あなたに会いに来ました

てつ

第1話 崩れた日常

蛍光灯の光が、やけに冷たく感じる。

月曜日の朝。出社しても誰も挨拶を返さないのは、もう慣れた。


私の名前は佐伯 茜(さえき・あかね)。

入社して五年、営業アシスタントとして平凡に働いてきた。

……あの日までは。


隣の席から、甲高い笑い声が響く。

「ねぇ、週末どこ行ったの?」「箱根〜。彼が温泉取ってくれて」

彼――それは、私の元恋人のことだった。


彼を奪ったのは、同僚の早紀。

入社時から明るくて要領がよく、誰からも好かれるタイプ。

私は地味で、仕事一筋。

だからだろう。

同じ男を好きになった時点で、勝負にならなかった。


別れた翌週、二人は社内カップルとして公然と付き合い始めた。

最初は目をそらすだけで済んだ。

でも、次第に書類が消えたり、私のデスクにだけコーヒーがこぼされたりした。


「気のせいじゃない?」と笑う同僚たち。

私が悪者にならないように、誰も関わらない。

そんな日々が続き、心はすり切れていた。


昼休み。

屋上でひとり、カップスープを飲みながらぼんやり空を見上げる。

風が強くて、髪が乱れる。

その瞬間、ふと涙がこぼれた。


「何してるんだろ、私……」


手で拭った涙の跡を、風が冷たくなぞる。

もう辞めよう。そう思った。

明日、退職願を出そう。


そんなときだった。

スマホが震え、社内メールが届く。


「本日付で、新しい社員が営業部に異動します。」


どうでもいい、と思いながら屋上を後にした。


午後。

会議室に呼ばれ、全員が集まる。

部長が言った。

「今日から営業に加わる藤堂玲央(とうどう・れお)くんだ」


スーツの似合う、長身の青年が静かに一礼した。

「はじめまして。藤堂玲央と申します。よろしくお願いします」


その瞬間、何かが胸の奥でざわついた。

どこかで見たような、懐かしい目。

でも、思い出せない。


自己紹介が終わると、藤堂はまっすぐこちらを見た。

視線がぶつかり、心臓が跳ねる。


「……あなたに、会いに来ました」


「え……?」


ざわつく周囲。

早紀がわざとらしく笑った。

「なにそれ、口説き文句? 営業部、そういうノリないからね〜」


空気が笑いに変わる中、藤堂は穏やかに頭を下げた。

「すみません、緊張してつい。よろしくお願いします」


その後、私はほとんど言葉を失っていた。

彼の言葉が、頭から離れない。


——あなたに、会いに来ました。


どういう意味?

初対面なのに?

それとも……。


定時後、エレベーター前。

「佐伯さん」

呼び止められて振り向くと、藤堂が立っていた。


「すぐ帰ります?」

「ええ……」

「じゃあ、少しだけ歩きませんか。話したいことがあって」


彼の瞳は真剣で、嘘が見えなかった。

けれど私は、首を横に振る。


「すみません。今日は、そんな気分じゃなくて」

「……わかりました」


彼はそれ以上何も言わず、ただ微笑んだ。

その笑顔に、ほんの少しだけ心が揺れた。


エントランスを出ると、夜風が頬を冷やした。

街の灯りが滲んで見える。

それが涙のせいなのか、わからなかった。


けれどその夜、私は確かに感じていた。

止まっていた時間が、静かに動き始めたことを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る