第19話
「……わかりません、それは神が決めることですから」
「神か……」
セザールは今だ定まらぬ焦点で天井を眺める。
「天使様。天使様にはお名前はあるんですか」
「え、えっと。名前」
回答に迷った。ここで名を告げることは、いささか憚られたのだ。
「名前はありません。天使ですから」
「そうですか……きっと貴方なら、美しい名前を持っているかと思いました」
「では、貴方の名前は?あるのでしょう」
訊ねると、青年は「セザール」と短く言った。
「セザールですね。立てますか」
「は、はい」
セザールはエステルの手を借り、立ち上がろうとする。
だが、うまく膝が伸びきらず、苦痛の表情を浮かべた。
「……痛っ、」
「見せてください」
傷だらけの手は腹部を指す。服を捲れば大きな青あざができていた。
流されている最中に何かにぶつかったのだろう。
骨が折れてる気配は無いが、無理に動こうとすればそれなりに痛むはずだ。
「……セザール、しっかり捕まって」
「天使様……?、うわっ」
エステルは倒れ込む体に手を回すと、軽々と持ち上げる。
女性の細腕ではにわかに信じがたい光景だが、セザールは目を輝かせた。
「すごい、素晴らしい。
流石天使様だ」
「あ、あまり顔を近づけないでください。
その、驚きますので」
エステルは上流へ向かって歩き始めた。
くすんだ赤の髪が、歩くごとにゆらゆらと揺れる。
手から伝わる重さと冷たさに不安を感じながらも一番近い出入り口まで向かった。
もうじき夜明けだ。
また誰かに見つかってはペトロニーユに迷惑をかけてしまうだろう。
日が昇る前に彼をどこかに置いてこなくては
。だが放るなら、なるべく彼の家に近い場所へ。
「セザール、貴方の住む家はどこにありますか。
その、神への身分の確認のため、一応聞いておこうかと」
「たしか……うん、そうだ。
パリの南にある教会の、その一つ手前の通りです。わかりますか、天使様」
「は、はい。パリに住んでいて、知らぬ者は居ないでしょう」
そう、ですよね。
と、セザールは黙りこむ。
「天使様、僕の懺悔を聞いてくれませんか」
「……構いません」
震える唇から、ぽつぽつと言葉が紡がれていった。
彼は古い装幀師の家系に生まれた青年だった。
父親など周辺から将来を期待されている立場に居るらしい。
だが装幀の重要な作業、素体の解体が生理的に受け付けないのだという。
装幀師、か。
エステルは、紙に隠れた顔を僅かに歪ませる。
「……素体解体の苦手な装幀師がいるのですね」
「そう、なんです。
僕はまだ正式にそうではありませんが」
ぼんやりとした瞳が濁った。
「僕は。僕は死んだ方が良かったんだ。
装幀師になる前に死ねたのなら、これで良かったんだ……誰も失望させないで済む」
「そ、そんなことありません!」
エステルは思わず声を張り上げる。
通路を反響する声に、セザールの体はびくりと跳ねた。
「天使様……?」
「あの、いえ、その……少し、昔出会った人のことを思い出したのです。
私が昔、一人でいたとき。手を差し伸べてくれた人たちの言葉なんですが。
『人は皆、幸福に生きるべきだ』、そう言って励ましてくれたのです」
「なんて素晴らしい人だ。
でも、天使なのに人って、少しおかしい」
「あ、はは。言葉のあやというものです」
うっかり、身の上を話してしまった。
何故かはわからない。きっと、恐らく。
僅かながら、セザールに共感している自分がいるのだろう。
そうだ、彼もまた外れた者なのだ。
着々と進んでいたエステルの足は立ち止まる。
壁に掛けてある看板を見ると、通りの名が掲げてあった。
「セザール」
「なんですか、天使さ、」
きょとんと目を丸くするセザールの首元を、軽くとんと叩く。
すると、見開かれていた目に瞼が落ち、ゆるりと体の力が抜けていくのがわかった。
「どうか、今までのことは忘れていて」
エステルは小さく囁くと、セザールの体を地上に送り届けた。
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