第9話「掟破りの来訪」中編
トールの目線が机上の書簡から外れ、イルデブランドへとゆっくり向けられた。
だがその視線には、怒りの熱ではなく、別の温度が宿っていた。
「……本気で責任を取るって言葉。軽々しく使うやつは嫌いだ」
声は低く、よく通る。けれど、音量ではなく言葉そのものが重かった。
「どうせ出せやしない。命なんて、言葉で言っても実際には差し出せないもんだ」
そこで一拍置き、トールはわずかに笑った。
「――ああ。……本当に出しかねない奴が言うのが、俺は一番、嫌なんだよ」
イルデブランドの姿を前に、トールはそれを確信していた。
この男は、本当に死ねる。
チアのために、文字通り命を投げ出すことすら選択肢に入れてここに来た。
たった学院に「入る」か「入らない」かだけだ。しかも長子でもない。貴族のお付き合いで他家に嫁げばよいのに。
それだけでこの子は、不自由のない人生が約束されている。そんな貴族の末子のために「なにかあれば、自分が命でも差し出す」などと、それなりの実力者が言う。
それが一番、腹立たしい。
「……死人にガキの未来は託せねえんだよ」
トールはふいに椅子を蹴るように立ち上がると、もう一通の封書を手に取った。
それはイルデブランドの恩師であり、自らの師でもあった前塾長からの口添え状。
乱暴に手に取ったが、破るでもなく、投げるでもなく、きちんと両手で持ったまま、丁寧に目を通す。
トールの手が止まり、わずかに肩の力が抜けたのが見て取れた。
「……あの人らしいや」
ぽつりと、呟くように。
封書を閉じると、トールは再び席に戻ることなく、背を向けた。
白衣の背中が、東屋の陽に照らされる。
「掟を破る理由があるなら……」
言いながら、コーヒーのカップを取り、口に運ぶ。啜る音も立てず、ただ淡々と。
「その後に、何を残すかを考えろ。お前が死んで残るもんなんて、チアにはいらねえ」
イルデブランドは深く頭を下げるしかなかった。自分がこの場に持ち込んだ、すべての重さを受けとめながら。
「……では、再考の余地をいただけると」
「そんな言葉、口にするもんじゃねえよ」
トールの声は、今度は少しだけ柔らかかった。
「考えた結果がようこそって言葉になるまで、黙って待ってろ。言葉で責任なんか取れやしない。動け」
イルデブランドの喉が震えた。
けれど、声は出さなかった。
ただ、深く、深く頭を垂れた。
東屋には再び、コーヒーの香りが満ちていた。だがそれは、先ほどまでの刺すような苦さではなく、わずかに温もりを含んだものだった。
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