第3話 次元と時系列
というのも、
「未来に行った場合に、確かに過去が変わってしまう」
ということはないだろう。
「しかし、もし、未来に行ったものが、何かの理由で過去に来て、過去を変えたのだとすれば?」
前述と矛盾しているように感じられるが、
「過去を変えるのはいけない」
といっているのは、あくまでも、
「自分に対してのことだけ」
を言っているわけで、実際に、過去の人たちは何も知らずに、時系列の上を歩いているというわけなので、
「知らぬが仏」
ということで、
「過去が変わった」
という意識がないまま、何が起こったとしても、それは、
「運命だ」
ということで諦めがつくというものだ。
これは、未来に対して、
「自分たちは何も影響を及ぼしていないのだ」
というのと同じ発想ではないだろうか?
要するに、未来の人が何かをして、過去に影響を及ぼしたとしても、知らなければ、問題ないと思うのと同じであろう。
実際に、
「そこまで考える」
ということはないからである。
しかし、
「未来に行った人が、本来であれば、過去に戻ることができる機会を開発して、現在よりもさらに過去に行って、歴史を変えることで、自分たちの現在が変わってしまう」
ということだってあるだろう。
しかし、
「未来の人が過去にいって、過去を変える」
ということをしているとは、夢にも思わないので、意識がない。
「何が起こったとしても、今の自分たちは、意識の外なのかも知れない」
と考えるからだ。
しかし、本当にそんな考えだけで済むことなのだろうか?
この発想でいけば、
「未来に行って、もし、未来を変えてしまったとしても、それが過去に影響することはない」
と思うだろうが、
「実際に未来から帰ってきた時、着地点である過去が変わっていた」
ということであれば、どう思うだろう。
その可能性が実際に起こっていたとすれば、
「未来を変えたことで、過去も変わった」
ということが考えられるということになり、結果として、
「未来を変えたことで、未来人が過去にいくという歴史を変えてしまったのかも知れない」
という理屈が成り立つことになるわけだ。
その理屈が、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
という理論であり、
「未来を変えた場合に、戻るべき過去が変わってしまった」
という理屈を証明しようとするならば、
「この理論しか考えられない」
ということになるのではないだろうか?
実際にこのことを考えた時、
「一次元、二次元が過去である」
という理屈もなんとなく分かる気がした。
最近、
「異次元」
であったり、
「タイムトラベル」
などというものを気にするようになった、
「あおい」
という少女がいるのだが、今は高校三年生で、受験勉強の傍ら、このような、
「SF小説的発想」
というのを頭に描くのが好きだったのだ。
半分は、
「受験勉強の気分転換だ」
といっているが、実際には、
「量子力学」
であったり、
「物理学」
のようなものに興味があり、そこから、読んだSF小説などから、余計に、物理学などに、さらなら造詣を深めたということで、それこそ、
「タマゴが先かニワトリが先か?」
ということを、
「地で行っている」
ということになるのであった。
そんなあおいが、
「あれは中学時代のことだったかな?」
と思い出したのだが、
「中学時代に学校から、美術鑑賞の名目で美術館に絵を見に行ったことがあった」
ということであるが、
「元々、芸術的なことは嫌いだった」
ということで、
「館内では、まじめに見ようとも、早く見終わろうとも、それは個人の自由」
ということになっていたので、あおいは、他の友達と途中まで、急いで見ていた。
というよりも、
「ほとんど見ていない」
といってもいい。
しかし、その途中で、一つの絵を見た時、そこからすぐに立ち去ることができなくなったのだ。
その場所は、昔のアニメで見たことがあるような、どこかの高原であった。
まわりを、山に囲まれていて、その真ん中に、一軒の家があったのだ。
その家を囲むように、垣根が生えていて、その向こうには、ここを取り囲んでいる山々があり、その向こうには、青い空が広がっていた。
雲が流れているかのように見え、
「絵であるにも関わらず、雲が靡いているなど感じるわけはない」
と思えるのであった。
実際に、その空の下にある山は、本当にとんがり帽子のような山が、牙のようい生えていたのであった。
そこを見ていると、何やら、
「セットか何か」
という風に感じたのだ。
明るい広間であったが、その明かりがまるで、蛍光灯であるかのようで、明るいのは分かっているはずなのに、その蛍光灯が、セットを思わせるのであった。
すると、自分が、
「その絵の中にいて、家の近くで立っているのを感じ、その自分が、とんがり帽子から見える空を感じている」
と思ったのだ。
そう思うと、まるで、
「特撮映像を見ている」
というように、巨大な自分が、山間から見下ろしていると思うと、今度は、
「見下ろしている自分の視線」
というものを感じるような気がしたのだった。
要するに、
「お互いに、それぞれの方向から見つめあっているのが感じられ。それが、どっちも自分だ」
という感覚になったのだった。
しかし、
「同時に、二人を感じるということができるはずもなく、それぞれ、交互に相手、つまり自分を感じているのだ」
ということを感じたのだ。
それは、まるで、昔の無線などで、
「双方向から通信ができない」
ということが分かったかのような発想だったということである。
それを感じた時、すぐには感じなかったが、
「何か不可思議な発想が浮かんでくる」
と思いながら、
「初めてではない気がする」
と感じ、
「以前にもどこかで感じたことがある」
と思うと、それが、
「未来において感じることになるものだ」
ということを感じたのだ。
だから、未来になって気づいたことであり、その時に、
「ついで」
というか、
「そのどさくさに紛れる」
という形で、
「未来に行って未来を変えてしまったら。現在に戻った時に、ありえないことが起こってしまった」
と考えることの結論だということに気づいたのであった。
それを思えば。
「絵の中での、双方向の見え方」
というものが、
「一次元、二次元を過去にする」
という発想に結びつき、
「三次元の自分たちが、過去である一次元、二次元に関わってはいけない」
ということを考えさせた。
しかし、実際には、関わることがないというのは不可能である。
「点と線」
「平面」
というものを無視して生きることはできない。
だとすれば、
「関わることはできても、その存在に影響を与えることはできない」
といえるだろう。
しかし、実際には、破いてしまったり、変形させるということは当たり前のようにあるではないか。
だが、これも考え方を変えれば無理もないことになる。
つまりは、
「変わってしまった過去は、そもそもが過去ではなかった」
という発想である。
要するに、
「自分において都合の悪いことは、最初からなかったということにしてしまえば、何も、タイムパラドックスであったり、帰るべき現在がない」
ということにはならないだろう。
それが、
「異次元」
というものへの発想であり、さらには、
「証明」
ということではないだろうか?
だからこそ、
「異次元」
というものは、
「時系列」
というものと、
「切っても切り離せない関係だ」
といってもいいだろう。
だから、
「異次元というものは、単独で考えた時には、理解できないものだ」
といえるかも知れないが、逆に。。
「時系列というものと一緒に考えることで、初めて見えてくるものがあるのではないだろうか?」
といえるのである。
「実際に、双方向から、絵を見ている」
ということになると、
「自分の意識が絵の中に入り込んでしまった」
かのようで、
「実際には、ありえない」
と思っていることが、
「ちょっと角度を変えてみたことで、まったく違ったものに見えてくる」
ということになるのだ。
そして、その違ったものというのが、
「着地するはずだった現在が、過去を変えたことで変わってしまった現在」
ということになり、
「だから、過去に行ってはいけない」
ということになる。
しかし、本当に、
「変わってしまった現在」
というのが、
「悪いものだ」
と言い切れるのだろうか?
つまりは、
「それが、本当に変えるべき現代だったのか?」
ということである。
本当は、
「戻ってきた現在」
というものが本物で、
「今まで、現在だ」
と思っていたことが、
「実は間違いだったのではないか?」
という発想である。
つまりは、
「次元であったり、時系列というもの」
それらの、
「何が正しい」
といえるのかどうかということである。
それはあくまでも、
「時系列」
というものに沿って過去から現在に歩んできた時、
「当たり前だ」
という意識を持っていることで、
「本来であれば、無意識に見えている」
というはずの、まるで、
「路傍の石」
というものが無意識に感じているからこそ、
「時系列」
というものが、絶対的なもので、
「現在というものは、絶対に正しい」
ということで、
「現在」
というものを、まるで真実であるかのように、見てしまうことで、
「誤解や、錯覚が生まれる」
ということになるのであった。
一次元と二次元を、
「過去の世界」
と考えるとすれば、まだ
「未知の世界」
ということで、
「どんな世界が広がっているのか分からない四次元の世界」
というのは、完全に想像でしかない。
確かに、
「一次元」
「二次元」
の世界というのは、見えているのであるが、その正体が分かるわけではないというものだ。
その世界を垣間見ることはできたとしても、そこには、意識できるものではない。
そういうことから、
「路傍の石」
という感覚になるのだろう。
だから、昔見た絵で、
「想像から、同じ瞬間に、山側からと、家側からという双方を見ることができる」
という、
「三次元ではありえない感覚」
を感じることができた気がするのであった。
それを思えば、
「四次元の世界」
というものがどういうものなのか、想像できないといってもいいだろう。
確かに、一次元も二次元も、言葉の上では、
「異次元」
といってもいいだろう。
ただ、
「一次元に何かを加えることで二次元となり、さらに、高さを加えると三次元になる」
ということから、
「四次元の世界」
というのは、
「時間軸が加わる」
ということで、新たな異世界を想像することができるといってもいいだろう。
だからこその、
「異次元」
というものだ。
実際に、
「まだ見ぬ未来」
というものが次の世界に広がっている。
過去を振り返ってみれば、
「無数に存在したターニングポイント」
これは、
「人類の歴史」
というものであっても、
「個人における歴史」
というものにおいても、存在しているわけである。
特に、
「個人の歴史」
というものは、まわりの人や社会に、絶対的に影響を受けるということになることから、その瞬間瞬間というものが、
「ターニングポイントだ」
といってもいいだろう。
確かに、
「過去の歴史」
というものは、
「事実の積み重ね」
ということで、
「どうしてそういうことになったのか?」
ということは、事実を見れば一目瞭然ということになるだろう。
しかし、これは、あくまでも、
「結果論」
ということになるわけで、
「すべてがつながる」
ということであっても、それは、
「検証レベル」
ということになる。
だから、歴史の勉強というのは、
「過去の事実を検証する」
ということになるのだ。
そういう意味で、今の政府や政治家に、
「歴史的な認識があるとは思えない」
といってもいいだろう。
要するに、
「歴史は知っている」
というだけで、
「決して理解しているわけではない」
といえるだろう。
もし、理解できているというのであれば、
「必ず憲章が必要だ」
ということは分かるはずで、
「歴史は繰り返される」
ということが分かっているからだといえるのではないだろうか?
その問題で大きかったのが、
「世界的なパンデミック」
ということになる。
「もちろん、検証はしている」
と政府の連中はいうだろう。
しかし、その検証内容を、
「国民が知る」
という機会があるわけではない。
それでは、本当に、
「検証している」
といえるのだろうか。
歴史を勉強していれば、分かることもいっぱいある。もし、歴史というものを、
「知っている」
という言い方をするのであれば、検証をしていないといってもいい。
本来であれば、
「勉強している」
という言い方をすることで、
「検証している」
ということを表しているといってもいいだろう。
「歴史は、知るものではなく、勉強、あるいは、検証するものだ」
ということになる。
「歴史を知る」
ということがどういうことなのかといえば、
「かつての、詰め込み教育時代」
のように、
「知識として覚える」
ということで、
「暗記物の学問」
ということになる。
だから、昔は、
「歴史が嫌い」
と言われる、歴史にとっての暗黒時代というものがあったのだ。
「語呂合わせで年号を覚える」
などというのが、その最たる例ではなかったか。
「いいくにつくろう」
であったり、
「なくようぐいす」
などという語呂合わせ。
しかも、今では、
「いいくにつくろう」
ということではないということになれば、まるで笑い話にでもなったかのように思えるのであった。
最近では、
「今まで正しい」
と言われてきたことが、
「実は間違いだった」
ということが結構多い。
「いいくにつくろう」
と言われた、
「鎌倉幕府の成立年」
が間違っていた。
さらには、
「源頼朝」
「足利尊氏」
「武田信玄」
などの肖像画が、
「実は違う人だった」
ということが言われるほどになってきた。
普通なら、
「何が正しいのか分からない」
ということで、歴史に興味があった人も、歴史から離れるということになるのであろうが、実際にはそうではない。
逆に、
「どんどん新しいことが発見されることが面白い」
ということになるのだ。
それだけ、
「歴史は、暗記物の学問ではない」
ということを証明したかのようで、今まで、
「まったく興味がない」
といっていた女性の中に、歴史ファンが増えてくるようになると、男性でも、
「歴史が嫌いだった」
という人にも興味が広がるということで、結構メジャーな学問ということになるだろう。
特に、近年では、
「歴史の事実」
であるかのように言われてきた人たちの、
「人物像」
というものが、いろいろな発掘や文書の発見によって、
「実はまったく違った人物だった」
ということになると、
「歴史というのは、ミステリアスだ」
という側面も出てくるのだ。
だから、
「学校では教えない歴史」
であったり、
「逆説」
などという言葉で、
「さらに、ミステリアスな状況を生んでいる」
といってもいいだろう。
それが、
「歴史という学問の正体」
であり、そこに、
「異次元」
という発想が生まれてくれば、また違った方向から、歴史を見ることができるというものではないだろうか。
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