第3話 「薄灰の印」

 明け方の白樺亭は、湯気が静かに上がっていた。

 マルタが鍋を回し、リナが皿を置く。粥は薄く、香草の匂いは控えめだ。

「今日も道だろう?」

「はい。穀物組合の短距離です」

「猫さんは塩抜きね」

「のむ」クロは真面目な顔で小椀に鼻を寄せ、少しずつ舌で掬った。


 外は、昨夜の名残で石畳がしっとり濡れている。角の果物屋で小瓶を一本。フィオナが栓を拭き、光に透かした。

「海塩はあなたにだけ。猫さんは無し。――里程標の裏、昨日の灰はどうだった?」

「薄い擦り跡が残ってました。衛兵が記録だけして、追わない方針です」

「了解。気をつけて」

 クロが瓶の口をくんくん嗅いで、短くうなずく。

「すっぱい、すこし」

「喉に効く味だ。あとで一口だけ」


 荷置き場北棟。帆布の表が朝露で光り、御者のヘルムートが輪留めを外している。

 隊長のマルクは手短に確認を済ませた。

「前はリオネル、側面にサビーネ。補助はアキラが左、ウィルが右。猫さんは私の後ろで頼む」

「いる」クロは隊長の影に位置を取る。尾がぴんと立った。

 出立前、マルクが一つだけ念を押す。

「泥路で焦らない。板は必要な分だけ。呼びかけを先に」

 それで十分だった。


 城門を抜けると、春風街道の色が広がる。草の水滴が朝日に細く光り、遠くの塚に薄い白がまとわりついて見えた。

 行列は静かに進む。リオネルの槍が道の中央を指し、サビーネの弓袋が肩で揺れる。御者ふたりは歩幅を合わせ、荷車は鳴らない。


 最初の里程標が見えた。

 石柱の影、地面の土色がわずかに違う。棒の先でそっと払うと、灰が指先に軽くつく。

「まただな」リオネルが眉を寄せる。

「昨日の門裏と同じ匂いです。甘くはない。燃えかすの方に近い」

 マルクが短く判断した。

「記録だけして通ろう。御者は右へ半歩寄せて」

 うなずいて、歩く速度を保つ。


 里程標をいくつか過ぎるうち、クロがときどき鼻を上げる。

「うしろ、しずか」

「助かる」

 気配は落ち着いていたが、足元の仕掛けは増えていた。

 路面に浅い泥の筋が左右に走り、乾きが不自然に揃っている。棒で撫でると、表面だけが薄く固い。

「上だけ乾かして、下は柔らかい。車輪が取られる作りだ」

 俺は板を一枚だけ取り、角度を作る。御者が歩きを崩さず通り、板は回収。二台目も同じように越えていく。

 ウィルが反対側で息を吐いた。

「板、もう一枚要るかと思った」

「一枚で足りるなら、それが一番早いです」

「肝に銘じるよ」


 街道が緩く下る場所で、クロが耳を立てた。

「まえ」

 道の端に、雀の羽根が二枚、十歩おきに置かれている。風で飛ばず、指でつまむと根本に薄い灰。

「目印……だな」サビーネが羽根をじっと見る。「子どもが拾って遊ぶものじゃない置き方」

 マルクの声は低いが、端的だった。

「そのままにして進む。拾わない。――ヘルムート、内側を歩かせて」

 俺は羽根の位置を頭の地図に書き込み、もしもの時に備えて板の位置を手前に寄せる。


 小川を渡ってから一刻ほどで、関所アルダの塔が見えてきた。

 列に入り、順番を待つ。セルジオが帳面を抱えて出てきた。

「穀物組合、二台。往復一泊。――道は」

 マルクが簡潔に述べる。

「里程標の影に薄い灰。板一枚で越える泥筋あり。羽根の目印を二十歩間隔で確認」

 セルジオの視線が俺へ移る。

「補助、一息で」

「『灰は燃えかす。甘い匂いなし。泥は上だけ乾かして下が柔い。羽根は根本に灰。拾わず通過』」

「受けた。衛兵に回す。――夜営は南の丘。風よけは十分」

「感謝します」


 関所を越え、南の丘を背に低く帆布を張る。火は小さく、湯だけを温める。

 ヘルムートが荷車の留め具を確認し、リオネルが槍の穂先に布をかぶせる。

 ウィルは黙々と板の泥を布で拭いた。

「使った後に拭くの、手が冷えますね」

「ここで拭いておくと、明日の朝が楽ですよ」

「なるほど」


 食事は乾いたパンを薄い湯で柔らかくしただけ。

 クロには塩抜きの水。舌で少しずつ掬い、喉を鳴らした。

「おいしい」

「よかった」

 マルクが短く全員を見渡す。

「番は三交代。私は最後。アキラは二番でサビーネと。――合図は静かに」

 それだけ言って、彼は地図をひろげ、羽根の印の距離を指で測った。

「二十歩間隔、二列……いや、三列の可能性。誰かが歩幅で測って並べたな」


 二番の番。風は弱く、草の音が一定だ。

 サビーネが遠くの暗がりへ視線を送る。

「羽根を置いた手、軽い。重い手だと、根本に土がつく。灰だけってことは、運び慣れた人間」

「町の内側の擦り跡と、つながるかもしれません」

「かもね」

 彼女はそれ以上、決めつけない。視線は動き続け、矢は袋のままだ。

 帆布の端で、小さく砂が鳴った。

 クロがこちらを見上げる。

「ちいさい、ある」

「分かった」

 音の方向へ目を向けても、闇は薄いまま。何も起きない。

 サビーネが小声で言う。

「今夜は来ないよ。印を撒いた手は、進み方を見に来てるだけ」

 胸の奥の緊張が、少しずつ冷めていく。


 夜が明ける前、交代の合図。

 眠りにつく前に、セレナにもらった茶葉を一欠け、ぬるい湯に落とす。香りが移ったところで口に含む。喉が楽になった。

 目を閉じると、灰の薄い匂いと羽根の位置が浮かんだ。

 明るくなったら、同じ場所を通る。あの二十歩をどう使うのか、向こうの意図を測りながら。


 灰は粉でも、足跡を描く。

 誰かの足は、必ずどこかへ続いている。

 その先に、何があるのか。今日はそこまでは行けない。

 けれど、印は増えている。見過ごすわけにはいかない。

 そう思いながら、短い眠りに落ちた。



 薄明かりが帆布の端まで降りてきた。小さな湯で顔を拭き、指のこわばりをほぐす。

 ヘルムートが輪留めを外し、マルクが全員の目を見てうなずいた。出発。


 草は夜露で濡れ、車輪が静かに光の筋を引いた。丘を一つ越えると、道は川筋に寄り添う。水は浅く、向こう岸には粉屋の低い屋根が見えた。

「渡し板、置く」ヘルムートが短く言い、木の板を二枚、浅瀬に平行に据える。荷は重くない。歩きのまま一輪ずつ渡す。揺れない。


 対岸に上がったところで、クロが鼻をひくつかせた。

「におい、かわる」

 風上の藪から、焦げた灰の匂いが薄く漂ってくる。近づいて覗くと、低い枝に糸。枝の先に小袋。

 糸をつまむと、指に灰がついた。袋の口は荒く縛ってある。引けばほどけ、灰がばさっと落ちる仕掛けだ。

「馬の鼻先に落とすつもりだな」リオネルが小声で言う。

 俺は手袋のまま糸を切り、小袋を布で包んで落とし袋に入れる。枝と糸はその場でほどき、糸端は掌に巻いて回収した。


 川沿いの小さな平地で、若い男ふたりが腰を上げた。ひとりは素足に薄い靴。もうひとりは肩に篭を斜め掛け。篭の縁に灰が白く付いている。

 ふたりは顔を見合わせ、反対側に走り出した。

 マルクは御者の方に顔を向けただけで言った。「止めずに進む。視線だけで追え」

 荷車の歩みは変えない。俺とウィルは左右に少し開き、サビーネが弓袋に指を添えたまま視界を保つ。


 走ったふたりは、道を外れて樹間に逃げた。片方は靴が脱げて足を取られ、もう片方が振り返って怒鳴る。

「こっち来るな!」

 怒鳴る声は空回りで、足は弱い。追えば捕まえられる距離だ。

 マルクは首を横に振った。

「荷を先に通す。危ない物だけ回収する」

 それで全員の動きが決まる。俺は小袋からこぼれた灰の跡を布で拭い、ウィルは糸の残りを集める。サビーネは矢を抜かず、道の先へ視線を置いた。


 粉屋の前で荷を一度休める。粉屋の親父が腕を組んで出てきた。

「騒ぎだったな」

「道の枝に仕掛け。灰の袋がひとつ」

「ここの若いのじゃないといいが」親父は眉間にしわを寄せ、しかしそれ以上は言わない。

 俺は布で包んだ小袋を見せ、「関所へ渡します」とだけ告げた。


 街道に戻ると、羽根の列が再び現れた。朝より新しい。根元の灰が濃い。

 クロが尾を立てる。

「ふえた」

 マルクが周囲を見回し、羽根の間隔を測るように歩いた。

「二十歩から十五歩へ。近づけてきたか」

 ヘルムートが荷車の向きを内側に寄せ、車輪の位置を一つ変える。板は使わない。踏まずに通る。


 昼前、森の切れ目で道の幅が広がる。そこだけ陽が直に射す。

 陽だまりの真ん中に、灰の円がうっすら描かれていた。人の腰ほどの直径。円の切れ目に小枝が置かれ、方向が指示されている。

「誘導の円だ」ウィルがつぶやいた。「中に入ると、次の印が見える作り」

「車は避ける」マルクは静かに言った。「人も入らない」

 その時、木陰から砂利がはねる音。

 若い男がもうひとり、顔だけ出して、こちらの様子をうかがっている。さっきのふたりではない。

 サビーネの視線がそちらに動いたが、矢は袋の中。

 マルクは声を張らず、男の方を見ないまま言った。

「印は残した。誰が見ているかも分かった。――通る」


 休憩は短く、食べるのも速い。固いパンを少し、水を一口。クロは塩抜きの水をゆっくり舐める。

 ヘルムートが荷車の縁を拭き、リオネルが槍の穂布を整えた。

 俺は手の灰を洗い落とし、包んだ小袋を袋の奥へ入れる。篭の灰がこぼれた痕は、布で拭いて跡を消した。


 午後は追い風。進みが楽になる。

 羽根は少なくなり、代わりに小石の並びが増えた。三つ、間を空けてもう三つ――脇の獣道へ誘う形。

 ウィルが見て、肩で笑う。

「だんだん雑だな」

「数で押し切れると思ってるのかも」俺も小声で返す。

「数を撒くには手間がかかる。どこかで袋を補給してる」

 ウィルの推測は筋が通っていた。どこかに灰と羽根の置き場がある。回収できれば根が切れる――でも、今は荷が先だ。


 丘をもう一つ越えたところで、女子どもが多い小村の屋根が見えてきた。今日の目的地だ。穀倉の前で荷を下ろし、帳面に印をもらう。

 村長が帽子をとって礼をする。

「ありがとう。北の畑沿いに、灰の筋が朝から増えていてね。子らに“遊ぶな”と口を酸っぱくしているところだ」

「明朝、戻りに見ます。関所にも話を通します」

 村長はすぐに理解した顔でうなずいた。

「助かる」


 日が傾く前に、村の端で小休止。

 クロが子どもに囲まれ、頭を撫でられてもじっとしている。

「くすぐったい」

 笑いが小さく起き、空気が緩む。

 俺は子どもに紙切れを渡し、地面ではなく紙に字を書くよう伝えた。灰は遊び道具にはならない。紙ならいい。


 夕刻、村外れで簡単な見回り。畑の角、杭の影に灰の筋。指で触れると、午前より新しい。

 杭の根元には、藁の短い切れ端。灰といっしょに袋へ入れ、指の跡は拭って消した。

 畑の端では、誰かが見ている気配だけが残った。姿は見えない。サビーネの視線が静かにそこへ置かれている。

 追いかけても得るものは少ない。今日は“どこに何があるか”を持ち帰ればいい。


 夜は村の共同小屋で。火は囲いの中、小さく。

 ヘルムートが車輪の具合を見て、リオネルが槍を拭き、ウィルは板の角を一本ずつ手で撫でて欠けを探す。

 マルクは地図を膝に広げ、灰の場所に小さく印を打っていく。

「関所で渡す写しは、里程標からの距離で整理する。印の間隔が詰まった場所が二つ。羽根から小石に変わった場所が一つ。……そこが要だろうな」


 順番に湯で手を温め、少しだけ柔らかい粥を食べる。

 クロには塩抜きの分。

「おいしい」

「よかった」

 眠る前、セレナの茶の束からひとかけを湯に落とし、香りだけ移す。喉が軽くなる。

 外では、畑の土がゆっくり冷えていく音がした。静かな夜だ。


 明け方、鶏の声で目が覚める。

 村長が戸口で待っていた。

「北の畑沿い、夜明け前に灰を撒いた影を見た者がいる。背の低い二人組。籠を持っていたらしい」

 俺は袋から昨日の小袋を見せる。

「こういう物を持っていた可能性が高いです」

 村長は顔をしかめ、深くうなずいた。

「詰所へ渡すんだね。うちからも“今朝見た”と書いてもらおう」


 帰り道は、同じ場所を反対からなぞる。

 朝焼けに里程標の影が濃く伸び、灰の筋はかえって見つけやすい。

 クロが鼻を地面に近づけ、時々短く鳴く。

「ここ、あたらしい」

 新しい筋は布で拭って薄くし、指跡を残さないよう気をつける。羽根は触らない。場所だけ覚える。

 小石の誘導は、痕跡の終わりが森の縁で途切れていた。足跡は残らない。

 サビーネが森の縁に視線を置いたまま言う。

「ここで人が交代してる。道具の持ち手が変わる匂いがする」

 ウィルが頷く。

「袋の結びも二種類でした」


 関所アルダが見えてくる。塔の影が手前の草地を冷たくしていた。

 列に入り、順番を待つ。セルジオが帳面と封蝋の箱を机に置いて出てきた。

「戻りの報告」

 マルクが簡潔にまとめた。

「灰の筋が増え、印は羽根から小石に変化。枝吊りの灰袋を一件回収。村の畑沿いで夜明け前の二人組目撃あり」

 セルジオの視線が俺へ。

「回収物」

 布で包んだ小袋、糸の束、藁の切れ端を机に置く。

「袋は灰。口は荒い縛り。枝吊りに使った糸。藁は畑の杭で切れたものです」

「受領」セルジオは秤に軽くかけ、匂いを確かめ、封蝋を落とした。「村長の書き付けも預かる。――門内の掲示、灰の注意を一枚増やす」

「お願いします」

 帳面に印が押され、俺たちは通行を許された。


 門に戻る前、粉屋に寄る。親父が出てきて、帽子のつばを触った。

「やっぱり仕掛けだったか」

「枝に吊るしていました。今日は取り払ってあります」

「助かった。馬が鼻を下げると、粉が無駄になる」

 短く礼を交わし、街へ戻る。


 城門の前は昼の人の波。ランベルトが掲示台の前で声を低く揃え、子どもに紙を配っている。

 掲示には新しい一行が足されていた。

〈灰の筋を見たら紙に知らせる。地面には書かない〉

 紙が揺れ、人の目がそこに集まる。灰は目印にされず、ただの“知らせ”に変わっていく。


 荷置き場北棟に戻り、積み荷を空にする。

 マルクが組合の帳面に署名し、ヘルムートが車輪の音を確認した。

 報酬は銅貨で渡される。ウィルは指で数え、少し笑って俺を見る。

「板一枚で働いた日にしては、いい日当だ」

「灰袋のおまけ付きですから」

「たしかに」


 解散の前、マルクが地図の写しを俺に差し出した。

「灰の場所、写しておけ。次の隊に渡す」

「はい」

 薄紙に印を重ね、里程標からの距離を端に書く。書き終える頃には、灰の筋が街道に散らばる“点”として見えてきた。線ではない。まだ繋がっていない。

「繋がる前に、止めたいですね」

「そうだな」


 冒険者ギルドへ。ミレイユが副本を受け取り、掲示板の端に貼った。

「“紙に知らせる”の文句、門にも市場にも回すよ」

「お願いします」

 白衣のセレナが奥から出てきて、手首と足首を見てくれた。

「灰の粉は吸い込まない方がいい。今日は温かいお茶を一口。猫さんはお水だけで」

「のむ」クロは素直にうなずく。

「よし。無理しないで」


 鍛冶通りを抜けると、フーゴが鞘の口を覗いて言った。

「泥は噛んでない。明朝、柄をもう一度拭け」

「はい」

 彼は一拍置いてから短く付け足した。

「灰は厄介だ。道具で散らかさず、布で扱え」

「分かってきました」


 白樺亭。マルタが鍋を回し、リナが笑顔で椀を置く。

「今日は色んな顔を見た顔だね」

「はい。灰の袋が出ました」

「関所に渡した?」

「渡しました」

「なら、食べな」

 粥はいつもどおり薄く、温かい。クロの小椀は塩抜き。

「おいしい」

「よかった」


 部屋に戻り、袋から薄紙の写しを出す。里程標の番号、羽根、小石、灰袋。点で並ぶ印に、指でそっと線を引く。

 まだ繋がらない。だが、方向の癖は見える。川に寄って、畑の縁をかすめ、門へ折り返す。

 どこかに、置き場。

 明日の朝、門の掲示をもう一度見てから、同じ場所を歩く。

 積まれる点が線になる前に、もう一つだけ手を入れたい。

 そう考えて、灯りを落とした。

 クロが胸の上で丸くなる。

「アキラ。あした、また、みる?」

「見る。紙に残して、渡す」

「うん」

 静かにうなずく気配がして、部屋は暗くなった。



 翌朝。門の掲示台に新しい一枚が増えていた――“灰の筋を見たら紙に書いて渡す。地面には書かない”。

 兵のランベルトは、人だかりができる前に板面の埃を拭き、俺に目で合図する。

「市場の角にも回してくれ。子どもは紙を渡せばだいたい聞く」

「わかった。果物屋にも声をかける」


 角の果物屋では、フィオナが瓶の口を布でぬぐっていた。

「掲示、見た。子らに紙を配る用に、薄紙を一束持って行きな」

「助かる。代金は――」

「あとでいいさ。灰の筋は商いにも響く。早く減らしたい」

 クロは瓶の香りを鼻先で確かめ、くいっと尻尾を立てる。

「すっぱい。すこし」

「一口だけだぞ」


 ギルドの前でウィルと落ち合い、昨日の写しを広げる。点で打った印が川沿いに偏っている。

「川の合流の手前、里程標の“二三”から“二五”の間だけ、濃いな」ウィルが指を置く。

「隠し場所があるなら、あの辺りだ」

 サビーネは弓袋の口を指でなで、顔だけでうなずいた。「見るだけ見る」


 川筋に入ると、朝霧が低く漂っていた。合流手前の杭列は湿り、板橋の下面に薄い影が揺れる。

 クロが小声で言う。「した」

 覗き込むと、橋桁の内側、梁と梁の間に葦の籠。泥で色を偽ってある。中には灰の小袋と、鳥の羽根、白い小石がいくつか。

「やっぱり置き場がある」

 ウィルが籠の結びを眺めて言う。「結び目が二種類。交代で使ってる」

 俺は手袋のまま籠を抱き、橋の下からそっと引き上げた。指跡を残さないように布で包む。


 そのとき、川向こうの茂みがわずかに動いた。背の低い影がふたつ。

 一人は子ども、もう一人は背丈のある少女。腰に細紐の袋。こちらを見て、身構えた。

 弓を抜く必要はない距離だ。サビーネは肩で合図だけ送り、矢は袋のまま。

 俺は籠を抱えたまま、川に向かって声を投げる。

「この籠を関所に持っていく。自分のためになる話があるなら、今のうちに紙に書いてくれ」

 少女は目を瞬かせ、指で子どもの背を押した。子は震える手で胸元から紙切れを取り出す。

 筆記はできないようで、少女が代わりに短く書いた――“倉庫裏の女、夜。袋、銅一。灰、粉屋。羽根、遠方の店”。

 顔を上げた少女は唇を噛み、「ごめんなさい」と小さく言った。

「もう川には置かない。紙は――果物屋に持っていけばいい」

 俺がそう言うと、少女は勢いよく頭を下げ、子の手を引いて茂みに消えた。追わない。


 関所アルダ。塔影は朝の冷気をためていて、吐く息が白い。

 セルジオは籠を見るなり、机の上の秤と封蝋箱を寄せた。

「橋桁の下か。……結びが二種。代わり番こで運んでいるな」

「川向こうで二人組を見ました。片方は子どもです。紙を渡して、倉庫裏とだけ」

「受領」セルジオは紙に目を走らせ、短く続ける。「倉庫裏には詰所を一つ増やす。粉屋には別便で聞き取り。――門の掲示、“紙で知らせる”を一段上げる」

「街にも回します」


 市場角に戻ると、人の輪の前でランベルトの声が飛んでいた。

「灰は紙で知らせる。道に残すな」

 彼が声を落とすのに合わせ、俺は掲示の縁を軽く押さえ直す。

 フィオナが束を抱えて走ってきた。「薄紙、追加。子らは新しい物が好きだ」

 薄紙の端を手渡すと、指でなぞって喜ぶ顔が増える。クロは小さくうなずいて、子どもの前足の動きをじっと見ている。

「かく。ここで」

「えらい」


 昼を少し回った頃、粉屋の前で荷車がもつれた。馬が地面の一点を嗅ぎ、足が止まる。

 帆布は新しく、御者は若い。焦りが顔に出た。

 俺は前に入り、馬の顎に指を添える。「顔を上に。歩幅は小さく」

 御者の肩越しに軽く道を指してやると、馬は二歩、また二歩と動き出した。

 粉屋の親父が胸を撫で下ろす。「朝の灰がまだ残ってたな。昼過ぎの風で飛ぶと思ったが」

「残りは拭っておきます。門の掲示も太字にします」

「頼む」


 午後、ギルドに戻ると、受付のミレイユが用紙の束を指で弾いた。

「“川の置き場”の写し、関所に副本を回した。倉庫裏の見張り、今夜からひと組増やす。――イリアが街用の札を書いてる。『灰は紙で知らせる』を一段大きく」

 白衣のセレナが奥から顔を出して、俺の指先を見た。

「灰を触った指は念のため洗って。喉は水で薄く湿らせるだけでいい」

「了解」

 クロには塩なしの水。小さく一口。

「のむ」


 夕刻前。倉庫裏へ。

 石畳の端に、古い縄の切れが落ちている。奥の壁際に、灰を入れるにはちょうどいい大きさの壊れた木箱。

 ウィルがしゃがみ、指で縁をなぞった。「粉の跡。重い物は置いてない。入れ替えだけしてる」

 路地の奥の曲がり角に目をやると、板庇の影に女が立っていた。

 三十代半ば、眼差しは強い。こちらを品定めするように測っている。

 俺がそちらを見た瞬間には、もう姿は消えていた。足音は残らない。

 サビーネが短く言う。「人を連れて動く目だ。子どもだけじゃない」

 追っても薄い足跡しか残らないだろう。ウィルが肩をすくめた。「詰所を置くしかない」

「置こう。今夜から」


 門の鈴が一度鳴り、夕方の列が歩きに切り替わる。

 ランベルトが掲示を指差し、短い言い回しで繰り返した。

「紙で知らせる。地面に書かない」

 親が子の声をなぞる。

 街は言葉を覚えていく。短いほど広がりが早い。


 白樺亭。薄い粥に少しの香草。マルタが木椀を置きながら、俺の顔を見た。

「目が動く日だったみたいだね」

「橋の下で籠を見つけた」

「関所に回した?」

「回した」

「それなら、あとはこっちの仕事だよ。食べて寝る」

 クロは塩抜きの小椀を前歯で少しずつ。

「おいしい」

「よかった」


 部屋に戻り、薄紙の写しをもう一度並べる。

 点は増え、線の気配が濃くなる。

 “倉庫裏の女”――あの眼差しは、通りすがりのそれではない。

 子どもに銅貨、粉屋から灰、羽根は遠くの店。手は多いが、言葉はひとつに揃っているはずだ。

 明日は、倉庫裏に詰所が立つ。

 そこで見えるものが、次の形を決める。


 灯りを落とす。クロが胸の上に乗り、左前足の黒い点をそっと押しつけた。

「アキラ。あした、くらいとこ?」

「倉庫裏。暗い場所だけど、見張りが立つ」

「ぼく、みる」

「頼む」

 息を整える。外の路地から、遠く鈴の音が一度だけ聞こえた。

 街は眠りにつき、夜の番が歩き始める。



 その夜、倉庫裏に小さな見張り台が立った。石壁に寄せた木梯子と、雨除けの布だけの簡素なものだ。灯りは覆いをして、足元だけを照らす。


 詰所の番は交代で三人。初回はウィル、サビーネ、俺とクロ。通りへ面した側には衛兵の若いのが二人。ランベルトが立ち会って、ひとつだけ言った。


「駆け込んできた子は止めずに中へ。大人は声をかけてから。無理はしない」


 風が弱く、夜の匂いが近い。倉庫の板は昼間の熱をまだ持っている。クロは梯子の陰で丸くなり、耳だけ動かしている。


 最初の半刻は静かだった。遠くの広場から、片付けの木箱が擦れる音が届く。やがて、路地の奥で靴の先が石を打つ小さな音。歩幅が一定に揃っていない。子どもの歩き方だ。


 姿を見せたのは、昼間の子だった。肩をすぼめて、古い袋を胸に抱えている。こちらを見ると、一瞬ためらい、詰所の明かりへ寄ってきた。


「紙、ある?」


「ある。こっちで書こう」


 机に薄紙と炭筆を出すと、子は指を拭ってから、ゆっくり字を置いた。丸は大きいが、力はまっすぐだ。“灰を川へ持っていくのは、もういやだ。袋の女の人がこわい”


 ウィルがうなずき、炭筆を受け取って短く追記する。“見た場所、聞いた時間、わかることだけ”。子は倉庫裏の曲がり角と、鐘の鳴る刻を指で示し、「昨日、二度」「おととい、三度」と小さく告げた。


「家は近いのか」


「市場の裏。おかあさん、足がいたい」


「今夜は真っ直ぐ帰れ。ここを通っていけ」


 衛兵に目で合図し、子を見送る。背が角を曲がったところで、クロがわずかに鳴いた。


「もうひとり」


 影がぬっと柱の陰から出た。昼に見た女だった。髪を布でまとめ、腰には細い袋が二つ。こちらを正面から見据える。目は笑わない。


「子どもに紙を持たせるのは、やめて」


 声は低い。壁に響かないように押さえている。サビーネの指が弓袋の口に触れたまま、視線だけで問う。俺は首を横に振って、女へ向き直る。


「川に籠を置いたのは、あなた?」


「川は川。倉庫は倉庫。混ぜないで」


「混ぜたのはそっちだよ」


 ウィルが淡々と言う。「橋桁の下で見つけた。粉の袋、白い小石、羽根。今日、関所に渡した」


 女の目が細くなる。逃げる動きは見せない。詰所の出入り口に立つ衛兵の足音も、彼女の耳に届いているはずだ。それでも肩は落ちていない。


「働き口がないから、頼まれたことを運んだ。袋と紙を渡される。銅を受け取る。あたしは刃物は持たないし、子にも触らない。あたしだけ捕まえるなら、そうすればいい」


 それは正直とも、言い訳とも取れる。ウィルが小さく息を吐く。「言い切るな。言い切ると損をする」


 俺は机の上の薄紙を女に示した。昼の子が書いた紙だ。力の弱い丸が、まだ乾かない墨で光っている。


「これを見た。子は怖がっていた。やめてくれるなら、今の話を関所へ一緒に行って言ってほしい。あんたが子どもに触らないのは、今もそうなんだろう?」


 女は黙って紙を見た。目の奥に、わずかに熱が動く。長い沈黙の後、細い袋の一つを外して机に置いた。


「中身を見て。あたしのは灰じゃない」


 袋の口は雑な結び。俺は清潔布で包んでから開ける。出てきたのは、乾いた草の粉。鼻を寄せると、香りは苦い。


「眠り草だ。量は少ない。粉屋の棚に売り物の顔で積む。灰は別の線」


 サビーネが初めて口を開いた。「灰と眠り草、運びは同じ筋?」


「知らない。受け渡しは別。顔は見ない」


 嘘は混じっているかもしれない。けれど、全部が嘘には見えなかった。女は袋をもう一つ撫でて、続けた。


「名前を出す気はない。あんたたちが詰所を置くなら、ここでの受け渡しは消える。子に紙を持たせるのもやめる。……それで十分?」


「十分かどうかは、関所が決める。だが今の言葉は伝える。今夜は帰れ」


 女は短くうなずき、灯りの外へ消えた。足音は軽い。サビーネは弓袋から手を離し、肩を落とす。


「追えば捕まえられる距離だった」


「今は捕まえるより、止めるのが先だ」


 見張り台の上で、ウィルが腕を組む。「書き付けだけで動くやつは、書き付けで止まることもある」


 その後の夜は静かだった。深夜の交代の頃、広場のほうで笛が一度鳴り、すぐに止んだ。露が降りて、倉庫の板が冷える。クロは俺の膝の上で丸くなり、時々耳だけ動かした。


 夜明け。詰所の前の石畳が白く乾き始めた頃、関所へ向かう人の流れができる。俺たちは夜の控えを束にし、関所アルダへ出した。


 セルジオは黙って最後まで読み、指で机を二度叩いた。


「詰所は当分置く。橋の籠は撤去済み、粉屋の棚は組合が見る。眠り草の袋は医務へ回せ。……“子はここを通れ”は続けろ」


「倉庫裏の女は?」


「今は泳がせる。書き付けで動く相手なら、掲示で詰まる。袋の線は別口で引く」


 彼は赤い粉で細い印を打ち、掲示用の札を三枚渡してきた。“紙で知らせる”“子はここを通る”“倉庫裏に詰所あり”。字は太い。


「街の目を増やす。今夜から衛兵は交代で一人増やす。――よくやった」


 ギルドに戻ると、ミレイユが札の端を二結びで留めながら言った。


「言葉が揃うと、街が少し静かになる。今日は広場と市場角、それから門の脇にこの三枚」


「行ってきます」


 角の果物屋では、フィオナが朝の籠を並べながら子どもに薄紙を配っていた。


「“地面に書かない。紙に書く”――覚えた?」


「おぼえた」


 クロは真面目な顔でうなずき、店先の影で喉を鳴らした。フィオナが笑って瓶を一本差し出す。


「薄め一本。塩なし。今日は喉を使う日だ」


「助かります」


 昼前、倉庫裏の詰所に戻ると、昨夜の子が母親と一緒に来ていた。母の歩きは遅いが、目ははっきりしている。


「昨日はありがとう。ここを通ればいいと聞いたから」


「ここを通って。顔を見せれば、誰かが覚える」


 子は薄紙を握りしめ、「かくばしょは、ここじゃない」と書いた。母は笑って頭を撫でる。


 午後、橋桁の下をもう一度見に行くと、籠の跡は消えていた。梁の間に新しい泥の痕が残り、板には監視の札が一枚。字はまだ黒々としている。


 戻る道すがら、サビーネが軽く肩をすくめた。


「矢を抜く場面は来なかった」


「抜かなくて済むほうがいい」


「知ってる」


 彼女はそれきり黙って歩いた。足音が石に拾われ、橋の下の水音と混ざる。


 夕刻、詰所の番を衛兵に引き継ぐ。ランベルトは掲示を一枚ずつ読み上げ、若い兵に目で合図する。


「言い方は同じに。紙で知らせる。子はここを通る」


「はい」


 白樺亭に戻ると、マルタが帳場で手を止めた。


「顔つきが少し柔らかい。よく食べて、よく寝な」


「はい」


 リナがクロに塩抜きの小椀を置いてくれる。クロは前歯で少しずつ粥を舐め、目を細める。


「おいしい」


「よかった」


 食後、医務でセレナに昨夜の眠り草の袋を渡す。彼女は布越しに触って、香りを嗅ぎ、少しだけ眉を寄せた。


「濃くはないけど、広がると厄介。詰所を置いたのは正解ね。喉は問題なし。今夜は温かい茶を一杯で十分」


「ありがとう」


 鍛冶通りでフーゴに鞘の口を見せると、彼は短くうなずいた。


「きれいだ。泥が入ってない。……明日は橋の上の掲示をもう一度見てこい。字は太く。誰でも読めるように」


「わかった」


 部屋に戻って、薄紙を三束に分ける。街/川沿い/倉庫裏。端に日付を入れ、順に重ねる。紙の角がぴたりと揃うと、体のどこかが落ち着く。


 窓を少しだけ開ける。夜風が布を揺らし、外の通りの気配が静かに通る。


 クロが胸の上に乗り、左前足の黒い点を俺の腕にそっと当てた。


「アキラ。きょう、つかまえないの?」


「捕まえるより、止めるほうを先にした。明日も見張りがいる。大丈夫だ」


「だいじょうぶ」


 目を閉じる。頭の中で、掲示の字が並ぶ。紙に書く。地面には書かない。子はここを通る。


 短い言葉が街に広がって、少しずつ靴音が静かになる。そういう夜が、続けばいい。


 明日の朝は、また橋を見て、倉庫裏を回る。関所にも顔を出す。やることは多いが、順番は決まっている。ひとつずつやればいい。


 灯りを落とすと、外から鈴が一度だけ聞こえた。間があって、もう一度。列が歩きに変わる合図だ。


 街は覚え始めている。

 それを確かめながら、静かに眠りに落ちた。

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