第6話 罠
春の終わり、オフィスの窓際に並んで座る二人。
柔らかな陽射しが、葵と藤堂の肩を照らしていた。
「もうすぐ一年ですね、あの日から」
葵が微笑む。
「うん。いろんなことがあったけど……やっと穏やかに過ごせる気がする」
藤堂の言葉に、葵は胸の奥が温かくなった。
痛みを越えて掴んだ日常。
コーヒーを淹れて渡すだけで、心が満たされる。
そんな幸せが、ずっと続くと思っていた——あの日までは。
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月曜の朝。
新プロジェクトの説明会に、部長が一人の女性を連れてきた。
「今日からうちのチームに加わる黒瀬麻耶さんだ。みんな、よろしく」
彼女は完璧な笑顔で一礼した。
艶やかな黒髪、落ち着いた声、整った所作。
誰もが思わず見とれるほどの美しさだった。
「藤堂さんとは前の部署で少し一緒にお仕事してました」
何気ない、その言葉に、葵の胸が小さくざわめいた。
藤堂はにこやかに「よろしく」と返したが、
麻耶の瞳には、ほんの一瞬だけ何か強い光が宿ったように見えた。
会議の後、麻耶は自然な流れで藤堂の隣に座り、
「この資料、よかったら一緒に確認してもらえますか?」と笑った。
それはただの仕事のお願いに見えた。
けれど葵には、その笑みの奥に“意図”を感じた。
午後、葵が給湯室でカップを洗っていると、背後から声がした。
「佐伯さん、藤堂さんと付き合ってるって本当?」
同僚の一人が軽い口調で尋ねる。
「え、どうしてそんな……」
「いや、黒瀬さんが言ってたの
『前から気づいてたけど、職場恋愛って大変ですよね』って」
手の中のカップが滑り落ち、派手な音を立てて割れた。
心臓が強く脈打つ。
藤堂はまだ知らない。
麻耶がどんな形で自分たちの関係を社内に流しているか。
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その日の夕方。
藤堂はプロジェクトの打ち合わせで遅くまで残っていた。
帰り際、麻耶が軽く彼の袖を掴む。
「藤堂さん、少しだけお話ししてもいいですか?」
「ええ、どうしました?」
「佐伯さんのこと……最近、少し不安定みたいで」
藤堂の表情がわずかに曇る。
「不安定?」
「ええ。ちょっとしたことでも泣いたり、誰かに冷たく当たったり……。
心配で、放っておけなくて」
藤堂は黙って聞いていた。
麻耶は一歩近づき、柔らかく微笑んだ。
「あなたって、優しいですよね。そういう人、私は好きです」
静寂が落ちる。
藤堂は少し距離を取り、
「黒瀬さん、誤解を生むようなことはやめましょう」とだけ言い、去っていった。
けれどそのやり取りを、廊下の角で葵は見てしまった。
麻耶が彼の腕を掴み、見上げるその瞬間を。
胸の奥が、ズキリと痛んだ。
「……どうして」
呟いた声は風に消える。
その夜、スマホに匿名のメッセージが届いた。
“彼、あなたの知らない顔をしてるよ。”
葵の手が震えた。
画面の光の向こうに、
静かに笑う誰かの影が見えた気がした。
——その微笑みが、すべてを壊す始まりだった。
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