第8話 一難去ってまた一難

 横目で信長たちがある程度離れたのを確認すると、頭を上げて椅子に座り直した。緊張の糸が解け、肩にどっと疲れがのしかかった。


「なんとかなったね。いや~ヒヤヒヤした。お疲れ様、葵」

「あはは。なんとかなって、良かったです」


 葵は大きく息を吐きながら、おでこの冷や汗を袖で拭った。まだ指先がプルプル震えていた。


「しっかし、信長って思ったより人情深い人なんだな。もっと冷たくて恐ろしい人かと思っていたが」

「まあ、文献には残ってない一面だからね。もしかしたら、『屈強で強かな武将』という印象を植え付けるために、その手の文献は検閲で規制していた可能性もあるかもしれないな」


 堀越と小声で話しながら、紫音は疲れ切った後輩の様子を逐一確認した。こうした事例は今回が初めてではなかったが、数分話すだけでも相当気を遣うため、想像以上に疲労がたまるらしい。時折、和泉が心配そうに声をかけながら、調査を再開できるタイミングを伺っていた。


 そのとき、四人の間にお盆がコトッと置かれた。振り返ると、この店の女将である女性がいつの間にか後ろに立っていた。


「上機嫌な信長さまに声をかけられるなんて、あんたたちついてはりますな〜。さぞ気を遣われたことでしょう。お茶と甘い菓子を召し上がって、ゆっくりしていきんさい。お代は結構ですから」


 なまりの入った品のある声でそう告げると、女将は店の奥へと戻ろうとした。すぐに申し訳なさを覚えた葵が慌てて彼女を呼び止め、財布を懐から取りだそうとした。


「あれ?」

「どないしました?」

「……ない」

「えっ?」

「お金が、ない」


 葵の顔がみるみる青ざめていくのが分かった。紫音たちは彼がこれ以上憔悴して倒れたりしないよう、ひとまずお茶を飲んで心を落ち着けるよう勧めた。葵はその助言に従ってお茶を飲み、なんとか呼吸を整える。そして、どこで落としたのか、記憶を懸命に探った。


「もしかしたら、スリに遭うたのかもしれませんね。実はここのところ、銭を盗まれる人が増えているみたいで」

「そ、そうなんですか?」

「お客さん相手に嘘はつきまへんよ。せやから、私たちも困っとるんです」


 女将は手を頬にあて、戸惑いの表情を見せた。その仕草にうつむき気味の目線、トーンを落としたその声色からおそらく、これは本心だというのを紫音は瞬時に理解した。それと同時に、少し気になることを思いついたので、ダメ元で聞いてみることにした。


「そのスリというのは、夜でも起こるものなのか?」

「ええ。むしろ、夜に遭うてしもうたという方のほうが多いくらいです。特に、奥の方に構えておられる店の前で遭う方が多いようで」


 やはり、と紫音は思った。暗い時の方が断然やりやすいのではと考えたが、どうやら当たっていたようだ。しかも、被害の多いという店の情報まで掴んだ。思わぬ収穫からひとつの戦略を思いついた紫音はいたずらっぽく微笑んだ。


「紫音、どうかしたのか?」

「ふふっ、良いこと思いついちゃった♪ 私を敵に回したこと、後悔させてやる」


 紫音は早速、思いついた作戦を全員に共有した。


「作戦という割には意外とあっさりしてるな。これで本当に行けるのか?」

「ああ。問題ない。日がある程度沈みかけたら、先ほど言った定位置に着くようにしてくれ。合図は私がマイクで送る」


 作戦を理解した一同はお茶を美味しくいただき、引き続き調査を再開した。日が昇るにつれて人通りも多くなり、大小さまざまな店が賑わいを見せていた。一度訪れたことで土地勘がある程度頭に残っていた紫音と葵は町の外にまで行動範囲を広げ、少しでも手がかりがないかを調べた。


 だが、午後はこれといった進展が特に見られないまま、時間だけが過ぎていった。そして気づけば、空が黄金色から暗闇へと姿を変えていく時間となった。紫音が町に戻り、茶屋で伝えた定位置へと向かうと、先に待機していた和泉の姿が見えた。


「お待たせ。今の様子はどうだ?」

「あ、紫音。ちょうど良かった。今しがた、人が増え始めたころだ」


 和泉が目を向けた先には、昼ほどではないものの、幾ばくかの人だかりができていた。女将によると、あそこは城下町の中でもたくさんの遊女が集まる場所らしく、毎晩それを目当てに多くの漢が集うのだという。


 なるほど、これはスリによく遭う訳だ、と紫音が納得していると、浄化装置に内蔵された指向性スピーカーから声が届いてきた。


『こちら堀越。葵と共に定位置に到着した』

「了解。容疑者が見つかり次第、その特徴を報告する。ゴーサインが出るまでは待機していてくれ」

『了解』


 日が山の向こうに沈みかけ、人通りがまばらになる中、紫音は人だかりのある場所をじっと見つめていた。特に、人だかりの間を縫って横切る人の一挙手一投足は注意して観察していた。もし、紫音の身に危険が及ぶようなときが生じた際には、和泉にためらいなく力を発揮してもらうよう頼んであるため、紫音はとにかく観察の方に意識を集中させた。


 やがて上ってきた月と共に夜の帳がすっかり下りたころ、人だかりの中から一人の若者が姿を現した。うつむき加減に歩くその姿は少し不自然に見える。さらによく見てみると、袖に手を突っ込み、腕をかたくなに動かそうとしていなかった。腕を組んでいても、普通に歩くと多少上下するものだが、彼の場合はそのような挙動が一切みられなかったのだ。また、目線を僅かに、しかしせわしなく動かしており、まるで常に周囲を気にしているかのように見受けられた。極めつけに、人とすれ違うときには肩をこわばらせ、足早にすれ違っていた。普通の人なら肩のこわばりまでは気づけないだろうが、紫音にはその些細な変化もお見通しだった。


「葵、堀越。容疑者らしき人が見つかったよ。青い着流しに、薄手で水色の袴を羽織った若い男だ。手はず通り、彼の後を付けていってくれ」

『了解。これから尾行していく。何かあったらまた報告する』

「了解。注意してかかってくれ」


 通信を切って見覚えのある二人の背中を見送ると、紫音たちは人だかりから離れた場所を目指して歩き始めた。

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