第8話 冷めた珈琲と後悔の雨


 あの気まずいビデオ通話の後、俺と葵の関係は、目に見えてぎくしゃくし始めた。電話の回数は減り、メッセージのやり取りも、当たり障りのない短い文章の応酬に終始した。画面の向こう側にいるはずの彼女との間に、分厚く、そして冷たい壁のようなものが存在するのを感じていた。卒業式の日に交わした、「毎月会いに行く」という約束。その約束を果たす時が、俺たちの関係を修復するための、最後のチャンスのように思えた。俺は、夏休みに入ってすぐ、東京行きの夜行バスのチケットを取った。


 久しぶりに再会する場所として俺たちが選んだのは、新宿の駅ビルにある、少し落ち着いた雰囲気のカフェだった。窓際の席に先に着いた俺は、ガラス窓を叩く雨の筋を、ぼんやりと眺めていた。梅雨の終わりの、じっとりとした雨。その灰色の光景が、俺の不安な心境を映し出しているようだった。緊張で乾いた喉を潤すために注文したコーヒーは、彼女を待つ間に、すっかりとぬるくなっていた。一口含むと、嫌な酸味と、舌の上に残る苦い後味が、口の中に広がった。


「ごめん、待った?」


 声のした方に顔を上げると、そこに葵が立っていた。高校時代よりもずっと大人びた、流行のファッションに身を包み、綺麗に化粧を施したその姿に、俺は一瞬、息を呑んだ。垢抜けて、さらに美しくなった彼女。だが、その目元には、以前にはなかった、どこか不安定な影が宿っているように見えた。


「いや、俺も今来たとこだ」


 また、同じ嘘をついてしまった。彼女を安心させるための、もはや癖のようになってしまった嘘。葵は、小さく微笑むと、俺の向かいの席に静かに腰を下ろした。


 会話の歯車は、最初から全く噛み合わなかった。俺は、大学での専門的な講義の話や、研究室の無骨な友人たちの話をした。葵は、新しく始めたサークル活動のことや、東京の華やかな生活について語った。お互いの話す言葉は、まるで違う言語のように、空中で虚しくすれ違っていく。価値観の変化、というには、あまりにも決定的だった。俺が語る未来は、地道で、堅実で、色のない世界。彼女が語る未来は、刺激的で、華やかで、無限の可能性に満ちた世界。その言葉の端々から、俺たちは、もう同じ夢を見ていないのだという事実を、痛いほど感じ取っていた。触れ合うことのない身体の距離よりも、言葉が通じ合わない心の距離の方が、ずっと遠く、そして絶望的だった。


 しばらく続いた、中身のない会話の後、不意に、葵が口を開いた。その声は、驚くほど冷静で、平坦だった。


「ねえ、隼人くん。私たち、もう、終わりにしない?」


 その言葉の意味を、俺の頭はすぐには理解できなかった。思考が、完全に停止する。窓の外で、雨足が、少しだけ強くなった。


「俺たちの見てる世界、もう、全然違うんだよ。隼人くんは、自分の世界で一生懸命頑張ってる。私も、私の世界で、頑張りたい。でも、今のままじゃ、お互いを縛り付けてるだけだと思うんだ」


 彼女の言葉は、正論だった。正論だからこそ、俺には返す言葉が何も見つからなかった。俺の冷静沈着を装っていた仮面が、音を立てて崩れていく。何か言わなければ。引き止めなければ。そう思うのに、喉がカラカラに乾いて、声が出ない。


「ごめんね。私の、わがまま」


 そう言って、葵は席を立った。俺は、衝動的に彼女の腕を掴もうとして、その手を宙で止めた。もう、俺には、彼女に触れる資格すらないような気がした。


 店を出て、駅の改札へと向かう。傘を叩く雨音だけが、やけに大きく聞こえた。沈黙のまま歩く俺たちの間を、冷たい風が吹き抜けていく。改札口が、もうすぐそこに見えてきた。このまま、本当に終わってしまうのか。嫌だ。それだけは、絶対に嫌だ。


 俺は、ほとんど無意識のうちに、彼女の肩を掴み、自分の胸に強く引き寄せていた。雨に濡れて冷たくなった彼女のブラウスの感触が、シャツ越しに伝わってくる。そして、鼻腔をくすぐる、懐かしい匂い。それは、体育祭の日に感じた甘いシャンプーの香りではなく、雨に濡れた髪が放つ、湿った、少しだけ悲しい匂いだった。


「……ごめん」


 俺の口から、やっとのことで絞り出されたのは、そんな情けない一言だけだった。声が、自分でも分かるほど、無様に震えていた。俺の腕の中で、葵の身体が、小さく、そして激しく震えた。やがて、俺の胸に、ぽつり、ぽつりと、温かい雫が染み込んでいく。彼女が、泣いている。その事実に、俺の胸は、ナイフで抉られたかのように、鋭く痛んだ。


 どれくらいの時間、そうしていただろうか。やがて、葵は、そっと俺の腕の中から身体を離した。そして、涙で濡れた顔を、一度もこちらに向けることなく、「じゃあね」とだけ言って、改札の中へと消えていった。


 俺は、その場に立ち尽くしたまま、彼女の小さな後ろ姿が、雑踏の中に完全に紛れて見えなくなるまで、ただ、ぼんやりと見送っていた。


 その夜、俺は寮に帰ると、心配して電話をかけてきた誠に、当たり散らすように怒鳴ってしまった。


「うるさい!放っておいてくれ!」


 誠は、何も言わず、ただ黙って俺の罵声を聞いていた。そして、電話を切る直前、「何かあったら、いつでも言えよ」とだけ、静かに言った。彼の、開放的な優しさでさえ、今の俺には届かなかった。俺は、自分の内向的な性格の殻に、固く、深く、閉じこもってしまった。


 ベッドに倒れ込み、目を閉じる。瞼の裏に、涙に濡れた葵の顔が浮かんだ。彼女が流した涙の、あの塩辛い味。それを、俺は、この先、何度も、何度も、象徴的な記憶として、心の中で繰り返し味わうことになる。それは、俺の未熟さがもたらした、初めての喪失の痛み。そして、決して消えることのない、罪の味だった。

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