第29話 「灰の約束」

 朝の白樺亭は、湯気とパンの匂いで静かに満ちていた。

 マルタが鍋を回し、リナが木椀を置く。クロは椅子の上で前足をきちんとそろえ、器の縁に鼻先を寄せて確認してから、二口だけ飲む。こちらを見上げる目が「もう一口いい?」と聞いているみたいで、思わず笑った。


「昨夜の舟は関所で預かり。――あんたは食べたらまっすぐギルドへね」

「はい」

「猫さんは塩抜き。ゆっくり」

「ゆっくり」クロはまじめに復唱する。


 外は川風が冷たく、桟橋の板はよく乾いている。通りを抜けてギルドへ向かうと、掲示台に主の字を大きく描いた紙が増えていた。見上げて読んでいる子どもにミレイユが声をかける。


「丸暗記でいい。見たら衛兵に知らせる。触らない、吸い込まない」

 俺を見ると、ミレイユは指で北を示した。

「関所。セルジオが“仮面の子”の取り調べを始めた。猫も一緒に来て、ってさ」


 関所アルダの塔影はひんやりしていた。詰所の奥、石の机。縄を巻かれた若い男が仮面を外されて座っている。頬の焼き刻印は浅くはない。だが目は濁っていなかった。


「名は?」セルジオ。

 男は首を横に振るだけで、代わりにこちら――クロを見た。

「猫の……声の届くところで話す。約束が破れると、咳が出る」

 セルジオが短くうなずき、薬壺を手元に置く。


「昨夜の合図油はどこで手に入れた」

「北の染場の裏、青い桶の小屋。今夜、青灯を二つ出したら“渡し”の合図。三つなら掃除の合図」

 男の喉がひゅっと鳴り、むせた。セルジオが淡い薬を勺で一さじ。

「“掃除”は?」

「……裏切りの始末」

 クロが小さく「だめ」と鳴く。男は視線を落とし、続けた。


「俺は“指長(ゆびなが)”じゃない。指の一つ。拾われて、刻まれた。……“主”の目は、粉の向こうにある。顔は誰も見てない。声だけ。誓いの言葉を言わされた」

「誓いの言葉を言ってみろ」

「ここでは言えない。言うと、咳が始まって、次に鼻血だ。三度目で立てなくなる」


 セルジオは黙って紙に落とし、こちらに視線を投げた。

「今夜の染物小路、青灯二つ。乗るか?」

「乗ります」

 クロが尾を上げる。「いく」


 詰所の脇で段取りを詰める。サビーネは屋根、ハーゲンは横道、ミーナは網、イリアは合図の写し。ベンノは引き綱係。俺とクロは灯の近くで“風の幕”を用意しておく。粉を吸わせない薄い流れを、顔の高さに敷いておくためだ。


「風、強くしないで。粉だけ上げる」セレナが医務から顔を出して釘を刺す。

「分かってます」

 セレナはクロのひげを指でそっと見て、頷いた。

「猫さんは雷を遊ばせないこと。水場があるから」

「うん。ちいさいの、だけ」クロは前足を胸に当てて神妙な顔。


 午後、鍛冶通りでフーゴが布袋を渡してくれた。内側に薄い油を刷いた粉受け袋だ。

「粉は“見せる時だけ見せろ”。袋の口は一回し二結びで外側。猫の火花は禁止だ」

「わかった」クロは真面目にうなずく。

「それと、お前の棒。今夜は先革を濡らすな。滑る」

「気をつけます」


 染物小路の下見。昼の匂いは藍と酢。夜になれば灯が映える。青い桶の小屋は裏口が二つ。屋根の雨樋が低い。逃げるなら樋を伝う。

 ハーゲンが短く指で示す。「樋、切る?」

「切らない。紐で輪を作って、真ん中を少し下げておく。足を入れたら落ちる」ミーナが即座に図を描いた。

 サビーネが屋根を目で測り、梁の影に登る場所を一つ決める。

「矢は地面。人には打たない。足を止めるだけ」

「了解」


 夕方、白樺亭で軽く腹に入れる。リナがクロの小皿をそっと押し出し、耳元で囁く。

「クロ、今日は三口まで」

「さん」クロは器の縁に肉球を当てて数え、きちんと止めた。リナが目を丸くして笑う。

 マルタが俺の椀を置き、声を落として言う。

「怖いのは“粉より言葉”だよ。気をつけておいで」

「はい」


 刻が落ち、川風が藍の匂いを薄めていく。

 染物小路。青灯を二つ、規定の高さに吊るす。灯芯は短く、炎は小さめ。俺は灯の上手で薄い風を張る。顔の高さ、横に抜ける流れ。クロは足もとで耳を立て、尻尾の先だけぴくりと動かしている。


 足音が四。靴の減り具合がまばら。常連と、借りの者。

 先頭の男が青灯を顔の高さで見上げ、口の端を上げた。

「合図、受けた。渡せ」

 俺は袋を見えるように掲げ、半歩だけ下がる。

「中身を確かめろ」

 男の背後で、もう一人が粉を指で弾く。灯の下で霧が広がろうとした瞬間、風の幕が上へ押し上げる。粉は炎に触れず、灯の外で淡く散って見えただけになった。


 屋根からサビーネの縄が落ち、背の高い男の胴をとらえる。

 ハーゲンが横道から入り、足を払って座らせる。

 ミーナの網が二人目の腕に絡む。

 俺は袋を下に置き、クロに短く。

「光、ちょっと」

 クロのひげがふるえ、ぱちと指先ほどの火花が地面で跳ねる。合図。

 ベンノが綱を引き、小屋の裏口が閉まる。逃げ道は消えた。


 残った一人が合図笛を口に――風で笛穴を軽く塞ぐ。音は鳴らない。目を見開いた男の手首から笛が落ち、石畳で情けない音がした。

「騒がないで。話は関所で聞く」

 クロが前に出て、男の靴紐を器用にほどく。転びそうになって、男は観念した。


 押収した粉袋は十。札が二。主の字はなかった。

 関所へ運ぶ途中、クロがぽつりと。

「におい、さっきのこよりうすい」

「元締めじゃない匂いだね」


 セルジオは受け取りを終えると、青灯の高さと吊り紐の結び方まで紙に落としてから言った。

「“主”は来なかった。だが、合図の約束を破らせた。一歩だ。――今夜のうちに染場の油を押さえる。ギルドにも回す」

 頷いて、ギルドへ戻る。ミレイユが掲示を一行だけ太くした。

〈青灯二=受け渡し/三=掃除の合図――見たら通報〉


 白樺亭に帰ると、リナがクロの耳を軽くなでた。

「三口、守った?」

「まもった」

「えらい」

 クロは得意げに尾を立て、机の端でふみふみしてから丸くなる。

 窓を少し開ける。藍の匂いは、もう弱い。

 夜の川音を聞きながら、明日の段取りを胸の中で並べた。

 ――染場の油筋/押収先の洗い出し/“主”の言葉の回避。

 次は言葉の罠だ。粉より厄介。でも、形は見えた。

 クロの呼吸が整っていく。俺も目を閉じた。



 朝いちの川霧はうすく、染物小路の藍甕がひとつずつ息をしているみたいに湯気を上げていた。

 職人頭の女房に事情を話すと、彼女は躊躇なく鍵束を差し出した。


「昨夜みたいな灯は二度と見たくないよ。油は奥の棚。数えてっておくれ」

「助かります」


 ミーナが壺の印を読み取り、イリアが帳面に控える。油壺のうち三つだけ、底に灰色の粉が薄く溜まっていた。指でこすると、脂に乗ってすっと伸びる。


「灯を高くしても炎が小さく見える……合図に向く配合だね」

 サビーネが窓越しに通りを見張り、クロは鼻先を壺の縁まで近づけて、すぐに首を引いた。

「におい、ながい」

「無理に嗅がなくていい」


 フーゴが届けてくれた粉受け袋に灰粉を移す。袋の口は二重に結んで、油壺は真水で口を洗い、職人頭の印で封を戻した。

 引き上げようとした時、作業場の若い徒弟が袖をひいてきた。


「青い桶の小屋、夜になると、裏の水路に舟がつきます。櫂が一本しかなくて、音を立てないやつ。……父ちゃんが言うには“掃除の舟”だって」

 セルジオの言葉が頭をかすめた。三つ灯れば“掃除”。昨夜は二つで釣った。今日は向こうが仕掛ける番だ。


「知らせてくれてありがとう」

 銅貨を一枚握らせると、徒弟は首を横に振った。

「お金はいらないです。……猫さん、昨日、ふみふみしてたでしょ。うちの弟もああやって寝るんだ。あれ見たら、誰かが死ぬの、いやになって」

 クロは照れたみたいに、俺の袖の影に耳を半分隠した。



 昼前、関所の裏庭。昨夜捕らえた若い男は湯をもらい、咳も止まっていた。縄はまだ外せないが、目つきは落ち着いてきた。

 セルジオは紐の結び目を確かめ、男の前に板と炭を置いた。


「“誓い”は口で言うな。ここに書け。目で見るなら咳は出ないだろう」

 男は小さく頷き、迷いながら字を置いた。

《灰に誓う。主の声の下にあれば、口は閉ざし、灯の数に従う》

《誓いを破る者は灰に呑まれる》

 最後の行だけ、手が震えた。


「“灰に呑まれる”は比喩か、薬か」

「……粉の煙。灯ごとに配合が違う。三は、刺す」

 男は自分の喉仏をさすって、目を伏せた。

「俺が行くのを止めた子がいて、それで、咳が出た。……もう誰にも、あれを浴びさせたくない」


 セルジオは板を布で覆い、短く息を吐いた。

「灯を三つ上げられる前に舟を止める。川筋の見張りを増やす。――昼過ぎに一度、染物小路を空にしろ」


 動く時間だ。ギルドの裏口でミレイユが小籠を渡す。中は酢に浸した布と、口に当てる薄布。

「粉の煙、鼻に刺さるやつだ。顔に当てておきな。猫さんは喉を冷やしすぎないで」

「のむ」クロはいつもの水を一口だけ、器の縁に肉球を乗せてから舌を出した。



 午後、藍の湯気が弱くなる頃合いに、空が突然青を濃くした。

 染物小路の奥――灯が三つ、静かにともる。間が悪い。昼明けの人通りがまだ残っている。職人らが顔を出そうとするのをハーゲンが片手で押しとどめ、ベンノが路地口を遮る。

 青灯の下、桶の間から黒い影が滑る。腕に布巻き、顔の下半分が隠れている。手には短い吹き筒。


「上」サビーネの声と同時に、矢が石畳に軽く打つ。合図。

 影が吹き筒を上へ向け、灯の根元に何かを噴いた。炎が一瞬だけ揺れる。白く細い霧が、灯の周りに輪を作る。


 風を張った。昨夜より少し厚く、顔の高さから上へ持ち上げる。

 霧は屋根際へ逃げ、梁でうすく広がって消える。

 同時にクロがちいさな火花を飛ばし、吹き筒の金具にぱちと当てた。影の指がびくりと跳ね、筒が落ちる。

 男は樋に足をかけて逃れようとしたが、ミーナの輪紐が足首をとらえた。体重が逆にかかって、樋がぎしと鳴ってから、男はひとつ転がって石畳へ落ちた。


 追い詰める。刃は抜かない。肩と肘の関節だけを押さえて、吹き筒と粉袋を取り上げる。袋口は青の印で、昨夜の合図油よりも鋭いにおいがした。

 ハーゲンが短く尋ねる。「舟は?」

「裏。石段の影」

 ベンノが合図し、川筋の衛兵と一緒に駆けていく。間もなく、舟の櫂を掲げた兵が戻ってきた。紐穴が一つ、櫂の柄に開いている。灯の数の合図に使う穴だ。


 路地の人たちは、粉の匂いが薄れるのを待ってから、戸口から顔を出した。

 職人頭は灯の鎖を巻き取り、俺の手をぎゅっと握った。

「よかった……青灯の三つは、昔から縁起が悪いんだ。掃除なんて冗談じゃない」

「もう吊らせません。灯は役所印のものに替えましょう」


 セルジオが駆けつけ、吹き筒を見て眉を寄せた。

「香管だ。肺に入るよう角度がついてる。……“主”は、街の習慣を使う。灯、舟、桶。目新しい物を持ち込まず、既にある物をねじる」

「元締めはいつも遠いところにいる」サビーネが屋根から降りて言う。「声だけで人を動かす」


「声を切る筋道を探す」セルジオは短くうなずき、捕らえた男に目を落とした。「お前、“誓い”は書けるな」

 若い男はうつむいたまま、かすかに頷く。目尻に迷いが映る。

 クロがそっと男の足もとに寄り、前足でとん、とんと二度だけ石畳を叩いた。

 男は驚いたように猫を見、それから、力の抜けた声で言った。

「……書く。書くなら、言葉に縛られない」



 夕方、川向こうの油屋に立ち寄る。店主は頑固な顔で腕を組んでいたが、封印済みの壺と組合の印を見せると、渋々首を縦に振った。

「合図に使うような調合は、もう売らない。藍に必要な分だけ、帳面と合わせる」

「助かります。見張りは交代でつけます。――猫が苦手なら、今は籠に入れておきます」

「いや、猫はいい。鼠を取る。……その猫、礼ができる顔してるな」

 クロは籠の縁から「ふにゃ」と返事。油屋の娘が笑って、肉球を一度だけつんと押した。


 角の果物屋で、フィオナが瓶を拭きながらひそひそ声を落とす。

「青灯の札、もう子どもが覚えてるよ。三つ見たら走らないで、ってね。――猫さんに黄桃の砂糖漬けはまだ早いから匂いだけ」

「のむ」クロはまじめに水だけ飲み、瓶に鼻先を寄せて満足げに目を細めた。


 ギルドの掲示は一枚増えていた。

〈染物小路:灯の交換完了/油壺の封印完了/川筋“掃除舟”押収〉

 ミレイユが指で三本線を引き、俺たちに小さくウィンクする。

「よくやった。――で、今夜は静か?」

「静かであってほしい」

「なら、台所の魚を少し持って行きな。猫さん用のを煮出しにしたやつ」


 白樺亭に戻ると、リナが椀を並べていた。

「今日は四口までだよ」

「よん」クロは真剣な顔で数え、四口目でぴたりと止まって、満足そうにふわぁと欠伸をした。

 マルタが布巾で帳場を拭きながら、ふと真顔になる。

「“主”は姿を見せない。そういう相手は、焦ると逃げ道を与える。今みたいに、暮らしの筋から締めておいで」

「はい」


 窓の外、川面に灯が点々。三つはどこにも見えない。

 クロが胸の上で丸くなり、ひげをくすぐる風に鼻をひくつかせた。

「きょう、よかった?」

「よかった。息が合った」

 クロは満足そうに目を閉じ、前足でふにふにと俺の服を押しながら眠りに落ちた。

 藍の匂いは、もう遠い。

 明日は、誓いの言葉に切り口を作る。声ではなく、文字でほどくやり方を探すつもりだ。



 夕刻が落ちる前に、俺たちは関所裏の小部屋に集まった。縄を外された若い男は、丸椅子の端に腰をかけ、膝の上で指を絡め続けている。咳はもう出ていない。


「声は使わない。書いて伝える」

 セルジオが板と炭を置いた。ミーナは薄布を二重に折り、男の口元へそっと差し出す。

 男はうなずいて、板にゆっくり字を置いた。

《今夜、巳の半。青い桶の裏。舟が来る。合図は“灯を三つ”――返事は“今は二つ”。渡す物があるか聞かれる。袋は舟に》

 そこで一度、炭が止まる。

《“主の声”を聞けと言われる。でも、書いた言葉なら、咳は出ない》


 イリアが板の端に小さく印を付けた。「返事は全部、字で。相手が近づく。――そこで、捕る」

「無理はさせない」ハーゲンが男に視線を合わせる。「逃げ場は二つ作る。舟と路地。どちらでも抜けられる」


 クロが椅子の脚に前足をちょんとのせ、男の靴の紐を小さくつついた。

「にげみち、ある」

 男は少しだけ笑って、紐を結び直した。



 藍の湯気が薄れ、空の色が冷たくなったころ。染物小路の奥は、昼の喧噪が嘘みたいに静かだった。

 屋根の上にはサビーネ。路地口にベンノとハーゲン。イリアは物陰に身を寄せて板と炭。俺とミーナ、それに若い男は、青い桶の影で待つ。


 川面がぬらりと揺れ、石段の脇に舟が忍び寄った。櫂は一つ。漕ぐ音はほとんどしない。

 舟から降りたのは二人。ひとりは短い外套の若いの、もうひとりは面布に革の帽子、目尻に古い傷。指先に灰色の輪が光る。人差し指ではなく、親指――〈灰指〉の印だ。


「灯を三つ」

 面布の男が低く言った。合図を強いる声。

 若い男は答えず、板を上げた。

《今は二つ》

 面布の目が細くなる。

「声が出ないか」

 板に、もう一行。

《出すなと言われている》


 近づいてきた。面布の顎の動きで、舟の若いのが袋を持ち上げる。青印の細い袋。口は紐一本。

 ミーナが息を殺し、視線で“いま”を告げる。俺は右の柱の影から半歩。クロが足もとで尻尾をぴんと立てた。


 面布の男が袋に手を伸ばし、紐を切ろうとした瞬間、サビーネの矢がひゅっと降りて、袋の口を摘むように射ち止めた。粉は開かない。

 同時に風を張る。袋の周りに渦を作って、もしこぼれても上へ逃がす。

 面布は咄嗟に吹き筒を抜いた。狙いは若い男の顔。

 クロの爪先からぱちんと光が跳ね、金具に当たる。筒が弾かれ、石畳にからんと落ちた。


「離れて!」

 俺は声を置いて踏み込み、面布の手首を払う。刃は出さない。体をぶつける角度で、肩から腰へ流す。

 面布は一歩退くどころか、逆に懐へ潜り込もうとした。親指の灰輪がちらりと光る。拳――。

 ハーゲンが前から体を寄せて、肘で肩の芯を止めた。骨が鈍く鳴る。

 舟の若いのが袋を引き戻しに跳ねたところを、ミーナの輪紐が足首に絡む。崩れた上体に、ベンノの短棒がとんと触れただけで、若いのは座り込んだ。


「終いだ」

 面布は歯を食いしばって沈黙を守ろうとしたが、口はもう要らない。指の輪を外せば、ただの人だ。

 クロが袋に前足を乗せ、肉球でむぎゅと押さえる。粉は一粒も出ない。


 縄を回してから、俺は面布の外套の内側を探った。薄い紙片が三つ。

 一つは記号の路図。藍蔵の印。川筋の古い倉庫だ。

 一つは灯の配合指示。三つ目の灯に使う粉は、今日のより強い。

 もう一つは、短い書き付け。

《“書く者”には触れるな》

 セルジオの読みが当たっていた。声の誓いは、書き言葉に届かない。


「舟は押収。袋もだ」ハーゲンが短く告げる。

 面布の目つきが変わった。川向こうを一瞬だけ見て、それから、諦めたみたいに視線を落とす。



 詰所。面布の男は手足を縛られて凪いでいた。セルジオは灰輪を取り、窓を半分だけ開けた。湿った風が入ってくる。

「“主”はどこにいる」

 沈黙。

「答えなくていい。――文字にしろ」

 板と炭。男はしばらく動かなかったが、やがて、短く書いた。

《川の蔵》

《古い藍の印》

《明夜 三灯》

 字は堅い。手癖の少ない男だ。嘘が混じる余地は、板の上には少ない。


 セルジオがうなずく。「場所は合っている。……“誓い”は声の鎖だ。お前は口を開くな。明夜まで寝ていろ」


 若い男にも板を渡す。

《俺はここに残る》

《仕事、やめる》

 文字の最後が少し滲んだ。炭の粉が指先に黒い。

 クロが机に飛び乗って、男の指先をぺろと一舐めした。

「くすぐったいよ」男は笑った。「ありがとう」



 夜。藍の街は灯が低く、川は暗い鏡みたいだった。

 白樺亭の二階。窓を少しだけ開けると、娼館通りの笛が遠くに聞こえた。

 ミーナが机に地図を広げる。「古い藍蔵、川沿いに四つ。路図の印は北から二番目。裏が水路」

「屋根から入れる口がひとつ。樋は腐っている」サビーネが屋根の絵に針で穴を開ける。「ここに見張りが立つなら、二人」

「正面は衛兵と俺で受ける。アキラは裏」ハーゲンは短く割り振る。「粉袋は最優先で止める。吹き筒は矢と風で落とす」


 俺は頷いて、窓辺に置いた棒の感触を確かめた。手汗で滑らないよう布を巻き直す。

 クロは椅子の上で丸くなりかけて、眠気と戦いながら前足をふみふみさせている。

「ねむい」

「少しだけ寝て。明日は遅くなるかもしれない」

 クロは顔を上げて、真面目な目で俺を見る。

「まもる」

「うん。みんなで守る」


 灯が落ち、部屋の音が小さくなる。

 市場のざわめきの裏で燃えていた黒い灯は、今夜は見えない。けれど、“明夜 三灯”という書き付けが、胸の底で静かに重くなる。

 声の誓いで人を縛る相手に、俺たちは書き言葉で切り口を作った。

 次は、灰の誓いを別の約束に変える番だ。

 守るための約束に。

 クロの寝息が、胸に伝わる。小さく、規則正しい。

 目を閉じる。明夜の蔵が、黒い四角に見えた。



 翌日の昼、仕度は静かに進んだ。

 ギルドでミレイユが掲示を一枚だけ差し替える。「夜は川筋の見回り強化。通行は歩き、舟は検めあり」。文句は短く、紙の角は二結び。

 白ローブのセレナは医務で小袋を三つ渡してくれた。薄い酢水を含ませた布、喉を温める香草、目を守る油膜布。「甘い粉は酢でにおいが立つ。布を一枚、口と鼻に。喉は温めておくこと。猫さんは水だけ」

「のむ」クロは真顔でうなずき、上から見えるように椅子に前足をそろえた。

 角の果物屋では、フィオナが指で小瓶を二度叩く。「今日はいらない話を減らす日さ。足音を小さく、目だけ大きく」

 鍛冶通り。フーゴは柄鉤の先を一手だけ整え、棒に薄布の巻きを一枚足した。「軋みを止めた。戸口の隙間に差すときに鳴らない。――紐は噛むな」

「かまない」クロ。店の奥の影から、鼻先だけ出して得意顔だ。フーゴは苦笑し、指でこつんと軽く触れた。



 日が落ちる前に、詰所で段取りの最終。

 イリアが机に路図を広げる。藍の印が押された古い蔵は川に面して四つ、狙いは北から二番目。水路が裏口に続いている。

「屋根から一。裏水路から一。正面は二人。……合図は“灯三つ”。返しは“二つ”。」

「返しは我々がやる。相手に近づかせて、扉の前で止める」ハーゲンが言った。「粉袋は弓の糸で押さえる。吹き筒は狙いを切る。舟は川側で止める。――若い彼は詰所で待機だ」

 昨日捕らえた面布の男は地下の見張り部屋、若い書き手は二階の寝台で眠らせてある。

 ベンノが短く締めた。「相手に“喋らせる”必要はない。書けば足りる。無理はしない。粉を出させない」


 クロが椅子の背に飛び上がり、細い前足で机の端をちょいと押した。地図の角がこちらへ寄る。

「ここ、あぶない」

 指先のところには、細い路地が川に逃げる道。

「ありがとう。抑えをつける」サビーネが矢箆でそこを指し、屋根役からもう一人呼ぶことにした。



 夜。風は弱い。川面は沈黙したまま、蔵の黒い壁を映している。

 俺とミーナは裏の水路。湿った板の匂い。足袋に包んだ足で苔を踏まないよう一歩ずつ。

 ハーゲンとベンノは正面、古い扉の影。イリアは角の陰で板と炭。サビーネは屋根、もう一人、ギルドの若い弓手が裏手の樋に。

 クロは俺の背に身を寄せ、息を浅くしている。耳は前、尾はぴんと立ったまま小刻みに揺れた。


 蔵の内側で、金具が擦れる鈍い音。人の立つ気配。

 川の上流に、ぽ、と灯がともる。

 一つ。

 間を置いて、二つ目。

 さらに短く、三つ目。

 灯が水に三つの輪を作って流れた。


 正面の陰で、ベンノが小さくうなずく。返しの灯が二つ、門柱の影から上がった。

 扉の閂がゆっくり外される。油が足りないのか、わずかに軋みが出た。

 内から、粉袋を抱えた影が二。吹き筒を吊るした影が一。さらに奥に、背の高い影――面布ではない、衣の襟に灰色の糸。親指ではなく、中指に輪。昨夜とは違う印。


 サビーネの矢が先に動いた。粉袋の口を摘むように射ち止める。袋は揺れただけで開かず、吹き筒の影が上体を引いた瞬間、屋根の樋から若い弓手の矢が筒の金具をはじいた。

 俺は風を短く立て、粉袋の外側に薄い壁を作る。もし紐が切れても、甘い粉は上へ逃げる。


 正面の二人はベンノとハーゲンが受け止めた。短棒が手首に触れただけで力が抜け、扉の内側へ寄る。

 裏の水路側に、足音。舟の影がすべり込んでくる。

「クロ」

 囁くと、クロは板の間をするりと抜け、舟の舳先に前足を置いた。

 ぱち、と爪先から小さな光。

 舳先の金具に火花が跳ね、舟は足を止める。漕ぎ手が驚いて体を引いた瞬間、ミーナの輪紐がオールの根元をからりと締めた。舟は自分の重みで岸に寄り、止まる。


 奥の背の高い影が動いた。扉の柱に軽く手を置き、声ではなく、息の音を立てる。低く、一定の拍。

 蔵の奥から、別の影が一歩。

 面布はしていない。輪はない。けれど、口を開こうとしないのがわかる。

 イリアが板を持って前へ。

《書け》

 影は首だけわずかに傾け、返しの板を掴もうとした――その指の関節に、灰色の粉が薄くついている。

 イリアの手が止まる。俺は風の壁を一歩前に押し出し、指先の粉をはらった。

 影の肩が一度だけ揺れる。笑ったのかもしれない。

 扉の上、屋根の縁でサビーネが矢を静かに下ろす。狙いは輪ではなく、柱の木目。

 柱を打った矢がとんと軽く鳴り、蔵の中の影たちの視線が一瞬だけ上へ流れた。

 ハーゲンがその隙に踏み込む。肩から胸、腰へ。刃は抜かない。倒すより、動きを止める重さのぶつけ方。

 ベンノが粉袋を足で押さえ、紐を二度回して結ぶ。紐の結び目は外側、袋の口は上へ。


 正面は固まった。

 裏の水路も押さえた。

 残るは、奥の背の高い影――中指の輪の男。

 彼は声を出さないまま、扉の脇に立った。布の袖の奥で、手のひらがわずかに返る。

 風が内へ引かれる感覚。

 粉の袋は押さえたはずだ。なのに、甘い匂いが、ほんの一筋、鼻の奥をくすぐった。


 イリアがとっさに布を口に当て、板に一行。

《床》

 俺とミーナが同時に目を落とす。

 ――床の継ぎ目。薄く白い。

 袋だけじゃない。板の合わせ目に仕込んである。


「退け」

 ベンノの声が低く、短い。

 俺は風を下から上へ引き抜き、床の継ぎ目に沿って吸い上げる。

 白が細い線になり、上へ上がって消えた。

 床の板がかすかに鳴る。仕掛けの滑りが止まる。

 ハーゲンが足で板の端を押さえ、ミーナが楔を一本、押し込んだ。


 中指の輪の男は、その間も一言も発さず、ただ息の音だけを一定に刻んでいた。

 彼が袖から出したのは、紙。短い文。

《“主の声”は、言葉ではない》

 紙を返し、袖の中へ手を引いたとき、彼の輪が光を吸ったように見えた。

 サビーネが矢を半分だけ引く。ハーゲンは肩を落として重心を低く。俺は風の壁を一枚、さらに前に置く。


 男は一歩、下がった。

 蔵の奥へ吸い込まれるように消えていく。

 追えば捕れる距離。

 けれど、床の継ぎ目に仕掛けが残っているかもしれない。舟の影にも、もう一人潜んでいるかもしれない。

 ベンノが首を横に振った。

「今は、ここまでだ」

 扉を閉じ、閂を戻す。その前に粉袋を二つ、縄でまとめて押収。吹き筒は刃を抜かずに叩き落として壊す。


 外へ出ると、川風がひやりと頬をなでた。

 クロが俺の足首に尾をくるりと回し、目を細める。

「くさいの、すこし、きえた」

「ありがとう。助かった」


 詰所への帰路、イリアが歩きながら板に短くまとめを書きつけた。

《三灯→二灯返し。蔵前で押さえ。粉袋二・吹き筒一押収。床の継ぎ目に粉仕込み→吸い上げ除去。輪の男一、奥へ退避。“主の声”は言葉ではない、の紙》

 ハーゲンがうなずく。「奥は明夜だな」

「ええ」ベンノが息を整えた。「“声”が言葉でないなら、灯と息、手順で縛っている。……書き言葉で切り口を作れた。次は、その“息”を断つ」


 関所の灯が見えてくる。塔影の下でセルジオが待っていた。

 粉袋を秤にかけ、吹き筒の金具を布で包み、板の報告に目を走らせる。

「良し。――明夜、“蔵の奥”」

 短い言葉だけで、十分に伝わる。

 セルジオは鍵束を持ち直し、机の端に薄い紙を二枚置いた。

 一枚は逮捕状。一枚は夜間の通行免除。

「“輪”の男は下っ端ではない。逃げ場を狭くしろ。舟は詰所が押さえる。扉の板は石工が今夜のうちに当て木を入れる」


 クロが机の角に前足を乗せ、鼻先を紙にすんと近づけてから、尻尾をぴんと立てた。

「いく、あしたも」

 セルジオが笑う。「頼りにしている」


 詰所を出ると、川霧が薄く立っていた。

 蔵の奥には“声”がいる。言葉で動かない相手だ。

 でも、紙は嘘を減らす。書けば、混じりが少ない。

 俺たちは板を持っている。言葉を短くできる人手もある。矢も風もある。

 街は眠りはじめ、灯は低い。

 クロは歩幅を合わせ、俺の靴の横でとととと小さな音を刻む。

 明夜、奥へ。

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