第2話 自己反転の迷宮

――霧が街を呑み込み、人の輪郭が消えた夜。


深夜の渋谷スクランブル交差点。

人影はなく、残されたのは白く脈打つ霧と、ネオンが描くぼやけた幾何学模様だけだった。


信号機の光は消え、冷たい標識となっていた。まるで都市そのものが、夢の底で息を潜めているようだ。


「ここが……彼女が消えた場所ですね」

美咲がマスクを外し、冷たい空気を吸い込む。

霧の中は湿気ではなく、記憶そのものの腐臭がした。


黒崎は煙草をくわえ、ライターを灯した。火は小さく瞬いて、すぐ霧に呑まれる。

「この霧は『空気』じゃない。人間の認識を歪ませるフィルターだ」


「……つまり、見えてるものが本当とは限らない?」

「その通りだ。ここでは『自分』の定義すら霧に溶ける」

(怖い。けれど――この現象を、ちゃんと見届けなきゃ)


美咲は震える息を吐いた。

「どんどん、世界の輪郭が曖昧になっていく感じです。まるで、街が……息をしていないみたい」


「息をしていないのは、街じゃない。俺たちのほうだ」

黒崎の目が、白い海のような街を見据える。


二人はハルキの証言通り、交差点脇の細い路地へと進んだ。

不意に、足元で何かが「ぬるり」と動く。見下ろすと、霧が形を変え、人の指のように地面を撫でていた。


「……黒崎さん、今の見ました?」

「見た。触れてはいけない。あれは『霧の記憶』だ」


その一言に、美咲は息を呑む。


路地を抜けた瞬間、空間がねじれるように歪んだ。

そこに広がっていたのは、見慣れたはずの街の『裏返し』だった。


ビルの壁は液状に溶け、看板は反転文字で読めない。

道路は血のように赤黒く、どこからともなく低いハミング音が聞こえてくる。


「……これが、自己反転の迷宮」

黒崎の声は低く、乾いていた。


「都市の影が自己を模倣している。存在の模倣は、やがて本物を喰らう」


「まるで、人間の記憶を写して増殖するウイルスですね」

「違いない。あの霧は情報体だ。思考を餌にして形を保っている」


美咲がふと視線を上げると、霧の奥にぼんやりと人影が見えた。

それは、美咲自身の姿によく似ていた。


「黒崎さん……あれ、私ですよね?」


影がゆっくりと歩み出る。

白い顔、同じ髪型、同じ服――だが、瞳の奥には底のない闇が渦巻いていた。

唇が歪み、音にならない囁きが空間を震わせる。


「また、会えたね。代償を支払った、私。」


その声が、美咲の脳の奥を直接叩く。

体が硬直し、足が一歩、勝手に動く。


(だめ……動いちゃ……でも、これは私……?)


「美咲!」

黒崎が叫び、腕を掴む。

「見るな! それは『自己の影』だ! 理性を覗き込むな!」


「でも、あれは――私――」

「違う! 『影』は記憶を餌にする寄生体だ!」


黒崎は美咲を引き戻し、手にした懐中電灯を霧へ投げ込む。

光が弾け、影が一瞬だけ歪む。耳鳴りのような悲鳴が霧を震わせ、影は溶けるように消えた。


残ったのは、幾何学模様を描く青白い粒子。

それがゆっくりと渦を巻き、空中でひとつの文字を形成する。


『歌声』


美咲の胸が凍る。

「また……『あの存在』が絡んでるんですね。湖底の……」


黒崎の表情が硬い。

「やつらは形を変える。今度は『街』そのものを依り代にしたようだ」


二人は互いに息を整え、霧の奥へと進む。

足元のアスファルトには、誰かの靴跡が続いていた。


「この足跡、ハルキさんの恋人のものかも」

「だとしたら、まだ間に合うかもしれん」


その時、霧の奥からかすかな声がした。

「……ミサキ、聞こえる?」


美咲は立ち止まる。

「いま、誰か……」

「気のせいだ。霧が思考を反射してる」黒崎が即座に制した。

けれど、美咲には確かに――『知った声』に聞こえた。


その瞬間、背後から声がした。

「――助けて……誰か……」


振り返ると、霧の向こうにハルキが立っていた。

だが、その表情は奇妙に歪み、口元だけが笑っていた。


「あなた……どうしてここに……?」美咲が息をのむ。

ハルキは、にたりと笑った。

「ここが、僕の家なんですよ。ようこそ、僕の中へ」


霧が脈動する。ハルキは霧の中に溶け込んだ。

街全体が、生き物のように呼吸を始めた。


黒崎が低く呟く。

「……始まったな。『自己反転』の中心核だ」


霧の中、どこからともなくあの旋律が響いた。

――あの、湖底で聞いた歌。

「……おかえり」と誰かが囁く。


世界がひっくり返る音がした。



次回予告


霧の奥で見つけた一枚の家族写真。

そこに写る『笑顔の家族』は、すでに十年前に全員失踪していた――。


そして、美咲の背後で、もう一人の美咲が微笑む。


――次回、第3話「記憶を喰らう霧の家族」へ。

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