ランプの灯が消える夜に(やさしき塾 ~ Il Campiello ~)
紺屋灯探
第1話「馬車の音と少女の沈黙」
石畳を踏む蹄の音が、霧雨に包まれた町にやわらかく溶けていった。
四輪の馬車が静かに止まり、世界の音が一つ、途切れた。
カーテンの隙間から外を覗いたルチアーナ・アルカネッロは、思わず息をひそめる。
曇天の下、古びた街並みが広がっていた。屋根瓦はところどころ苔むし、石造りの建物の角には雨水の痕が黒く染みついている。広場には使い古された木箱が積まれ、小さな露店の骨組みだけが残っているような、そんな景色だった。
しかし、それは一見の印象に過ぎなかった。
目を凝らせば、軒先で誰かが洗濯物を干している。角のパン屋からは香ばしい匂いが漂い、店先には焼きたてのバゲットを包む老女の姿。大通りの奥では、小さな子どもたちが追いかけっこをしている。声は控えめだが、確かに笑いがあった。
生活はある。だが、そのすべてがどこか――整いすぎている――ルチアーナにはそう感じられた。
人の出入りは少ない。視線が交わることもない。
町の人々は、まるでこの町に余計なものが入り込まぬように息をひそめているようだった。
「……ここが、目的地なの?」
ふと漏れた声は、自分のものとは思えなかった。
馬車の内は、ルチアーナひとり。御者席に一人の老紳士がいた。整えた旅装に身を包み、銀糸のような髪をきちんと後ろで束ねた彼は身じろぎひとつせず、馬を操っている。
彼の名はイルデブランド。
アルカネッロ家の忠実なる執事であり、今はルチアーナ専属のバトラーとして任じられている。
かつて王立学園で首席を修め、幾多の名家から声がかかったという逸話を持つ男。だが、彼の表情にはそれらの栄光の影すら見えない。ただ、静謐な眼差しと、研ぎ澄まされた気配だけがそこにある。
「ルチアーナ様。ご到着です」
低く、抑揚を抑えた声。それだけで、ルチアーナの胸の内に小さな波紋が広がる。
彼の声には、命令でも助言でもない、ただの報せがある。それが心地よいと、ふと思った。
頷くと、扉が開いた。
涼しげな外気が流れ込む。雨は降っていないが、湿った風がルチアーナの頬を撫でる。ドレスの裾を整え、イルデブランドが差し出した手をとって馬車を降りる。
視線を上げたその先に広がっていたのは、やはり静かな町だった。
声はある。香りもある。人の気配もある。
それなのに、どこかが欠けている――この町には「偶然」がない。
生活のすべてが許されているように見えた。それは自分が、自分たちがここに来ることさえも。
それがルチアーナには、少しだけ息苦しく感じられた。
「ここが……あなたの言うやさしき塾なの?」
呟いた声に、イルデブランドはかすかに口角を上げた。
「いえ、こちらは門前でございます。塾はこれより、徒歩でおよそ一時間先です」
「……歩くの?」
「はい。馬車や馬の通行は許可されておりません」
「どうして?」
「――ご自分で、お確かめくださいませ」
それ以上は語らぬという意思が、言葉の隙間から伝わってくる。
問いに対する正解を彼が与えることは、きっと永遠にない。
ルチアーナは目を伏せた。
まるで誰かの答えで動かされてきた自分の人生を思い出すように。
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