灰の夢と青の約束
夜。
風の市の灯りが静かに滲んでいた。
昼間の乱風が嘘のように収まり、今は穏やかな音しかない。
鈴の列が一定の間隔で鳴り、空気が呼吸をしているのがわかる。
夏生は宿舎の窓辺に座り、膝に風瓶を置いていた。
瓶の中では、青い光が小さく脈を打っている。
――あの時、返した風の“残り”。
それが、なぜか自分の呼吸と同じリズムで揺れている。
「眠れませんか?」
声がして振り向くと、ルシエルが立っていた。
昼と違い、白い上衣を羽織り、髪を後ろで束ねている。
彼女の手にも、同じ形の瓶があった。
「風の音が強くて、落ち着かなくてな」
「今日は一日中、あなたの“返した風”が市を回ってたんですよ」
「俺の?」
「そう。あなたが返した分の流れが、市全体に伝わったんです。
今夜はそのおかげで、どの鈴も同じ拍で鳴ってる」
ルシエルは微笑み、隣に座った。
二人の間を、風がゆっくり通り抜ける。
瓶の中の光がそのたびに強まり、また沈んでいった。
「……不思議だな。俺、こっちに来てからずっと、怖さと優しさが同居してる気がする」
「それが風です。誰かの手の中にいる時は優しくて、
でも、離れた瞬間に牙を持つ」
「人間みたいだな」
「だからこそ、あなたは風に好かれるんです」
少し沈黙が落ちた。
外の風鈴が一つだけ高く鳴る。
夏生は瓶の光を見つめた。
その中心に、小さな“灰色の粒”がある。
「……なぁ、ルシエル。この中の灰みたいなやつ、なんだと思う?」
「灰?」
「ほら、ここ。光の真ん中」
ルシエルは身を寄せ、瓶を覗き込む。
彼女の金の瞳が、青い光を受けて淡く反射する。
「……それ、風が“記憶”を残した印です」
「記憶?」
「この世界では、風はすべてを記録します。
あなたが返した風にも、あなたの記憶の断片が刻まれている」
「じゃあ、これは俺の――?」
「かもしれません。眠る前に、瓶を胸の近くに置いてみてください。
風があなたに“見せたいもの”を見せてくれるかもしれません」
その夜、夏生はベッドに横たわり、瓶を胸に抱えた。
光は弱く、呼吸に合わせて静かに揺れている。
目を閉じると、風の音が耳の奥で遠のき、
代わりに“街のざわめき”のような音が戻ってきた。
踏切。車の音。誰かの足音。
――懐かしい。
瞼の裏が淡く光り、映像が浮かぶ。
狭いキッチン。
カーテンの隙間から射す朝の光。
小さな湯気の立つカップ。
祖母が笑っていた。
『夏生、風ってね、人の心と似てるの』
声が、風のように柔らかく流れ込む。
『ため込むと濁る。流せば澄む。だから、悲しいことがあっても、流してごらん』
夏生は頷いた。
幼い頃、泣き虫だった自分に祖母がいつも言ってくれた言葉。
それが、胸の奥で鮮やかに蘇る。
そして、次の瞬間――
映像が切り替わる。
信号。
雨。
夜の交差点。
濡れたアスファルトに車のライトが反射していた。
ブレーキ音。
瞬間の光。
衝撃。
心臓が跳ねる。
胸に抱いた瓶の中の光が、一瞬強く脈打つ。
「――っ!」
体が震え、息が詰まった。
だが、痛みはなかった。
代わりに、柔らかい風の音が響いた。
祖母の声が、風の中から聞こえてくる。
『夏生、あなたはまだ返していないものがあるでしょう?』
「返してない……?」
『あなたが“生きること”をあきらめたまま、風に乗ってきた。
でも、風は優しいの。返すチャンスをもう一度くれたのよ』
夏生の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「……ごめん。俺、怖かっただけなんだ。
あの時、全部終わったと思ってた」
『終わりなんて、風にはないのよ。
あなたの呼吸がある限り、流れは続く。』
その言葉とともに、瓶の光がゆっくりと消えていった。
代わりに、胸の奥に暖かい風が通り抜ける。
まるで祖母の手のひらが、もう一度彼の頬を撫でているようだった。
朝。
鳥の声が遠くで聞こえる。
夏生はゆっくりと目を開けた。
部屋の中に風が入ってくる。
瓶は、もう光っていない。
けれど、不思議と寂しさはなかった。
ルシエルが扉の外に立っていた。
「おはようございます」
「おはよう。……俺、少し夢を見てたみたいだ」
「どんな夢でしたか?」
夏生は微笑み、瓶を見せた。
「“返す”夢だよ。たぶん、それが始まりなんだと思う」
ルシエルは静かに頷いた。
「なら、風はちゃんと伝えたんですね」
夏生は立ち上がり、外の風を吸い込む。
空は青く、どこまでも高い。
掌を広げると、朝の光が指の間を抜けていく。
もう、恐怖はなかった。
「……行こう、ルシエル。
この世界の風が、俺に何を返そうとしてるのか――
確かめてみたい」
風が吹く。
誓い札が鳴る。
その音は、どこか遠い記憶の中で聞いた鈴の音と重なっていた。
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