第16話 「白い袋の扉」
朝の白樺亭は、湯気とパンの香りが静かに広がっていた。
マルタが鍋を回し、リナが木椀を置く。クロは椅子の上で前足をそろえ、皿の縁に鼻先を寄せる。
「今日は倉庫だろ。腹は軽めでいきな」
「はい」
「猫さんは塩抜き」
「のむ」
クロはちいさく舌を出して粥を味わい、満足すると尾の先を一度だけくるりと回した。
角の果物屋。フィオナが瓶の口を布で拭き、光に透かす。
「薄め一本。海塩ひとつまみは君だけ。猫さんは無しね。……昨日の矢、聞いた」
「落ちただけで済みました」
「よかった。昼の顔で行くんだろ?」
「ええ。鍵合わせから」
銅貨を渡すと、クロが瓶の栓をちょいと前足で触れ、慌てて手を引っ込めた。
「つめたい」
「あとで少しだけ飲もう」
鍛冶通り。フーゴは砥石の水を替え、細い梃子(てこ)と静かな楔(くさび)を二つ出してくれた。
「扉が渋ったら、音を出さずに効くやつ。――鼻布はあるか?」
「薄布を二枚」
「それでいい。粉を吸い込むなよ」
クロが梃子の先を真剣な顔で嗅ぎ、首をかしげる。
「におい、ない」
「きれいだからね」
ギルド。ミレイユは薄紙束の上に、今日の手順を三行で置いた。
「鍵合わせ→中の確認→関所へ提出。合図は短く、刃は最後」
イリアが帳面を抱え、ミーナは封緘用の糊と布札。
サビーネは弓袋を肩に、矢を数本だけ。
そこへ白いローブのセレナが顔を出した。
「鼻布、各自一。喉は水を一口ずつ。猫さんは外の影で待機の合図、これ」
セレナが指で小さな輪を描いて見せると、クロは真似して前足でぐるりと空を撫でた。
「おぼえた」
門前でランベルトが外出簿を閉じる。
「染物屋裏の三番倉だな。人を集めないように柵を立てる。……中が空なら早い。埋まってたら、呼吸を荒らすな」
「了解」
倉庫筋は、午前の光が斜めに差しこんで埃をきらせていた。三番倉の前には昨日の若者はいない。
戸板は古いが、鍵穴は新しく、金具が二重に増し締めされている。
ハーゲンが周囲を一度見回し、短くうなずいた。サビーネは道の向かい、屋根の影に位置を取る。
俺は鍵束を布の上に広げる。どれも形は似ているが、歯の端に微妙な削れがある。
クロがそっと近寄り、一本一本の頭をちょんと触れた。
「これ、におい、すこし」
猫の鼻は、昨日の輪と同じ薄い鉛の匂いを拾っているのかもしれない。
示された鍵を金具に差すと、芯が抵抗を見せずに回った。最初の錠が静かに外れる。
もう一つ、下の鎖も同じ鍵で外れた。
「当たりだ」
ミーナが控えに小さく印を打つ。イリアは鼻布を口元にずらし、薄紙を構えた。
戸を押す前に、扉の片縁を梃子でほんの少しだけ上げる。きしみは出ない。
すきまから薄い空気が流れ、甘い匂いが微かに鼻に触れた。
ハーゲンが眉をひとつ下げる。
「匂うな」
「鼻布を」
全員が口元を覆い、扉をさらに手の甲で押し広げる。掌ではなく、甲で。力が入りすぎない。
中は薄暗く、天窓からの光が粉埃を縫う。
木箱が五、布袋が十余。表の札には**「藍粉」「灰汁」**などと書かれているが――鼻が告げる甘さは染料のものじゃない。
手前の床板に細い線が一本。
クロが前足をそっと持ち上げ、短く鳴いた。
「いと」
靴底の縁で床を押さえ、線の先を目で追う。敷居裏の小さな穴へ伸びている。
ミーナが針を一つ出し、糸を切らずに輪から外す。
「鳴子、未満。引けば奥で袋が倒れる仕掛けかも」
「外して続けよう」
奥へ一歩。木箱の並びが妙だ。上に「藍粉」、下段に「布端」。重さの並びが逆だ。
箱の側面に、昨日見た鉛の輪と同じ刻みが、小さく焼き印になっている。
イリアが薄紙に記し、指で角度を測るように箱を押した。
箱は思ったより軽く、下の床板だけが鈍い音を返す。中空だ。
ハーゲンが静かな楔を床板の隙に差し入れ、音を出さないように持ち上げた。
ひと呼吸ぶんの隙間。甘い匂いが強くなる。
クロが顔をしかめ、俺の裾をちょこんと引いた。
「にがて」
「すぐ終わらせるよ」
床下は浅い。薄い板の箱が幾つも並び、上に白い布袋が積んである。肩で抱えればちょうど一つ分の大きさ。
袋口は細紐で結かれているが、結びが不自然に“きつすぎる”。一度締めてから、上に固める癖。
サビーネが外から低い声で問う。
「どう?」
「粉袋。印あり。床下に保管」
「了解。外は静か」
ハーゲンが袋の一つをそっと持ち上げ、イリアが印を写す。
焼き印は〈指〉に見える。線が三本。
ミーナが結び目を解かず、細紐の端だけを紙で挟んで封を作る。
「開けるのは関所で」
「そうしよう」
その時、裏手の路地で靴音が二つ止まった。
サビーネの影が揺れ、弦が微かに鳴る。
クロの耳が起き、尾がまっすぐ。
俺は扉を半分だけ閉じ、梃子を引き抜いて脇に寝かせた。
息を合わせて、足音の数だけ待つ。二。増えない。
扉の外で、誰かが錠の位置を指先で探る気配。
鍵の音はしない。ただ、金具の隙を確かめる擦れ音。
ハーゲンが視線で合図する。
俺は布袋を一つだけ抱え、正面の木箱の影に置く。外から見える位置に“染料”の札を上にして。
ミーナが床板をそっと戻し、楔を抜く。
イリアは薄紙を抱え、鼻布を軽く押さえて一歩下がる。
サビーネの声が外から落ちた。
「倉庫の検分中だ。用があるなら詰所へ」
間。
靴音は二歩、後ずさり。ひと呼吸置いて、遠ざかった。
息が戻る。
ハーゲンが短く。
「今はここまで。封を増やして、関所へ運ぶ」
イリアは頷き、袋の数を確かめる。十六。床下の箱は四。
クロは鼻布の下からそっとあくびをして、前足で耳の後ろをこすった。
「ねむい、すこし」
「帰り道、抱える?」
声をかけると、彼は胸を張って座り直し、きゅっと目を細めた。
「あるく」
封緘を終えると、扉に新しい板札を掛ける。〈検分中/立入禁止〉。
ランベルトの用意した柵が道の幅を狭め、好奇心を押し返してくれている。
袋を三つずつ抱え、交代で外へ運ぶ。甘い匂いが風に流れて薄まる。
日差しが強くなり、影の輪郭が硬い。
関所の塔影は涼しかった。
セルジオは秤と帳面を用意し、粉袋の封を確かめてから、最初の一袋だけを開けた。
粉は白い。指でなでると、指先にねっとり残る。
「甘い。……混ぜ物あり。砂糖だけじゃない」
秤の皿に少しだけ置き、匂いを紙に移して封じる。
ハーゲンが焼き印の写しを差し出す。
「床下の箱、印は〈指〉。三本線」
「受けた。――〈灰指〉の記号で帳面に立てる。倉庫は今日のうちに封鎖。夜は衛兵を二人。明朝から調べる」
セルジオは小札を二枚書いて渡した。提出の受領と、倉庫封鎖の許可。
イリアはその場で副写しを作り、ミーナが封をする。
クロは卓の端で前足をそろえ、真面目な顔で秤を見つめていた。皿が動くたび、耳がぴくりと揺れる。
「戻って掲示を一枚追加してくれ。“白い粉を見たら大人を呼ぶ”。言い回しはそれでいい」
「分かりました」
「それから――今夜は目立つことをしない。矢を外に向ける者は、音を嫌う。人の動きが落ち着けば、必ずどこかでまた合図を出す」
塔影を出ると、昼の陽が強かった。
袋の受領は済んだ。倉庫は封鎖、扉には札。
街へ戻る途中、クロが小走りで追いついてきて、俺の脛に額をこつんと当てた。
「アキラ。あしたも、いく?」
「明日も行く。けれど、今夜は静かに」
「しずか」
クロは納得した顔で歩幅を合わせ、尾をまっすぐ立てた。
ギルドへ向かいながら、俺は鼻布を外してたたみ、袋にしまう。
甘い匂いはもう薄い。代わりに、パンを焼く匂いと、昼の市場の草いきれが混ざってくる。
街の音がふつうに戻っていくのを、胸の奥で確かめた。
その“ふつう”を、もう少し続けてやりたい。
倉庫の扉は開いた。中身は外に出た。
次は、この粉を運んだ“人”のほうだ。
◇
ギルドに戻ると、掲示台の前に人が集まっていた。ミレイユが指で場所を示す。
「ここに一枚追加。“白い粉を見たら大人を呼ぶ”。文字は太く、短く」
「任せて」イリアが炭筆を握り、迷いなく書く。
ミーナは紙角に穴補強をつけ、紐を二結び。サビーネは通りの流れを見ながら、貼る高さを指で決める。
貼り終えると、子どもが二人、掲示を声に出して読んだ。
「“白い粉を見たら――”“――大人を呼ぶ”」
クロは横に座り、前足をそろえたまま、うんうんと小さく頷く。
「よむ、じょうず」
褒めると、子らは照れて走っていった。
セレナの医務室に寄って、鼻布を洗い替えにする。
「においが残る布はしまって。喉は薄い水を少しずつ」
「はい」
クロは台の端に前足をのせ、鼻先を小瓶に近づける。
「くさくない」
「それは大丈夫」セレナは笑い、クロの額を指で一度撫でた。
鍛冶通り。フーゴは梃子の先を布で拭き、薄い炭布を一枚くれた。
「粉の匂いを吸う布だ。袋にかぶせて運ぶときに使え。音は出すな」
「助かります」
クロは炭布を前足でちょいと触ると、すぐに手を引っ込めて座り直した。
「て、くろくなる」
「触らないのが一番だね」
昼過ぎ、倉庫筋を目立たないように回る。封札は生きている。扉の前に無用な足跡もない。
染物屋の主に声をかけると、彼は眉を寄せた。
「ここ二、三日、見かけない顔が二人ほど。指に白い粉を残したままの男がいた。支払いはきれいな銅貨。匂いだけが気にさわる」
「その銅貨、特徴は?」
「縁がやけに滑らか。たぶん磨いてる」
イリアが薄紙に短く写す。磨き銅。白指。
市場の角では、古道具屋のオズワルドが手招きした。
「井戸の柱に、白いチョークで小さな三本線が描かれてた。昼前に消したが、あれは“合図”だ」
「見た場所、教えてください」
柱の根元。目線より低い位置。近づくと、粉が指先でこすれ、わずかに線の跡が残る。
クロが鼻を寄せ、くしゅんと小さくくしゃみをした。
「しろい、におい、すこし」
「ありがとう。拭いておこう」
ミーナが布で丁寧に拭き、イリアが位置を地図に落とす。二本目の柱にも、薄い擦れ跡があった。
関所アルダへ午後の報告。塔影は相変わらず涼しい。
「昼の動き」セルジオは短く言う。
「柱に三本線。白粉の合図と思われます。場所は市場井戸と倉庫筋手前。封札は無傷」
「受け。夜は衛兵を二人増やす。君らは見張りはするが、接触は避ける。騒ぎが起きれば、粉を再び撒く口実を与える」
「了解」
「掲示は続けて。短く、同じ言葉で」
クロはセルジオの机の端で、秤の揺れをまた真面目に見守っている。皿が止まると、彼も動きを止める。
セルジオが気づき、目尻を少しだけ下げた。
「良い相棒だな」
「はい」
夕方の街は、炊き出しの匂いと、帰り支度の足音で落ち着いていた。
ギルドに戻ると、ミレイユが新しい小札を指で弾く。
「“白い粉を見たら大人を呼ぶ”。子ども用に絵つきも作った。猫さんの横顔、使ってもいい?」
クロは顔を上げ、胸を張る。
「つかっていい」
「交渉成立だね」ミレイユは笑い、イリアが素早く猫の横顔の線を描いた。耳がぴんと立ち、ひげを三本。
見た子どもたちが指でなぞり、すぐ覚えたように頷く。
夜。三番倉の筋は、人影が少ない。柵と封札が目に入る高さにあるだけで、寄ってくる者の足は減る。
ハーゲンが場所を決める。
「俺とアキラは通りの陰。サビーネは屋根。ミーナとイリアは少し離れた角。――声は出さない」
クロは俺の横で伏せ、尻尾の先をわずかに動かす。通りの先で足音が鳴ると、動きが止まる。
砂時計が半分落ちたころ、二人組が角の影から現れた。背丈は普通、歩きは早くない。扉に近づき、封札を見て立ち止まる。
一人が腰を落とし、もう一人が周囲をゆっくり見る。鍵を出す気配はない。
やがて、立ち上がった男が扉の縁に指先を当て、何かを小さく描いた。
光にかざすと、薄い白で三本線。さきほど見た印と同じ。
サビーネの影が屋根でわずかに動く。矢は袋のまま。
男たちはそれ以上は触れず、路地の奥へ消えた。
追わない。
けれど、見失わない距離で曲がり角まで流れを確かめる。
彼らは途中で立ち止まり、古い木箱に同じ三本線を描き、宿の裏口の方へ曲がっていった。
そこは人が多い。深追いはしない。
イリアが地図に印を足す。ミーナは三本線の向きを控えた。上向き、右斜め。
「向きも合図かもしれない」
「明日、同じ向きのものが増えたら確かめよう」
見張りを続けていると、遠くで鈴が一度鳴り、別の通りの見回りが交代した。
その音に合わせるみたいに、クロが欠伸をこらえ、そっと俺の袖をくいと引いた。
「ねない。みる」
「頼むよ。少しだけ目を閉じてもいいから」
クロはきゅっと目を細め、尻尾を体に巻きつけ、耳だけ前へ向けた。
夜半、交代。
ハーゲンが小声でまとめる。
「今日は封札を見せただけで引いた。印は三つ増えた。場所は把握した。――明日は昼に印の意味を割り出す。倉庫の裏手、掃除のふりをして床を確かめる」
「了解」
ギルドへ戻る道、空気は冷え、街の音が小さい。
白樺亭の灯りは低く、マルタは眠そうな目をしながらも、台所から小さな器を出してくれた。
「薄いスープを一口だけ。猫さんは水ね」
「のむ」
クロは慎重に一舐めして、満足そうに目を細めた。
部屋で道具を拭き、鼻布を洗い、炭布は折って別の袋に入れる。
地図を机に広げ、三本線の印を赤で丸く囲む。向きは矢印で。
クロが机に前足をかけ、鼻先で地図の端を押した。
「さん、みっつ」
「三つ増えた。よく見てたね」
「みてた」
彼は得意げにひげを揺らし、胸を張る。前足の黒い点が、机の縁で小さくきらりと光る。
灯りを落とす前に、短く明日の段取りを書いて折る。
――午前:印調べ/倉庫裏の床確認。
――午後:掲示追加(絵札)/関所へ中間報告。
――夜:引き続き見張り。
紙を袋にしまい、深呼吸をひとつ。
外は静かだ。静かな夜は、次の日の準備に向いている。
目を閉じる。クロが胸の上で丸くなる。
「アキラ。あしたも、さん、みる」
「一緒に見よう」
息がゆっくり落ち着き、眠りが来た。次の足音に、すぐ動けるように。
◇
朝、白樺亭の窓を少し開けると、冷たい空気が新しい匂いを運んできた。
「今日は『印の向き』を確かめるよ」と俺が言うと、クロは椅子の上で前足をそろえ、きゅっと頷いた。
「みる。むき」
女将のマルタが粥をよそい、リナが木椀を並べる。クロの分は塩抜きだ。舌でちょん、ちょん、と慎重に舐めるたび、ひげが小さく揺れる。
街に出る前に、角の果物屋へ。フィオナが瓶の栓を布で拭き、光に透かした。
「薄め一本。猫さんは塩なし。……掲示、猫の横顔がよく効いてる」
店先で子どもが二人、猫の絵を指さして復唱しているのが見えた。
「白い粉を見たら――」
「――大人を呼ぶ」
クロは看板の下で胸を張り、えらそうに「にゃ」と一声。子らが笑って手を振った。
ギルドに寄ると、ミレイユが短い段取りを渡してきた。
「午前は市場と倉庫筋の三本線を全部なぞって、向きと高さを記録。午後は絵札の差し替え。関所には昼過ぎに寄って」
「了解」
イリアは薄紙と炭筆を抱え、ミーナは布と小さな刷毛、バケツ。俺は箒と木べら。表向きは“掃除”。サビーネは屋根と角で流れを見る。ハーゲンは距離を保って後ろから。
市場の井戸柱。昨日の跡は拭いたのに、うっすら新しい擦れがある。
「三本。上がわずかに長い」イリアが素早く写す。
反対側の柱には、右上がり。
「向きがばらばらに見えて、並べると矢印みたいに通りの奥を指してる」ミーナが地図に小さな三角を並べた。
通りを一本進むごとに、印は低くなり、地面に近づく。子どもの手の高さではない。大人が、しゃがまずに手首だけで描ける位置。
角の木箱にも薄く三本線。傾きは一定だ。
クロは鼻先を近づけ、くしゅ、と小さくくしゃみをした。
「すこし、あまい」
「ありがと。触らないで見ててね」
木箱の線は路地のほうに傾いている。俺たちは人波に紛れて曲がった。
倉庫筋の手前。昨日、二人組が立ち止まった角。壁の下部にだけ、白が粉っぽく残っている。
木べらで路面を軽くなでると、目地の隙間から白い粉が少しだけ上がった。粉袋を引きずった跡──というほど露骨ではない。だが、ここを起点に細い白が“点々”で奥へ続いている。
「掃除のふりで辿る?」とミーナ。
「うん。クロ、足は内側」
「うちがわ」クロはちゃんと左へ寄り、尻尾の先だけで合図をくれる。
路地の奥は、昼でも薄暗い。古い扉が並ぶ。三番倉の裏手にあたる壁の一枚だけ、蝶番が最近動いた光沢を持っていた。
扉の縁には、人差し指でなぞったような白が点々。取っ手の内側に、かすかな擦り傷。
「ここから中に入れた?」イリアが囁く。
「鍵穴はない。押し板式かも」
ハーゲンが周りの通りの音を一度だけ確かめる。人の流れは薄い。
「いま開けるのは無し。まずは印の意味を確かめる。……目立たない印を上から一つ足して、午後に変化を見る」
イリアが扉の脇に“洗い落とし用の白粉”で小さな丸をひとつ。拭けば消える程度の薄さだ。
掃除の道具を片づけて一度ギルドへ戻ると、ミレイユが羊皮紙をめくった。
「昼の関所。三本線の向きが“誘導”なら、午後は封じの段取りに移れる。……セレナ、手を貸して」
医務室の白いローブが出てきて、短く注意をくれる。
「匂いが揮う場所に長くいないこと。喉は薄い水を少しずつ。猫さんは抱えない、足元を守る」
クロが自分で胸を張り、「まもる」と言ったので、セレナは苦笑して小さく撫でた。
関所アルダ。セルジオは塔影の机で地図に目を落とした。
「三本線の向きが路地奥へ“流す”ように並ぶ、と」
「扉の脇に薄い印を追加しました。変化があれば、誰かが触れたと分かります」
「よし。午後、衛兵を二人離す。離れた角で見張る。……君らは距離を取り、印だけを追う。接触は避ける」
俺たちは頷き、路地に戻った。
薄い雲。日差しは柔らかい。路地の影は濃いまま。
扉の脇に足した小さな丸──消えていた。拭った跡が新しい。
サビーネが屋根の上で視線を滑らせ、わずかに顎を動かす。奥から二人。昨日の背格好に似ている。
彼らは足音を立てない。片方が扉周りの粉を親指でそっとなぞり、もう片方は見張り。
鍵はやはりない。内側の押し板を薄い針金で誘うみたいに、扉の隙間へ入れている。
クロの耳がぴくりと動き、体がかたくなる。
「いま、あく」
俺はクロの背に手を置いて合図を出し、ハーゲンと目を合わせる。距離は取る。衛兵の陰も、遠くに見えた。
扉が少しだけ内へ押し込まれた、その瞬間。
「手を止めて」
路地の入口側から、ランベルトが落ち着いた声で言った。兵の合図は短い。
二人はびくりと肩を揺らし、針金を引く。逃げ足に入る動きだ。
ハーゲンが一歩、前に出た。剣には手をかけない。
「その扉は関所管理。触るのをやめて、道の真ん中を歩いて出る」
片方が舌打ちをしかけ、もう片方が袖を掴んで止めた。目が揺れて、次の瞬間には従う形で路地の真ん中に戻り、外へ向けて歩く。
追わない。通りへ出たところで、別の衛兵が受け取るのが見えた。
静けさが戻る。扉の前にだけ、緊張の温度が残っている。
ハーゲンは扉の縁を指で示した。
「中を確かめるのは関所が来てからだ。俺たちは残りの印を拾って、周辺の“溜まり”を潰す」
ミーナが刷毛で微細な白を集め、布に包む。イリアは扉の枠と石畳のすき間を目で追い、粉の流れが“右へ”抜けるように配置されているのを確かめた。
「扉の内側に袋を置いて、少しこぼして“通り道”を作ってる。馬の鼻は、ここで必ず止まる」
「やっぱり、人の手だね」
午後の終わりに、別の“印”も見つかった。倉庫裏の低い壁、目立たない位置に、爪で削ったような小さな傷が三つ。白ではないが、形は同じ。
クロがそれを見つけて、前足で壁をちょい、と触り、すぐ手を引っ込めた。
「これ、ちがうしろい」
「粉じゃない。けど、合図の形は合わせてある」
イリアが地図の端に“爪三”の記号を作って控える。
関所から“封じ確認”の合図が届くまでの間に、ギルドで絵札の差し替えを済ませた。
猫の横顔の下に、絵がもう一つ増える。白い袋に×、その横に“呼ぶ”の字。
貼りに出ると、子どもがまた声に出して読んだ。
「しろいふくろ、だめ。おとなをよぶ」
「いいね」と声をかけると、クロは子どもと目を合わせて、同じ速度で「にゃ」。子が笑って真似をする。「にゃ」。
短い時間で、空気の硬さが少しほどけた。
夕刻。関所の印をつけた封じ札と、衛兵が二人、倉庫裏へ入った。
俺たちは少し離れて見守る。
扉の押し板を割らないように外し、内側の縁を布で覆って開ける。
中は狭い置き場だ。床板の一枚だけが新しい。釘の頭がやけにきれい。
板を持ち上げると、浅い穴。中に、布袋が四つ。うち二つは白。ひとつは灰。もう一つは何も入っていない予備。
ランベルトが袋の口を結び直し、封じの紐を掛ける。
「この場では開けない。関所へ運ぶ」
ハーゲンは頷き、扉に封札が重ねて貼られるのを見届けた。
サビーネは屋根から降りてきて、通りの気配をもう一度確かめる。
「見物は出なかった」
「よし。今日はここまで」
ギルドへ戻る途中、角の果物屋に寄ると、フィオナが外に立て札を出していた。
〈白い袋は大人へ〉
「字が増えたね」
「猫の絵があると、立ち止まるのよ」
クロは看板の足元で、前足をそろえ、姿勢だけは妙に凛々しい。
「おとな、よぶ」
「えらい」とフィオナ。クロは得意そうにひげをふるわせた。
関所アルダで、セルジオが袋を受け取るのを見届ける。
「中身の確認は今夜。結果は明朝。君らは寝る。……印の地図は預かる」
「お願いします」
ランベルトが封じ札の控えを渡してきた。
「扉はこのまま。……猫さん、今日もお疲れ」
クロは“勤務完了”の顔で「にゃ」と一声。ランベルトが笑った。
白樺亭の灯り。マルタが鍋を回し、リナが木椀を並べる。
「顔が少しほぐれた。良かった。薄粥、猫さんは塩抜き」
クロは前歯で少しずつ粥を舐め、尾を立てた。
「おいしい」
「よかった」
食後、セレナに喉と手を見せる。
「赤みはない。今日はこのまま寝て、明日、結果を聞いてから次の段取り」
「はい」
包帯細を一周、結びは外側。クロの前足も一度拭く。嫌がらない。拭き終えると、自分で肉球をぺろりと舐め、満足げに目を細めた。
部屋に戻る。地図の赤丸は、扉で止まっている。明日はここから“向こう側”を描くことになる。
灯りを落とす前、クロが胸の上に乗って、左前足の黒い点で俺の腕をちょん、と押した。
「アキラ。あした、きく?」
「関所で、袋の中身をね」
「うん」
窓を少しだけ開ける。夜の匂いは冷たくて、静かだ。
深呼吸をひとつ。目を閉じる。
白い袋の扉は、もう“開ける理由”が揃った。明日はそれを言葉にして、街に渡す。
◇
朝。白樺亭の窓を指一本ぶんだけ開けると、冷えた空気が喉にすっと通った。
マルタが粥をよそってくれる。クロの分は塩抜き。湯気に鼻先を寄せて、慎重に舐めるたびひげがゆれる。
「今日は関所で袋の中身を聞いてくるよ」
「きく。いく」
前足をそろえて座る姿だけは、どこか仕事前の顔だった。
関所アルダの塔影。セルジオは封を切った紙を二枚、机に並べた。
「結果が出た。白い袋は砂糖に甘い香草。それと、安い酒で香りを長持ちさせてある。匂いが薄くても、鼻のいい獣や子どもは引っかかる」
「灰色のほうは?」
「木灰に砕いた石粉。手に残りやすい。印をつける役目と、足跡を消すための“かけ粉”だろう」
セルジオは、扉の縁から回収した白い“点々”の写しも示した。
「昨夜、押し板を替えて封を強くした。しばらくは開かない。……あの二人も詰所で話を聞いている。名乗りは曖昧だが、同じ手口の場所をいくつか口にした」
「どこです?」
「市場裏と御者宿の裏小道。それから、橋の手前の荷置き場。全部、馬や荷車が“止まりやすい”場所だ」
ギルドへ戻る道、クロが小瓶の匂いを嗅いで、くしゅ、と小さなくしゃみ。
「すこし、あまい」
「昨夜の袋の香りが手に残ってるのかもね。もう拭いたから大丈夫」
手を見せると、クロは真剣な顔で肉球をちょいと触れて確かめ、安心したように尾を立てた。
受付で報告を終えると、ミレイユは新しい札の下書きを出してきた。
「“白い袋は大人へ”の横に、もう一枚。“甘い匂いが道にあったら、歩きで通る”。絵は猫さんに任せる」
イリアが猫の横顔を描く。クロは机の端に前足をかけて見学し、出来上がると満足げに「にゃ」。
「似てる?」
「にてる」
ひげまで数本描き足された。
午前は貼り替え。市場の井戸柱、御者宿の梁、門の詰所板、倉庫前。
どの場所でも子どもが立ち止まり、猫の絵を指さして声に出す。
「しろいふくろ、だめ」「おとな、よぶ」
御者宿では若い御者が札を見上げて頷いた。
「匂いで馬が止まるの、これで分かる。右に寄せて歩けばいいんだな」
「うん。焦らないのがいちばん早いよ」
昼前、角の果物屋。フィオナが瓶の口を布で拭き、栓を軽く叩く。
「昨日の路地、噂になってる。『扉の中に袋』ってやつ。——怖がらせるより、やっていいことと悪いことを短く書いた札が効くね」
「短いほど届く。今日、御者宿の裏にも足すよ」
クロは店先の箱の陰で、ひと休みの姿勢。前足をたたんでしまって、小さな塊みたいに丸くなる。
「ちょっとだけ、ねる」
「いいよ。すぐ起こす」
午後、関所から使いが来た。封じ札の写しと、短い伝言。
「“灰の指跡をつける連中”を、こちらでは〈灰指〉と呼ぶことにする。今夜は動きなし。——セルジオ」
名前がつくと、目に見えないものが、少しだけ掴める形になる。
サビーネは地図の端に小さく灰色の点を打ち、言った。
「名前があると、線が引きやすい」
ハーゲンは淡々とうなずく。
「札と見回りは続ける。追いつこうとせず、街を軽くしておけば、向こうの“楽”は減る」
夕方の点検。市場裏の白い擦れは見当たらない。御者宿裏の壁もきれいだ。
代わりに、橋の手前の荷置き場で、薄い匂いがひと筋。
クロが先に気づいて、尾の先でちょんと知らせてくれた。
「ここ」
風上に回り、地面を布で拭って、札の足元に書き足す。
「甘い匂いが道にあったら、歩く。止まらない」
御者が二人、声に出して読み、互いにうなずき合う。言葉が人から人へ渡るのを見るのは、いつも気持ちが落ち着く。
夜。白樺亭の食堂は、湯気でやわらかい匂いに満ちていた。
マルタが帳場から顔を上げる。
「今日は顔がいい。——猫さん、塩抜き」
クロは木椀の縁に前歯を当てて、ちょっとずつ舐める。舌の先に粥の白がついて、ひげに小さな雫が光った。
リナが笑って布でそっと拭ってくれる。
「おひげ、きれい」
「きれい」
クロは誇らしげに胸を張る。小さな胸だけど、張り方は一人前だ。
部屋に戻ると、イリアが今日の写しを広げた。三本線の向き、爪でつけた小傷、扉の位置、貼り替えた札。
ミーナは布袋の在庫を数え、ハーゲンは次の見回りの順路を整える。
クロは紙の端に座りたがるので、角に“クロ席”の余白を作ってやると、満足して丸くなった。前足をそろえて、鼻先だけ紙からのぞかせている。
「そこ、すき」
「うん。そこは君の席」
明日の段取りは、無理に増やさない。扉は封じた。札は届きはじめている。
関所の結果も、名前も出た。次は静かに薄く続ける番だ。
灯りを落とす前、クロが胸に乗って、左前足の黒い点で軽く合図。
「アキラ。あした、ねこも、みる」
「頼りにしてる」
喉の奥で小さく鳴く音が、布の上に伝わって心地いい。
窓の外、夜の空気は澄んでいる。
目を閉じる。
白い袋の扉は閉じた。けれど、街の扉はもっとたくさん開いている。
開いた扉の向こうへ、短い言葉と小さな札を、明日も運んでいく。
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