第6話 罠

春の終わり、オフィスの窓際に並んで座る二人。

柔らかな陽射しが、葵と藤堂の肩を照らしていた。


「もうすぐ一年ですね、あの日から」

葵が微笑む。

「うん。いろんなことがあったけど……やっと穏やかに過ごせる気がする」


藤堂の言葉に、葵は胸の奥が温かくなった。

痛みを越えて掴んだ日常。

コーヒーを淹れて渡すだけで、心が満たされる。

そんな幸せが、ずっと続くと思っていた——あの日までは。


************************************


月曜の朝。

新プロジェクトの説明会に、部長が一人の女性を連れてきた。


「今日からうちのチームに加わる黒瀬麻耶さんだ。みんな、よろしく」


彼女は完璧な笑顔で一礼した。

艶やかな黒髪、落ち着いた声、整った所作。

誰もが思わず見とれるほどの美しさだった。


「藤堂さんとは前の部署で少し一緒にお仕事してました」

何気ない、その言葉に、葵の胸が小さくざわめいた。


藤堂はにこやかに「よろしく」と返したが、

麻耶の瞳には、ほんの一瞬だけ何か強い光が宿ったように見えた。


会議の後、麻耶は自然な流れで藤堂の隣に座り、

「この資料、よかったら一緒に確認してもらえますか?」と笑った。

それはただの仕事のお願いに見えた。

けれど葵には、その笑みの奥に“意図”を感じた。


午後、葵が給湯室でカップを洗っていると、背後から声がした。


「佐伯さん、藤堂さんと付き合ってるって本当?」

同僚の一人が軽い口調で尋ねる。

「え、どうしてそんな……」

「いや、黒瀬さんが言ってたの

  『前から気づいてたけど、職場恋愛って大変ですよね』って」


手の中のカップが滑り落ち、派手な音を立てて割れた。

心臓が強く脈打つ。

藤堂はまだ知らない。

麻耶がどんな形で自分たちの関係を社内に流しているか。


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その日の夕方。

藤堂はプロジェクトの打ち合わせで遅くまで残っていた。

帰り際、麻耶が軽く彼の袖を掴む。


「藤堂さん、少しだけお話ししてもいいですか?」

「ええ、どうしました?」

「佐伯さんのこと……最近、少し不安定みたいで」


藤堂の表情がわずかに曇る。

「不安定?」

「ええ。ちょっとしたことでも泣いたり、誰かに冷たく当たったり……。

 心配で、放っておけなくて」


藤堂は黙って聞いていた。

麻耶は一歩近づき、柔らかく微笑んだ。

「あなたって、優しいですよね。そういう人、私は好きです」


静寂が落ちる。

藤堂は少し距離を取り、

「黒瀬さん、誤解を生むようなことはやめましょう」とだけ言い、去っていった。


けれどそのやり取りを、廊下の角で葵は見てしまった。

麻耶が彼の腕を掴み、見上げるその瞬間を。

胸の奥が、ズキリと痛んだ。


「……どうして」

呟いた声は風に消える。


その夜、スマホに匿名のメッセージが届いた。


“彼、あなたの知らない顔をしてるよ。”


葵の手が震えた。

画面の光の向こうに、

静かに笑う誰かの影が見えた気がした。


——その微笑みが、すべてを壊す始まりだった。

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