだ」ランベルトが短く示す。「桟橋に衛兵二、海門に港湾三。見張り台に一。外防波には今夜は出ない。危ない。——君らは桟橋後方。視界だけ保て」

 サビーネが矢筒を指で叩く。「合図は?」

 「口だけだ。“止まれ”の一言で足を止める。走らせない」

 「了解」

 イリアは紙束を抱え、控えの欄に暁/外海/青帆と太字で見出しを書いた。


 外へ出る。港は暗く、波だけが石をしぃと擦る。鏡を外した塔は黒い影になっている。

 クロが耳を前にして、空気の匂いを拾う。

 「しお、かわる」

 「北へ向いてる。沖の帆は入りたがる」

 「こないで、ってかく?」

 「言うだけにしよう」


 桟橋の足元に腰を下ろし、息を整える。指の感覚を確かめ、革手の縫い目をもう一度押す。

 遠くで、帆のばさという音。誰かが息を呑む。

 「まだ早い」トビアスが静かに言う。「漁の帆はもっと重い音を出す」

 「狐印の船は軽い帆を使う。風を張る音が薄い」サビーネが続ける。

 クロは尻尾の先でぴこと拍を取り、「うすい」


 桟橋の入り口に、港言葉の掲示が三枚並ぶ。夜でも読めるよう、縁の赤が頼りになる。

 〈船の鼻を下げる匂いは袋の中に〉

 〈光で呼ばれても返さない〉

 〈列で入る。走らない〉

 紙の下に、ミレイユにもらった小砂袋がころっと二つ置かれて、紙がめくらない。クロがその上に片足をそっと乗せ、「みはり」。


 刻がひとつ進む。波が少し立つ。沖で灯が一つ、そして消えた。

 「返さない」ランベルトの声が低く均一だ。

 港は静かのまま。誰も光で応えない。


 すこしして、外海の黒に影。帆を上げている。青くは見えない。ただ、帆柱の高さと数が合う。

 「くる」クロの声は小さい。

 「桟橋、列で待て」ランベルトが合図。衛兵が一歩前に出る。トビアスが海門側へ手を上げる。鎖がぎと鳴る。開きは半分。

 帆は少しだけ落ち、船影がゆっくりと海門へ寄ってくる。鏡はもうない。合図は出せない。代わりに、船縁から白い布が一瞬、下ろされた。

 「返さない」サビーネが確認する。

 「返さない」俺も重ねる。


 静かな時間が伸びる。やがて、その船影は海門の手前で止まった。中で誰かが話している。舵がわずかに切られ、船は風上へ身を向け直す。

 「戻るかな」イリアが小声。

 「戻していい。反応をもらわなければ、輪は繋がらない」トビアスの声は落ち着いている。


 その瞬間、桟橋の影でこつと小石が転がった。足。二つ。網置き場へ抜ける細い通路。

 サビーネが顎で示す。

 「行く?」

 「足止めだけ」

 俺は“風”をほんの少し、通路の角に投げる。ほこりがふわと舞い、足がそこで止まる音。衛兵が待ち構え、からんと短い鎖の音で道を塞いだ。走ってきた影が一歩だけ戻る。

 「押さえた」ランベルトが低く告げる。


 沖の船は、結局、入ってこなかった。帆を半分落とし、外海へ向けて滑るように離れていく。

 「反応がないから、諦めたんだ」トビアスが息を吐く。

 「外で別の合図を探すかも」サビーネ。

 イリアが紙の見出しに一行を足す。

 〈暁:外海船、海門手前で転回。応答なし〉


 張り詰めていた空気が、少し緩む。クロがはふと小さくあくび。

 「ねむい」

 「もう少し」頭を撫でると、彼は前足で顔をごしごしし、しゃっきりした顔を作ってから、掲示の砂袋の上にまたそっと片足を置いた。


 静かな港の前で、夜がすべっていく。

 鏡は外した。光は返さない。輪は切れた。

 あとは夜明けを待てばいい。——そう思えたところで、見張り台から低い声。

 「北の外れ、帆影もう一」

 トビアスが顔を上げる。

 「今度は小さい。渡し舟くらいだ」

 ランベルトが短くうなずく。「桟橋はこのまま。……少年、猫、見えるところまでだけ寄れ」

 「了解」

 クロが尾をまっすぐに、「いく」。俺たちは桟橋の影を伝い、波の音に足音を紛らせて前へ出た。


 夜の水面に、小さな舟の輪郭が滲む。帆はない。櫂の音だけ。――鏡はいらない。渡すだけの舟だ。

 俺は指先にわずかな“風”を集めた。櫂が打つ水の方向が、少しだけこちらへ寄る。舟の気配は、港の真ん中ではなく、網置き場の暗がりへ向かっていた。

 「こっちに来る」サビーネが囁く。

 ランベルトの短い合図が、暗闇で静かに散った。

 夜明け前の港は、もう一段、息を潜めた。



 渡し舟は、網置き場の暗がりに沿って来る。櫂の音は小さいのに、波の寄せ方だけが落ちつかない。近づくほど、木と油にまじって、粉の甘さが鼻に乗った。


 桟橋の梁の陰で、サビーネが体勢を低くする。俺は板の継ぎ目を伝って前へ出て、足音を波に紛らせた。クロは先に滑り、杭と杭の間を猫幅で渡る。尻尾が真っ直ぐ立つ。


 舟には二人。手元に小ぶりの樽、網の束。先端の鉤に細い縄が結わえつけてある。岸の網置き場の床板にも、同じ太さの縄が半分隠れて伸びていた。引き合わせれば、静かに荷が上がる仕掛けだ。


 「合図なしでやる気だな」サビーネが囁く。


 俺は呼吸を整え、舟の舳先が網置き場の角をかすめる瞬間を待つ。櫂が水を押し切った刹那、指先に“風”をひと筋。水面の肌をわずかに撫でるだけで、舟底が角にこつと触れた。二人の視線がそちらへ流れる。


 「いま」


 サビーネのささやきと同時に、俺は桟橋の端から身を出し、縄のたるみをつまんですっと外へ引いた。舟の鉤が空を切る。岸の床板の陰から、見張りの黒い影がのそりと現れ、慌てて縄を手繰る——が、端はもう俺の手の中だ。


 「誰だ!」


 舟の男のひとりが短い匕首を抜き、重心を前に寄せる。俺は足をひとつ引き、手首だけで棒を回して刃を落とす角度に差し込んだ。金属が木にきんと鳴り、刃が甲板を掠めて逸れる。もうひとりが腰から小さな筒を持ち上げ、口で栓を抜いた。甘い匂いが濃くなる——粉煙だ。漂えば、港で飼われている馬や犬が鼻を下げる。


 「クロ!」


 猫は縄の上を弾むように走り、筒の先でぴょんと前足をひっかけた。栓が海に落ちる。こぼれた粉は風に乗る前に俺の“水”でぴしゃと濡れて重くなり、甲板に張り付いた。塊は甘いだけの泥に変わる。舟の男が目を見開く。


 上からかんと乾いた音。サビーネの矢が、網置き場の床板と見張りの袖を縫って止めた。「動くな」


 「網だ!」舟の伴が叫び、足元の束を投げようとした。クロが先に飛び、網の端に前歯をかぷと噛み、四足でぐいと後ろに引く。網は半分だけ開き、舟の中でぐしゃりと絡まった。猫の背中がもこっと膨らむ。必死だ。


 俺は棒で舟べりの鉤を払って水に落とし、手の中の縄を桟橋の杭に一回し。ラ ンベルトの衛兵二人が影から抜け、渡し板を踏みしめて舟に乗り込む。「手を見えるところへ!」


 見張りの影が網置き場の奥へ下がろうとした瞬間、桟橋の根元から短い鎖が走った。足首にからんと回り、逃げ道が消える。ランベルトの声が低く落ちる。「止まれ」


 舟の男のひとりが最後の悪あがきで小筒を握り直す。火打ち石で火を入れる気だ。サビーネの二本目が、筒の口縁をぱしと弾いた。火花は海に落ち、灯らない。


 「終わり」サビーネは弦を緩めず、そのまま矢尻で示した。


 舟が波でゆらと傾き、樽のひとつが転がる。樽の栓に狐の刻印。伏せても読めるように、彫りは深い。「狐印」だ。イリアが桟橋の影から出てきて、控えに急いで書き込む。


 「樽、二。粉袋、小。縄、二。——『狐印/渡し舟/網置き場』」


 衛兵が舟の二人を縛って甲板に座らせる。俺は網置き場の床板の板目に目を落とし、釘の新しさを見る。一本、色が違う。指先でこんと叩くと、空洞が返る。釘を抜いて板を上げると、薄い箱が出てきた。蜜蝋で目止めした蓋に、灰色の指の印。〈灰指〉の符牒だ。


 「開ける」


 蜜蝋をこそげて蓋を外す。中は、黒蝋の細い棒が三本、薄革の袋がひとつ、板綴じの帳面。黒蝋棒は黒灯を作る芯、薄革の袋からは銀の印章が転がった。狐の隣に、見慣れない紋。半月と穂の組紋。町場の商家ではない。


 「紋……見覚えがない」イリアが首を傾げる。


 「港の大店にはないな」トビアスが覗き込む。「外の荷主か、間に挟む名義だ」


 帳面を捲る。日付と印、受け渡しの刻。『黒◦ 二』『青帆 一』『北門 三』……さらに下、今日の日付の欄に、薄い墨で『暁 半 網置』とある。今ここだ。


 舟の男の年かさの方が、汗の匂いを濃くする。「運ぶだけだ。中身は知らない」


 ランベルトが短くうなずく。「知ってる。だから手錠は軽くする。だが帳面は置いていく」


 クロが薄革の袋をちょいと前足で押し、「それ、だめなやつ?」

 「だめなやつだ」俺が袋を布で包むと、猫は満足そうに「ふむ」と鳴いて尻尾を立てた。


 「港門は?」サビーネが見張り台の影を仰ぐ。


 「外れの一隻は転回」見張りの若者が答える。「——おい、北の外で笛、ひと声」


 風が抱えてきた音が、ひゅと耳の裏で切れた。外防波の先、沖のどこか。鏡はもうない。返せない。笛は一度きりで止んだ。連絡が途切れたのだろう。


 「輪が切れたな」トビアスが小さく息を吐く。「桟橋、鎖半分。舟は押収。荷は開けるな。——少年、猫、帳面と印章は関所へ」


 「了解」


 舟から降りる際、甲板の縁で足が滑った。濡れた木肌に藻。体が前へ傾く瞬間、クロが前足を俺の脛にぎゅっと掛け、体重をかけて止めてくれる。

 「助かった」

 「アキラ、すべる」真面目な顔。鼻先がくすぐったい。


 桟橋を戻りながら、帳面の後ろをもう一度捲る。最後の頁だけ紙が新しい。角に米粒ほどの黒い点——透かしだ。紙屋の印。街のものではない。谷を越えた先、南の紙。遠い手がここまで伸びている。


 関所の明かりが近づく。塔影の下、セルジオは眠そうな眼で待っていたが、印章を見るなり姿勢が変わった。

 「半月と穂。港内では聞かん紋だ」

 「帳面には暁半の受け渡し。黒灯の芯、印章、黒蝋」

 「受けた。——外の鐘は鳴らすな。夜明けで足を止める」


 控えを渡すと、セルジオは赤印を押し、脇に短く書き添える。

 〈黒灯素材押収/狐印網置仕掛け——輪断〉


 見張り台から「北外、帆影転回」の声。港の風向きが少し緩む。黒い空の下で、海の匂いが淡く入れ替わる。もう一段、夜が浅くなった。


 「戻るか」サビーネが矢筒の口を布で覆う。「波が上がる前に」


 白樺亭へ向かう坂を上がる途中、クロが一度だけ振り返った。港の方角は、もう黒い塊に戻っている。猫は目を細め、ひとつだけふにゃと欠伸をして、俺の足首にこつんと頭をぶつけた。

 「ねる?」

 「少しだけ。夜明け前にもう一度、港を見に行く」

 「うん」


 宿の扉を押すと、台所の灯が小さく残っていた。マルタが湯を温め直し、リナが毛布を持ってくる。

 「帰って来たら顔に出るね。——猫さんは水、こっちは薄い茶」

 クロは器の縁にひげを触れさせ、ぺろ、ぺろ。毛布の端をふみふみして、丸くなる場所を見つけると、尾を鼻に巻いた。

 俺は帳面の角に布を挟み、印章を布袋に入れ直した。指の腹に残った黒蝋の感触が、まだべたつく。


 短い眠りの前に、紙片に三行だけ記す。

 ——狐印・渡し舟・網置仕掛け

 ——黒灯芯・印章・半月穂紋

——外海船、応答なしで転回


 灯を落とす。窓の向こうが、わずかに薄くなる。

 夜は終わりに向かっている。

 次は、暁の波で仕上げる番だ。



 短く眠って、まだ空が群青のうちに港へ戻った。潮は引きはじめ、消波石の頭がところどころ濡れて光っている。見張り台の火は小さく落とされ、かわりに合図旗が束ねて置かれていた。風は東へ。夜より冷たい。


 ランベルトとトビアス、サビーネ、イリア。それから俺とクロ。衛兵が二人ずつ、桟橋の根と外防波の膝で待機している。たしかに輪は切った。けれど「暁半(あかつきなか)」にもう一手を入れてくるなら、今だ。


 クロは板の継ぎ目をひとつずつ踏んで、鼻を海に向けた。

 「しょっぱい。……でも、すこし、あまい」

 「沖から?」

 猫は耳を前に倒し、尾をまっすぐ伸ばして北東を指した。


 薄い靄がひと筋、沖から寄ってくる。靄の裾に、低い影。帆は張っていない。櫂を寝かせた小舟が、消波石沿いをなめてくる。布の色は灰。舳先に巻かれた細紐だけが青い。帳面にあった語、「青帆」。帆を揚げずに名を残す気らしい。


 サビーネが弓を半引き。ランベルトは「まだだ」と目で制す。

 「引き波を見ろ。……岸を擦るぎりぎりで入るぞ」


 俺は呼吸を整え、靄を裂くように“風”を細く伸ばした。霧がほどけて、水面の輪郭が現れる。舟は外防波の陰を選び、消波石と消波石の狭い間へ鼻を入れるつもりだ。そこに入られると、岸の影からでは手が届かない。


 「外へ振る」

 トビアスが短く言い、衛兵が綱を持って外側の杭を渡る。俺は水面の肌に“水”を薄く乗せ、舳先の角度を少しだけ押し出す。舟の男が櫂で戻そうとするが、今度は外から小さなうねりが一枚だけ重なる。大きくは変えない。舳先だけ、ほんの半歩分。


 サビーネの矢が、舳先の縁をぱしと叩いた。合図。ランベルトが棒旗を上げ、外防波の膝に回した衛兵が綱をひゅと投げる。綱は舟べりの鉤に絡み、舟は思い通りに間へ入れず、外側ですると腹を擦って鈍い声を出した。


 「止まれ!」

 最初に起き上がったのはクロだった。猫は桟橋の欄干からぴょんと消波石へ飛び、舟の舳先に向かってとととと駆ける。青い細紐に前足をちょいと掛け、牙できゅっと噛んで引いた。舳先の飾り布がほどけ、男の注意が一瞬だけ猫に集まる。


 その瞬間、俺は綱を引き、トビアスが舟の腹に棒を差し込んで角度を殺す。舟は外へ向き直り、漕ぐにもぶつけるにも中途半端な姿勢になった。サビーネは二本目を舳先の穴へ通し、綱と綱をからんと結び止める。


 「火を使うな」

 イリアが控えから顔を出し、予備の布を渡してくる。「粉が来る」

 舟のひとりが懐から紙巻を出した。炙れば煙が上がる合図火だ。掴む前にサビーネの矢が甲板をどすと打ち、紙巻が跳ねて海に落ちた。

 「次を出すなら、指を失うわ」

 落ち着いた声なのに、舟の男の肩がすっと落ちる。


 綱を引き寄せ、舟縁に膝を掛けて中を覗く。荷は小箱が五つ、樽が一つ、帆柱の根元に黒い袋。小箱の角に半月と穂の刻印。昨日見た印章と同じだった。


 「開けるぞ」

 ランベルトの確認に、男は目を逸らす。蓋を捲ると、内側に薄い鉛の板。二重底だ。釘は一本だけ色が違い、めくら釘。クロが鼻先で薄く鳴いて、そこを前足でとんとん叩く。「ここ」

 「ありがとう」

 小刀で力をかけると、ぺりと鉛が剥がれ、袋が三つ現れた。白い粉。甘い匂いは濃くない。こいつは路に撒く「呼び粉」だ。箱の隅に、薄紙に包まれた刻文。『青帆/夜五/外湾小島』——もう一手を回すつもりだったらしい。外湾の小島で合流、ということだろう。


 樽は狐印。栓を抜くと、中は黒蝋棒と布紐、それから黒いガラス玉が十。灯芯の補助具だ。黒灯(こくとう)を量産する気でいた。

 「これで終わらせる」ランベルトが栓を戻し、押収印を打つ。


 舟の片方はまだ諦めが悪い。甲板の陰から短い筒を持ち出し、口に当てた。笛——高音で遠くへ飛ぶ細工物。吹く前にクロがその頬へぺしと前足を当て、指から笛をころと落とす。落ちた笛を前足でぎゅっと押さえると、猫はきっぱり顔を上げた。

 「だめ」

 舟の男は目を丸くして、力が抜けた。衛兵がその手を取って縄を回す。緊張が解けると、波音が一段大きく聞こえた。


 俺は小箱の裏板をもう一枚剥がし、薄い帳面を抜き出す。紙はやはり南の透かし。章の端に、穂の印が重ね押し。外の手が絡んでいるのは確実だ。


 「港内は閉め切る。小島は昼に回す」トビアスが判断を下す。「陽の下でやる。夜は、ここまでで足を止めよう」


 関所へ戻る道、クロは笛の紐を口に銜えててってっと歩いた。時々振り返って、ちゃんとついているか確かめる。

 「戦利品?」

 「おもちかえり?」

 「渡したら、ご褒美」

 「……うん」


 塔影の下、セルジオは帳面を見るなりうなずいた。

 「半月穂紋。帳合は南谷の穀倉組(こくそうぐみ)に当たりがある。港の狐印は受け皿。——黒灯の芯を押収したなら、今夜の輪は閉じたと見ていい」

 トビアスが頷く。「明るくなってから外湾の小島。渡し守に口をきいておく」


 「少年、傷」

 セルジオの目が俺の脇に落ちた。昨夜、裏戸でかすったところだ。

 「医務に寄れ。猫は……笛を返せ」

 「えっ」

 クロがほんの少しだけ笛をむぎゅっと噛みしめ、しぶしぶ差し出した。セルジオは笛に布を巻き、押収袋へ入れる。

 「よく働いた。後でマルタに頼んで、ミルクを少し」


 医務室でセレナが待っていた。

 「浅い。洗って、薄く薬。包帯は一周、結びは外側」

 「はい」

 手際はいつも通り淡々として、痛みの前に不安が消える。クロは診察台の端でふみふみしながら、俺の手首に頬をすりと当てる。

 「がんばった」

「君もね。——猫さん、塩なしの水を。アキラは少し甘いもの。血が減ると頭が回らない」


 ギルドへ移ると、ミレイユが掲示板に新しい紙を足していた。

 〈港内注意/黒灯の覆いを見かけたら近寄らず通報〉

 〈甘粉は紙に——路に置かない〉

 〈狐印の荷は昼に検査〉

 「夜のうちにここまで押さえたのは大きい。——“半月と穂”は、橋の向こうの話になるよ」

 「谷を越える準備を始めます」

 「旅の札、整えておく。君らは一度寝て、昼前に港の小島。陽の下で詰める」


 鍛冶通りでフーゴに棒の先を見せると、彼は口の端を上げた。

 「塩で乾く。油は薄くでいい。——猫は紐を噛むな」

 「かまない」

 「いい子だ」フーゴはクロの額をこつんと軽くつつき、俺の脇の包帯をちらと見て「無理はするな」とだけ言った。


 白樺亭に戻ると、マルタが湯気の立つ粥を出してくれた。薄く甘い。ミルクは小さな皿にほんの少し。クロはひげを皿にぴとと触れさせ、真面目な顔でぺろ、ぺろ。飲み終えると、椅子の背に前足をかけて、胸を張る。

 「こうくん、つかまえた」

 「捕まえたね。次は昼の小島」

 「いく」


 短く横になり、陽が高くなるころ、もう一度港へ。外湾の小島は、潮の干満で陸と繋がる浅瀬の向こうにある。渡し守の爺が指を伸ばし、

 「昼まで待てば、足首で渡れる。そこに小屋が一つ。番人は置いてない」

 という。ランベルトと衛兵一人、サビーネ、イリア、俺とクロ。五人と一匹で浅瀬を渡った。


 小島の小屋は板壁が新しい。鍵は掛かっていない。中に入ると、箱が三つ、樽が二つ。箱のひとつに半月穂。蓋を開けると、今度は白粉ではなく、薄茶の塊。砂糖菓子に見せかけて、中に黒い薬種が仕込まれている。舌に乗せれば馬がすぐに鼻を下げる類だ。危ない。


 「……これを町へ回すつもりだったか」

 ランベルトが息を浅くする。

 「押収。帳面は?」

 棚の下から薄い袋。『輪、暁、狐、半月』とだけ、ぶっきらぼうに。送り手が誰かは最後まで曖昧なまま。


 押収印を打ち、荷を封じ、浅瀬を戻る。小島の砂にクロの足跡がぽつぽつ並ぶ。波が来て、一度消えると、猫は肩をすくめて俺の足首にぴとと貼りついた。

 「つめたい」

「もうすぐ終わりだ」

 「うん」


 関所に荷を渡し、帳面と印章は箱に入れて封印。セルジオは赤印を二つ押し、

 「輪、断」

 と短く書き添えた。港の空気が、ようやく普通の塩の匂いに戻る。


 夕方、ギルドでまとめ。ミレイユが紙束を指で揃え、

 「港編、ひと区切り。明日からは“半月と穂”の糸を辿る準備。橋の向こう、谷の紙屋、穀倉組。——旅支度だね」

 と笑う。サビーネは矢を拭き、ランベルトは外出簿を閉じ、トビアスは港の当番表を衛兵隊に戻す。


 クロは掲示板の下で丸くなり、前足を顔にむぎゅと当てて欠伸をした。目が合うと、尻尾が小さくぱたと動く。

 「きょう、がんばった。……あしたも、がんばる」

 「ああ。今夜はよく寝て、明日、旅の袋を整えよう」


 窓の外は、もう夜の色ではない。港の波が静かに返し、空の低いところで星がひとつ、早くも淡い。

 黒い灯は落ちた。

 暁を待つ波は、次の道行きへ背中を押してくれる。

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