第13話 「白い指の落書き」

 朝の鐘が一度。白樺亭の窓が淡く明るむ。

 マルタが鍋を回し、湯気がねじれて立ち上がる。リナがパンを切り分ける音が、台所の奥で軽く刻む。


「今日は学校の掲示を見直すんだって?」

「はい。読み上げの時間に合わせます」

「なら腹に軽く入れていきな。猫さんは塩抜き」

「のむ」クロが真面目にうなずく。パンを小さくちぎると、前歯でそっとかじり、ひげが気持ちよさそうに揺れた。


 外へ出ると、通りは薄い霧の匂い。角の果物屋の前で足を止めると、フィオナが木箱を胸で受けるみたいに抱えていた。

「おはよう。薄め一本? 今日は声を使う日でしょ」

「お願いします。子どもに“読む場所”を広げたいんです」

「いいね。――あ、昨日の裏手、見たよ。猫さん、爪出さずに止めたんだって?」

 クロが胸を張る。「ださない」

「えらい」とフィオナ。瓶の栓を布で拭いて渡してくれた。「昼前に一口。喉、長持ち」


 学校の庭は、低い囲いの向こうで朝日を受けて土があたたかそうに見える。掲示板の前に小さな背中が並ぶ。

 教師が頷き、子どもたちが交代で札を読む。

「『白い線を見たら、右によって、歩く』」

 声がそろうたび、顔がほどける。クロは端っこで前足をそろえ、うんうん、と自分も理解しているふうに頷いた。


 読み上げがひと区切りついたころ、門の陰に、年のわりに大きな外套の少年が立った。背丈は俺と同じくらい。袖がやけに長い。

 視線は掲示ではなく、列の最後にいる幼い子の手元へ。

 袖から、薄い紙包みがちらりとのぞく。紙の角が白く粉をふいていた。


 目が合った。向こうは笑わない。

 俺も笑わない。教師に短く合図をしてから、ひと呼吸おいて少年に近づく。

「ここは読む場所だ。手はポケットから出してくれる?」

 少年は肩をすくめ、片手を出した。もう片方は隠したまま。

 クロが俺の足首をちょん、と押して、尾を立てる。合図だ。


 紙包みを袖の裏へ滑らせ、少年が踵を返した瞬間――クロが低く「にゃ」と一声。

 短い距離だった。猫の体が軽い弧を描き、少年の肘と袖のあいだに鼻先を差し込む。強くない、でも正確な押し。

 紙包みが、すべって地面に落ちた。

 白い粉が広がる前に、俺は布で包み込む。教師が子どもたちを一歩さげ、門を閉める。


 少年は逃げないで、あからさまに舌打ちをした。「よく見てるな」

「読む場所だから」

「……いい札だよ。だからこそ、邪魔だ」

 目は冷めていた。言葉の向こうに誰かの声色が張りついているような、借り物の話し方だ。


「名前は?」

「言わない」

「じゃあ、渡りの印でも。どこから粉を受けた」

 少年の視線がわずかに泳ぎ、庭の隅、石段の下へ落ちる。

 そこに薄い灰色の線で描かれた落書きがあった。五本の短い線。指の形。

 昨日、御者宿の裏で見たものに似ている。ただ、今日は二本が濃い。

 〈灰指〉――街でささやかれはじめた名が、喉の奥に浮かぶ。


 教師が一歩出て、落書きを拭いた。「子どもの前では消す。話は中で」

 少年は肩をすくめるだけで抵抗しない。逃げ道がないことを知っている足どりだ。

 校舎の戸口の影で、俺は布で包んだ粉の匂いを確かめる。甘い。けれど、昨日より薄い。

「混ぜて薄めたな」

 少年の口元が少し歪んだ。「いい鼻だ。猫の鼻のほうが上だが」

「猫は仲間だよ」

 クロは胸を張る。「なかま」


 教師が湯気の立つポットと、薄い茶を出してくれた。

 少年は茶を断り、机の角を指先でたたく。

「俺、伝えに来ただけだ。『札が増えた。道を変える』って」

「誰が?」

「言わない。……広場じゃなくて、鍛冶通りの角。今夜の人ごみにまぎれるのが好きなやつらがいる」

 声が、ほんの一瞬だけ震えた。自分が言っていることの重さを、少し分かっている声だ。


「こういう言い方、好きじゃない。けど、言う。――ここは読む場所だ。君は、次、読んでから歩け」

 少年は目を伏せ、短く笑った。「説教は嫌いじゃない。……猫、賢いな。爪、出さなかった」

「ださない」クロが胸を張る。

「その猫がいたら、札の前でやるのは難しいだろうな」

 少年は立ち上がり、扉のほうを見た。「俺はもう行く。粉は置いていけって言うだろ? 置いていく」

「置いてって。それと、手を洗って」

 少年は素直に頷き、水場へ向かった。指は細く、爪は短い。作業の手つきがある指だった。


 門まで送る。

 外に出た少年は、ふいに振り向いた。「“読む場所”って札、増やせ。今夜の角にも」

「やる。――君も言え。『読む』って」

 少しの沈黙。

「読む」

 その一語だけ置いて、少年は足早に通りへ消えた。


 校庭に戻ると、掲示板の前で子どもたちが並び直していた。教師が札の下へ新しい一行を貼る。

〈ここは読む場所〉

 文字は大きく、読むと口の形が自然に揃う。クロは札の前で前足をそろえ、声も出さずに“うんうん”と満足の顔。

 俺は布に包んだ粉を革袋に収め、教師と短く確認する。

「粉は関所へ。落書きは拭き済み。――昼の読み上げで、“読む場所”を一度増やしてください」

「やるよ」教師は笑って、帽子のつばに指を沿わせた。「君の猫、人気者だな」

 クロは照れたのか、しっぽの先だけを小さく振って、俺の影に半歩もぐった。


 ギルドへ戻る途中、鍛冶通りをのぞく。フーゴが店先で革を切っていた。

「角に“読む場所”を増やしたい」

「板なら厚手を二枚。雨でも字が残るやつがいいな」

「お願いします」

 フーゴは手を止めずにうなずき、板を肩で押して渡す。

「夜、人は音に流れる。札は目で止める。――猫、看板乗りはするなよ」

 クロがぴしっと座り直す。「のらない」

「えらい」


 関所アルダ。塔影が短く、石は温かい。

 詰所の前でセルジオが帳面を開き、視線で促す。

「一息で」

「『学校の門で粉の紙包みを回収。札の前を“読む場所”として維持。落書きは灰色の手形、二本濃い。夜、鍛冶通りの角に読む札を追加予定』」

「粉は?」

「甘いが薄い。混ぜの草の匂いが弱く残っています」

「聞いた。――落書きは流行り始めだ。描かせる場所を選ぶやつがいる」

「灰の指、ですね」

 セルジオの目が細くなる。返事はしないが、帳面の端へ小さく印をつける。

「板を二枚、持っていけ。夜の角へ。衛兵にも回す」


 塔影を離れるころ、空気がほんの少しだけ乾いた。夕刻が近い。

 角の果物屋に寄ると、フィオナがもう次の瓶を冷やしていた。

「学校、片付いた?」

「うん。夜は鍛冶通りの角。札を一枚増やす」

「いいね。――猫さんは、夜は抱え気味にね。人の足、増えるから」

 クロは耳をぴくりとさせ、「だっこ」と短く言って、俺のすねに額を押しつけた。

「お利口」フィオナが笑う。「今日は飴の代わりに、干した果皮を一枚。猫さんは香りだけ」

「のむ」クロはいつもの答えをして、鼻だけ近づける。


 夕方。鍛冶通りの角は、金槌の音が遠くに引き、代わりに足音が増える時刻。

 フーゴの板を掲示台に合わせ、文字を太く書く。

〈ここは読む場所〉

〈白い線を見たら、右によって、歩く〉

 紐は二重に通し、結び目は外側へ落とす。イリアが清書を重ね、ミーナが角を押さえ、ハーゲンは通りの流れをさばく。

 クロは抱えられたまま、額だけ出してじっと見守る。目が真円で、ひげが緊張でまっすぐ。

「クロ、見守り隊ね」

「みまもる」


 最初の一群が札の前で自然に速度を落とし、読む。二度目の群れも、読む。

 そのうしろ、袖の長い影が一つ、札の反対側の壁に指をのばしかけた。灰色の落書き――さっき学校で拭った手形と同じ形を描こうとしている。

 サビーネが屋根縁に姿を見せ、視線だけ下へ流す。矢は抜かない。

 俺は札の前から離れず、声だけ置く。

「ここは読む場所」

 影が一瞬だけ止まり、指が壁から離れた。

 人が流れていく。読んで歩く、短い列。

 影はやがて、流れとは別の、誰もいない細い路地へ吸いこまれる。追わない。札の前は、今日のところは守られた。


 クロが腕の中で小さく身体を伸ばし、あくびをかみ殺した。

「ねむい?」

「すこし」

「もう一回だけ、読み声を見送ったら帰ろう」

 クロは頷き、胸に顔をうずめる。耳だけが外を見て、しっぽの先が一度だけ左右に揺れた。


 札の前を、また一群が通る。読む声が重なって、やわらかい波みたいに角を曲がる。

 “読む場所”が増えるほど、街は静かに強くなる。

 そう確かめながら、俺は夜気を吸って、また吐いた。



 札を立て終えるころ、空の色が変わり始めた。昼の白から、金槌の音が遠くへ引いていく夕方の色へ。

 ギルドに戻ると、ミレイユが指で紙束を揃えて待っていた。


「学校と鍛冶の角、両方見たわね」

「はい。粉は回収。落書きは拭去。夜は角をもう一度回ります」

「関所へも回す。――セルジオの顔、いまなら空いてる」


 塔影は短く、詰所の前は涼しい。セルジオは帳面を開いたまま、目だけで促した。

「一息」

「学校の門で粉の紙包み。薄い混ぜ。描き手は子。灰色の手形が二本濃い。夜は鍛冶通りの角を“読む場所”に固定」

「聞いた。……子どもを使う手が混じってきたな」


 言葉が谷に落ちるみたいに静かだった。

「追わせないよう、札で止めます」

「そうしてくれ。衛兵に一枚ずつ渡す。短い言葉でいい」


 ギルドに戻ると、台所から湯気。薄いスープを少しもらって、クロには塩抜きの小皿。

 飲み終えると、猫は荷袋の口に上半身を突っ込み、そこから顔だけ出してきょろきょろした。

 袋の縁に前足をかけて、短い鳴き声。

「いく」

「わかった。抱っこで行こう」

 持ち上げると、喉の奥が小さく鳴って、体がふわりと温かい。耳は外の音に向いたまま。


 鍛冶通りへ戻ると、角にはもう人の流れ。板の札は目の高さ、文字は太く見やすい。

 サビーネが屋根の縁を歩き、ミーナは結び目を確かめ、イリアは太字の輪郭をもう一度なぞっている。

 ハーゲンは通りの反対側を見張りながら、ちらりとこちらを見るだけで全部分かったという顔をした。


 最初の群れが通り過ぎ、二つ目の群れの後ろが薄く途切れたときだった。

 路地の陰から、黒い帽子の少年が二人。袖は長め、歩幅は揃ってない。

 開いた掌の上で紙包みが一つ回る。包みの角、白い粉が光る。


「ここは読む場所だよ」

 声の届きやすい高さで、札を指す。

 少年の一人は目線を札に滑らせてから、もう一人の肘をつついた。

「読む場所」――口が、確かにそう動いた。

 だが次の瞬間、後ろから別の手が伸びる。年長の影。指先に灰色の跡。

 紙包みが開きかけ、白が路面へ落ちる。


 俺は布を開いて受け皿を作り、落ちる前に受け止める。

 年長の影が舌打ちし、路地へ下がった。

 サビーネが屋根から短く合図だけ。矢は抜かない。

 流れは止めない。札の前の列はそのまま歩く。子どもが声に出して読む。


「右によって、歩く」

 読み声が、路地の陰にまで届く。

 年長の影はそれを一度だけ振り返ると、軽い足で引いた。追わない。


 紙包みを布ごと封じると、指先がほのかに冷えた。甘い匂いは薄い。

 少年二人は札の文字をもう一度見上げてから、帽子のつばをさげて去った。

 クロが腕の中でもぞっと身を動かし、袋の口へ鼻先を寄せる。

「におい、すこし」

「今日はここで終わりにしよう」

「うん」

 腕の中で、猫の体温が少し下がる。緊張がゆるんだ合図だ。


 ギルドへ戻る前、角の果物屋に顔を出す。

 フィオナが瓶を出しながら、札へ顎をしゃくった。

「読む声、聞こえたよ。角が少し静かになった」

「ありがたい。今夜はこれでやめます」

「賢い判断。猫さん、眠そう」

 クロは否定も肯定もせず、瓶の栓を凝視していた。しっぽの先だけが、眠気と好奇心の間で行ったり来たりした。


 夜、白樺亭。粥は薄く、香草は控えめ。

 マルタが器を置きながら、俺の肩の位置をさっと見る。

「肩に力を入れすぎないのね。……で、どうだった?」

「昼の学校と、夕方の角。読み声が効きました」

「いいね。声は道具だよ」


 部屋に戻って道具を拭き、布を新しいものに替える。

 クロはベッドの端からじっと見ていて、やがて前足で枕を二度、ちょん、ちょん。

「ここ」

「そこがいいの?」

「うん」

 置いてみると、そこにぴたりと丸まる。鼻先をしっぽに埋め、左前足の黒い点だけが外に出た。


 灯りを落とす前、薄紙に今日の要点を数行で記した。

 ――学校:粉の紙包み回収/“読む場所”固定

 ――鍛冶の角:札増設/夕の試し仕掛けは失敗

 ――落書き:灰の手形(濃二)

 記し終えると、その紙を重ね、息を吐いた。


 翌朝。空は薄く晴れ、屋根の水は乾きかけ。

 門でランベルトが笛を指で転がし、「昨日は静かだったな」と言った。

「読み声のおかげです。――落書きは灰色の手形でした」

「衛兵にも話しておく。子に描かせるなら、なおのこと札の場所を増やすさ」


 ギルドに戻ると、ミレイユが新しい板を三枚用意してくれていた。

「市場の裏と、橋のたもとにも“読む場所”を足す。言葉は同じ。子に読ませるなら、字は大きく」

「お願いします」


 市場裏は、屋根の陰で風が巻きやすい。粉が滞留する場所だ。

 板を立てる前に、路面を布で軽く拭き、目線の高さを合わせる。

 イリアが太字で書き、ミーナが角に指を当て、ハーゲンは通りの流れをさばく。

 クロは看板の足元で座り、通り過ぎる子どもの靴を真剣に見ていた。

 靴の先が白い粉で汚れていないか、まるで点検するみたいに。


 そこへ、昨日の外套の少年が姿を見せた。袖はやっぱり長い。

「来たか」

「見に来ただけだ。……札、いい位置だな」

「橋にも立てる」

 少年は視線を落とす。

「橋の欄干の影、石の段の下に、小さな空洞がある。そこ、見ておけ」

「どうして教える?」

「知らない。教えたくなったから」

 言い終わると、少年は帽子を深くかぶり、足早に去った。


 橋のたもと。欄干の影に沿って段が組まれている。

 膝をついて石の下をのぞくと、薄い革袋が押し込まれていた。

 引き出して開くと、白い粉の包みが三つ、もう一つは灰で描いた小さな手形の札。

 札の裏に、にじむように書かれていた。

〈列を崩せ。読む場所を減らせ〉


「見つけたか」

 背後で、ハーゲンの声。

「回収して関所へ。橋にも札を立てる」

「うん」


 板を立て、字を大きく。

〈ここは読む場所〉

〈白い線を見たら、右によって、歩く〉

 水の光が文字に揺れる。

 橋を渡る人が、立ち止まらずに読み、歩く。文字は歩きながらでも読める太さだ。


 関所アルダ。セルジオは革袋を受け取って、匂いを確かめ、秤に乗せた。

「甘い。混ぜは薄い。……裏の文言が気に入らないな」

「減らせ、です」

「増やすよ。読む場所をな」

 セルジオは卓上の板へ赤い印を足した。「橋、門、学校、市場裏、鍛冶の角。次はどこにする?」

「御者宿の前。朝、馬の鼻が下がりやすい」

「いい。板を二枚渡す」


 詰所を出ると、クロが小さくくしゃみをした。

「粉、きらい」

「そうだね。……でも、札は好きでしょ」

「すき」

 猫のひげが嬉しそうに広がる。鼻先が少し上向きになって、光を嗅ぐみたいな顔をした。


 御者宿の前。柱に板を結び、字を太く。

「ここは読む場所」

 若い御者が声に出して読み、同僚に指で示す。

「右によって、歩く」

 口で言うと、胸の奥まで話が入るらしい。顔がほぐれていくのが見える。

 宿の親父が、柱の影から顔を出した。

「札があると揉めない」

「揉めなくていいですね」

「ほんとにな」


 昼の鐘。ギルドに戻る途中、角の果物屋。

 フィオナが瓶の口を拭きながら、目だけで合図した。

「橋の札、見たよ。猫さん、板の足元で背筋伸ばしてたね」

「点検してました」

 クロは胸を張る。「てんけん」

「頼もしい番猫だ」フィオナが笑って、干した果皮を一枚、猫の鼻先に寄せた。「香りだけね」

「のむ」


 午後、ギルドで短い打合せ。

 夜は橋と鍛冶の角をもう一度見る。

 セレナが医務室から顔を出し、「喉は一口ずつ、歩きながら飲まない」と釘を刺した。

「わかってます」

 クロが「のむ」と復唱して、セレナに笑われた。


 夕方。橋の札は人の流れの中で淡く光り、読む声が川の音に混じる。

 鍛冶の角は、屋根からの反響で声が集まりやすい。読み声が短く重なり、足が自然にそろう。

 落書きは、現れなかった。

 札の前が“読む場所”であれば、手は迷う。描く前に、目がいったん文字に引かれるからだ。


「今日は上出来だ」ハーゲンが短く言って、通りの向こうを一度だけ見た。「追う必要はない」

「追いません」

 クロがあくびをかみ殺し、前足で目元をこする。

「ねむい」

「帰ろう」


 白樺亭の夜。粥はやさしい味で、猫の分は塩抜き。

 マルタが器を置き、俺の背を軽く叩く。

「札は紙でも、守ってるのは人だよ。――よくやった」

「ありがとうございます」


 部屋。道具の並びを整え、薄紙を重ねる。

 クロが枕の手前で丸くなり、左前足の黒い点を、そっと俺の手の甲へ。

「アキラ。よむの、すき」

「俺も」

「よかった」

 息がゆっくりになり、猫の体温が布越しに伝わってくる。

 灯りを落とすと、今日の読み声が、まだ部屋のどこかに残っている気がした。



 翌朝は風が軽かった。川面のきらめきが橋の腹で揺れて、欄干の影が石段に短い縞を作る。

 俺は札の角をもう一度押さえ、結びのゆるみを確かめた。字は大きい。読みやすい高さ。昨日より、目が文字に吸い寄せられているのがわかる。


「……ここは読む場所」

 手をつないだ親子が声に出した。

「白い線を見たら、右によって、歩く」

 子の声は高く、よく通った。クロが欄干の足元で尻尾を立て、うんうんと頷くみたいに瞬きをする。自分の仕事だ、と言わんばかりの顔だ。


 午前の巡回をひと区切りつけて、ギルドへ戻る。

 ミレイユは札束をぱらりとめくり、ふっと笑った。

「橋の札、いい位置だったみたいね。今朝から“読む声”の報せが増えた」

「市場裏も落ち着いてきました」

「なら、今日は“昼前の混む時間”を重点に。御者宿→広場→橋、の順で回ってください」


 御者宿の前では、若い御者たちが入れ替わりで札を指して読み上げていた。

 宿の親父が背後から声を落とす。

「口で言い合うと、けんかにならない。札の字が先に並ぶからな」

「よかったです」

 クロは柱の影で座り、通り過ぎる馬の鼻先を真剣に見ていた。鼻が下がりそうになると、そっと視線を札に誘う。――そう見えるだけかもしれないが、御者は皆、笑って礼を言った。


 広場に行く途中、角の果物屋。

 フィオナが瓶の口を拭きながら、指先で空を指す。

「雲が薄い。粉が舞いやすい日だよ。はい、薄め一本。猫さんは塩なし」

 栓を抜くと、クロが鼻を近づけて、そっと目を細めた。

「すっぱい。ちょっと」

「ちょっとね」

 舌先が一度だけ瓶口に触れて、満足げに尾を立てる。


 昼前の広場は人が集まり、風も入り組む。水飲み場のそばに子どもが三人。指先は紙の上。札を見上げて、声が揃った。

「右によって、歩く」

 その時だ。

 市場の方角から荷馬が一頭。鼻が石畳に落ちかけて、前脚が二歩ほどもつれる。地面に、白い粉がうっすら帯を作っていた。誰かが傍らで紙包みを握り、じり、と足を引く。


「こっちへ」

 俺は跨がるように粉の帯と馬の鼻先の間に入り、膝で視線を切る。

 喉の奥で息を細く整え、粉の端を払うように手をかざした。風がわずかに起き、粉が帯から外れ、石畳の縁へ寄る。

 クロが小石をころんと転がし、細い狭道ができあがる。

 御者は視線を上げ、歩幅を小さく、ゆっくり。馬は二歩、また二歩。

 通り過ぎざま、御者が帽子に手を当てた。

「助かった。札、ありがたい」

「札と、声です。……ここは読む場所ですよ」

 近くにいた見物の少年に言うと、少年はこくりと頷いて自分で札を読み上げた。


 粉の紙包みを握っていた男は、いつのまにかいなくなっていた。落ちた粉は布で拭き取り、薄紙に短く記す。

 その時、欄干の陰で何かがきらりと光った。

 小さな石札――昨日回収したものと同じ手。裏に浅い文字。

〈夜の橋で線を増やせ〉

 幼い字ではない。あれを写す手の主が、近くまで来ている。


 夕方の見回りは、橋を最後に回す段取りに変えた。

 鍛冶の角ではフーゴが店の前を掃いていた。

「札の縁、もう一度太くしておいたぞ。雨でも読める」

「助かります」

 クロはほうきの先を追いかけ、ちょい、ちょい、と前足で叩く。

「働いてるふりだな」

 フーゴが笑って、クロの額を指で軽く弾いた。猫は怒ったふりをして、すぐ喉を鳴らす。


 日が落ちきる少し前。橋のたもとへ戻る。

 欄干の影で、昨日と同じ少年が立っていた。長い袖。目は札を見上げている。

「また来たか」

「読むために」

 視線は文字から外れない。

「夜に増やせ、って石札にあった」

 少年は反応しなかった。代わりに、袖口から紙切れが一枚、すべるように落ちる。

 拾って裏を見る。

〈僕たちは怖い人じゃない。白い線は遊びだ〉

 文字の弱さは、むしろ大人の手を想像させた。子どもに書かせた――あの灰色の手形の書き味だ。


「遊びなら、橋の上じゃなくて紙の上でやってくれ」

 俺がそう言うと、少年は初めて顔を上げた。

 目が、迷っていた。

「……橋の下で、夜に大人が袋を置く。見たことがある」

「場所は?」

 少年は欄干の継ぎ目を指さし、すぐに帽子を深くかぶって去った。

 クロが「みた」と小さく言う。ひげが前へ伸びる。


 橋の下は、石の匂いと水の音。

 欄干の継ぎ目から降りる細い段を抜けると、影が一段深くなる。

 石の窪みに、薄い革袋。昨日と同じ。

 ただ、今日は袋の口に小さな鈴。踏めば音が鳴る仕掛けだ。

 ミーナが布で包んで鈴を外し、ハーゲンは周囲を見張る。

 川風が一度だけ強く吹き抜け、欄干の上の人影が揺れた。

 影は一つ。すぐに遠ざかる。追わない。


 革袋の中身は、薄い粉包みが三、灰の小さな手形の札が一。

 裏の文言は変わらない。

〈列を崩せ。読む場所を減らせ〉

 袋ごと布で包み、関所へ。

 セルジオは鈴を見て、短く鼻を鳴らした。

「音で気を引くつもりだ。……“読む場所”を増やすのが正解だな」

「明日は御者宿の裏にも立てます」

「許可する。護衛隊にも回覧しておく」


 ギルドに戻ると、ミレイユが地図に小さな赤点を増やした。

「読む場所:門・広場・鍛冶の角・市場裏・橋・御者宿前。次は御者宿裏。――字はこの大きさで統一」

「了解」

 クロは地図の端に座り、前足で点を一つずつ数える。

 数え終わると、満足そうに尾を立てた。

「いっぱい」


 夜、白樺亭。

 マルタが器を置きながら、俺の顔を見て言う。

「紙が街を強くするね。……でも、紙だけじゃない。読む声があるから、札が札になる」

「はい」

 クロは椀のへりに顎を乗せ、眠そうに瞬きしている。舌先で粥をちょびちょび掬い、食べ終わると前足で口元をぺたぺた押さえた。

「きれい」

「きれいだね」


 部屋で道具を拭き、今日の紙を重ねる。

 窓の外、橋の方角に灯りが二つ。巡回の明かりだ。

 クロは枕を二度つつき、あくびをひとつ。

「アキラ。あした、はし?」

「午前に橋、午後は御者宿の裏。――読む声を増やそう」

「よむ」

 猫は胸の上に丸くなり、左前足の黒い点をぽんと当てた。

 その重みで、今日の緊張がすこしほどける。


 灯りを落とす前、薄紙に短く記す。

 橋下の袋、鈴の仕掛け。少年の告げ口。読む場所の追加。

 紙の上の線は静かで、手の中の猫は温かかった。

 明日は、また読む声を増やす。



 夜の橋は、水の音がすべてを小さくする。欄干の影が長く伸び、足もとだけが明るい。

 俺とミーナは欄干の継ぎ目から下へ降り、段の途中で止まった。橋の腹に指を当てると、石は冷たい。クロが先に降りて、鼻先で風の向きを確かめる。ひげがそよぎ、こちらを見上げて「こっち」と小さく鳴いた。


 鈴の仕掛けは昼に外してある。代わりに、石の隙間に細い糸を通した。衝くでも絡めるでもない。ただ、触れたら分かる程度。音は出ない。

 ミーナが声を落とす。

「来るなら、今の刻だね」

 川上の方角から、砂を踏む小さな気配がした。革の底。焦らない歩幅。上に、もう一人。欄干の外側に張り付き、下をのぞき込む影。


 先に現れたのは、橋の腹の陰だまり。人影がひとつ、しゃがんで革袋を出す。

 袋口に手をかけた瞬間、指先が糸に触れた。わずかな震えがこちらに伝わる。

 上の見張りが、短く舌打ちした。

 クロが横にすべり、俺の足の甲に前足をそっと置いた。動くな、の合図みたいに。


 袋を置いた手が迷う。こちらはまだ出ない。

 次の瞬間、上の影があきらめたように身をひねった。逃げる気配。

 俺は段を二つ上がり、欄干の内側で姿を見せた。

「それ、置いていけ」

 男は面布で口を隠し、片手に細い棒。言葉は出さない。

 橋の灯が彼の目だけを白くした。ほんの一拍、見つめ合う。

 先に視線を落としたのは向こうだ。踵を返し、川上の闇へ消える。追わない。

 下の男も影に溶けた。足音は二つ。重なって遠ざかった。


 残ったのは革袋と、欄干の継ぎ目に引っかかった小片。

 拾い上げると、錫の札。親指の先ほど。片面に浅い印。

 ――灰色の指。

 粉の手形を押す時に使う、おそろいの刻印だ。

 ミーナが息を吸い、小さくうなずく。

「印、出たね」


 袋は昼のものと同じだった。薄い粉の包み、粗末な紙、そして細い紐。

 札には、場所の名が並ぶ。門の脇、広場の桶、市場裏の角……読み合わせの札が集まる場所ばかりだ。

 クロが袋の縁をのぞき、すぐに顔を上げて首を振る。

「におい、うすい。すこしだけ」

「今日は撒く気がなかったんだろう。『置けたか』を確かめに来た」

 糸の震えは、たぶん合図の代わり。音が出ないぶん、仲間だけが分かる仕掛け。


 関所へ。

 セルジオは札と刻印を見るなり、机の上で指を二回だけ鳴らした。

「印があれば、回覧が速い。――“灰指(はいゆび)”、これで公の呼び名にできる」

「読み合わせの場所を嫌います。『読む声』が邪魔なんでしょう」

「なら増やせ。明日の朝いちで“読む場所”をもう二つ増設。御者宿の裏と、学校の門だ」

 短い筆が紙の上を走り、回覧札が一枚増える。

「追跡はしない。街の中で勝つ。紙と声で」


 ギルドに戻れば、ミレイユが地図の点をさらに二つ、赤くした。

「学校の門は先生が手伝ってくれる。御者宿の裏は親父さんが柱を出すって」

「心強い」

「字は揃える。言い回しも揃える。――今日の“刻印”は写しを作って、橋守と学校に見せるよ。大人に、子どもの前で話してもらう」


 角の果物屋に回ると、フィオナが棚の奥から古い掲示札を出してきた。

「昔、祭りのときに使った“列は歩き”の札。裏を白く塗り直せば使えるよ」

「借ります」

「返さなくていい。街で回して」

 クロは返り道、その札の角に前足をぴとっと当てて歩く。渡したくない子どもみたいな顔。

「気に入ったのか」

「うん。かど、つるつる」

 指で撫でると、たしかに手触りがいい。角が丸い札は、怪我を生まない。


 白樺亭。

 マルタは短い息で笑って、湯気の上に器を置いた。

「顔、やわらいだね」

「追いかけっこにならなかったから」

「それがいちばん。……猫さん、どうだった?」

 クロは真面目な顔で器に口をつけ、舌で一度すくってから答えた。

「におい、すくない。おと、しない。――きょうは、こな、すこし」

「働き者だねえ」

 リナが頭をそっと撫でると、クロは喉を小さく鳴らし、器のへりに顎をのせた。


 部屋に戻って、刻印の写しを線でなぞる。

 灰色の指。

 押しつければ、手形は何度でも増える。けれど、読む声は、人が口にしないと増えない。

 だから明日は、声を増やす日だ。


 紙の束を三つに分け、角を指で揃える。

 クロが近づいて、左前足の黒い点で一枚をちょんと押さえた。

「これ、ぼくの」

「じゃあ、御者宿の裏のやつはクロの係」

「うん」

 丸くなって、尾をぴたりと身体に巻きつける。

 外では風が細く鳴り、橋の上の灯がひとつ消えた。

 目を閉じる前、胸の内で今日の言葉をひとつだけ繰り返す。

 ――読む場所を増やす。


 それだけ決めて、眠った。翌朝の声は、もう準備ができている。

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