風脈と初遭遇
夏生は、頬をなでる風の温度に違和感を覚えた。
冷たくも、暖かくもない。感覚の針が真ん中で止まったまま、皮膚の上を通り過ぎていく。
目を開けると、そこは白い草の海だった。どこまでも続く銀白色の草原が、風に揺れて波のようにうねっている。
「……え?」
声に出した瞬間、音がやけに遠く響いた。自分の声が、自分の耳に届くまで少し時間がかかる。空気が薄いのか、それとも――空そのものが広すぎるのか。
空は青い。だが、どこか人工的な青だ。雲はなく、太陽もない。それでも世界全体が光っている。照明の下に置かれたジオラマのような明るさだった。
膝を立て、慎重に立ち上がる。地面は柔らかい。草を踏むたびに、ふかふかとした弾力が返ってくる。
目を凝らしても、道らしいものは見えない。ビルも標識も、音も人も――なにもない。
心臓の鼓動が、妙に二重に響く。ひとつはいつもの心拍。もうひとつは、胸の奥で微かに鳴る異質な脈。
生理的な不安が、じわじわと広がっていく。
「……夢、か?」
言葉は、誰にも届かない。
呼吸を整えようとするが、肺の奥が少し熱い。
視界の隅で、草の穂が淡く光った。風とは違う動きだ。
一本の草を指でつまむと、冷たい衝撃が走り、根元から灰色に変色していく。慌てて手を放すと、草は砂のように崩れ落ちた。
「な、なに……?」
思考よりも先に、恐怖が身体を支配する。背中がぞくりと冷え、呼吸が荒くなる。
目の前で起こった現象が理解できない。ただ、確かなのは“触れてはいけない”という直感だった。
膝が少し震える。無意識に下がる視線の先で、光がまた動いた。
風に混じって、遠くから低い鳴き声のようなものが聞こえる。
音が近づく。
草むらの向こうで、何かがゆっくりと姿を現した。
四足。長い口吻。金属のように光る鱗と、背中に薄い膜を畳んだ獣。
現実のどんな生き物にも似ていない。
思考が止まり、息が喉の途中で固まった。
「……嘘だろ」
声が勝手に漏れた。手のひらが汗ばみ、指先が震える。
獣は、こちらを見た。
目は琥珀色で、深い水の底のように静かだ。唸りもしない。ただ、じっと観察している。
現実感がないのに、肌が本能的に“生きている”と告げている。
「こ、来るな……!」
夏生は一歩、後ろに下がった。草を踏む音がやけに大きく響く。
獣の耳が動く。
一歩、近づいた。息を呑む。
走れ――そう頭が叫ぶのに、脚が動かない。
代わりに、掌が熱くなった。あのときの感覚。草を壊したときと同じ、吸い取るような熱だ。
「やめろ……来るな!」
思わず叫び、両手を突き出した。
その瞬間、獣の足元の草がわずかにしなり、空気がひゅっと震えた。風が反転する。
獣は、立ち止まった。鼻先を動かし、夏生の匂いを嗅ぐように首を傾けた。
数秒後、興味を失ったように視線をそらし、ゆっくりと背を向けて歩き出す。
その後ろには、体の小さなもう一匹――子どもだ。親のあとをよたよたと追いながら、草を食んでいる。
息が、ようやく戻った。
膝の力が抜けて、その場に座り込む。
胸の奥で、ふたつの鼓動がようやく一致した。
恐怖は残っている。でも、それ以上に、奇妙な安堵が広がっていた。
「……生き物だ。俺だけじゃない」
小さく呟く。
指先がまだ震えている。だが、その震えは恐怖だけではなく、確かに“感動”の一部でもあった。
この世界は、生きている。
それを、身体がやっと理解し始めていた。
呼吸を整えながら、夏生はゆっくり立ち上がった。
風が通り抜けていくたび、白い草が柔らかく波打つ。
恐怖の余韻がまだ身体の奥に残っていたが、それと同時に、どこか懐かしいような静けさも漂っていた。
この静寂は、都会にはない。
信号機も車の音も、遠くの工事のドリル音も、どこにもない。
耳の奥で、自分の鼓動だけが小さく刻まれている。
「……本当に、地球じゃないんだな」
口に出してみると、言葉の重さが少し和らいだ。
“異世界”という言葉を使うのは、さすがに馬鹿げている気がする。
けれど、どう考えてもここは日本ではない。
この光、この空気、重力の感覚――すべてが微妙に違う。
夢ではない。だとすれば、どうしてここにいる? 事故のあと、意識は一度消えたはずだ。
まさか、本当に「死んで」ここに来たのか。
考えるほど、現実の輪郭がぼやけていく。
だが、いまは恐怖よりも、生きている感覚のほうが勝っていた。
足元で、草の穂がまた微かに光った。
陽炎のように、揺れる光の筋。
今度は触らない。
しゃがみこみ、息をひそめながら観察する。
光は風とともに流れている。草が揺れる方向と同じ。
まるで、風そのものに色がついたみたいだ。
風の線が地面を走り、波のように広がって消える。
自然の現象にしては、あまりにも規則的だ。
――さっき、草を壊したときも、確かに“吸い込まれた”感覚があった。
胸の奥で鳴ったもうひとつの鼓動。あれと関係があるのか。
夏生は両手を膝の上に置き、深く息を吐いた。
怖さが完全に消えたわけではない。
けれど、未知を恐れるより、理解したいという好奇心が少しずつ勝ち始めていた。
「風に……何か混じってるのか?」
呟きながら、手のひらをそっと空気にかざす。
指の間を抜けていく風が、微かに震えている。
細い糸のような、温度のない流れ。
それが指先に触れるたび、胸の鼓動が小さく反応する。
まるで、センサーが共鳴しているようだった。
「……もし、これがこの世界の“空気”なら――」
言葉の途中で、視界の端に影が動いた。
反射的に身をひねる。
風の流れが変わった方向を目で追うと、谷のような窪地が見えた。
白い草が途切れ、下には灰色の岩肌が露出している。
そこから、淡い光が立ち上っている。
光は一定のリズムで瞬き、風に溶けるように流れていく。
「……あれも“風”か?」
近づくかどうか、一瞬迷った。
だが、引き返す理由もない。
気づけば足が勝手に動いていた。
坂を降りるたび、風の音が変わる。低い笛のような音が混じる。
耳の奥に心地よい響きが広がる。
光が強くなる。
まるで、川の流れのように、谷底に“風の筋”が集まっていた。
谷の底には、透明な液体のようなものが流れていた。
だが、水ではない。
光が溶けたような、半透明の流れ。
川の形をしているのに、触れずに見ているだけで、風を感じる。
夏生は慎重に膝をつき、掌をかざした。
「……これが、この世界の“風脈”か?」
口にした瞬間、胸の奥の脈が呼応した。
体の中心が熱くなる。
指先から、何かが吸い上げられるような感覚。
けれど、痛みはない。
むしろ、身体が軽くなるような――浮くような錯覚に近い。
指を離しても、その感覚はしばらく残った。
「おいおい……まさか本当に“力”とか言うやつか?」
自嘲気味に笑った。
けれど、否定できなかった。
自分の意思で止められる。
吸うことも、離すことも、制御できる。
胸の奥の“もうひとつの鼓動”が、それを理解しているかのようにリズムを変える。
恐怖よりも、今はただ、世界を掴んでいるという実感があった。
風がふいに強くなり、白い草が一斉にたなびいた。
その中に、何かの声が混じったように聞こえる。
風に乗って届く低い鳴き声。
獣のものか、人のものか分からない。
夏生は立ち上がり、耳を澄ませた。
「……誰か、いるのか?」
声を張る。返事はない。
代わりに、草の向こうから、低い影が動いた。
一度見たあの獣よりも大きい。
背中の膜が、風を受けてわずかに震える。
その姿が、草の波の向こうにゆらめいている。
風が草を裂き、光が走った。
その光の中で、夏生は思わず息を呑んだ。
「嘘だろ……さっきのより、でかい……!」
全身が緊張する。心臓が跳ね、指先が再び熱を帯びる。
この世界は、美しい――けれど、それ以上に、危険だ。
夏生は喉を鳴らし、足の位置を確かめた。
逃げ道、風の向き、地面の硬さ。
頭が冷静に動く。
それでも、体の奥は恐怖で震えていた。
「頼む……頼むから、来るなよ」
声はかすれた。
その瞬間、風の流れが反転した。
何かが近づいてくる――。
獣の影が、風の波をかき分けながら近づいてくる。
草の海がそのたびに押し倒され、波紋のように広がった。
背中の膜が大きく膨らみ、日光の代わりに漂う銀の光を反射する。
生き物というより、風そのものが形をとったように見えた。
夏生は息を殺し、しゃがみこんだ。
膝の裏が冷たく、足の筋肉が引き攣る。
理性が「動くな」と命じ、心臓は「逃げろ」と叫ぶ。
どちらを信じるか――一瞬の判断が命取りになる。
「……あいつ、俺を見てるのか……?」
草の間から覗く金色の瞳が、まっすぐにこちらを射抜いていた。
獣の鼻がひくひくと動き、風を嗅いでいる。
空気を介して、何かを読み取っているのかもしれない。
それが敵意なのか、ただの好奇心なのか、判断できない。
一歩、前へ。
そのたびに胸の奥の“もうひとつの心臓”が、ドクンと強く鳴る。
身体が反応する。何かが吸い上がるように、手のひらの内側が熱を帯びていく。
脈が速い。血ではなく、光が流れているような感覚だ。
「やばい……やばい、やばい……!」
声を出した途端、獣の耳がぴくりと動いた。
次の瞬間、草が爆ぜるように舞い上がり、獣が飛びかかってきた。
反射的に両手を前に出す。
「やめろ!!」
叫んだと同時に、空気が弾けた。
風が渦を巻き、爆風のような力が前方に走る。
獣の身体がその風に押され、転がるように後退した。
「っ……うそ……今の、俺が?」
胸が焼けるように熱い。息が乱れる。
掌の内側には淡い光の残像。
風を――“押し返した”。
偶然か、本能か、それとも……。
獣が低く唸り声を上げた。
怒りではない。混乱だ。
風をまとった人間を、初めて見たのかもしれない。
距離を保ったまま、ゆっくりと後ずさる。
その視線に、ほんの一瞬だけ――恐れが混じったように見えた。
「……行けよ。俺は戦う気なんかない」
自分でも驚くほど、声が静かだった。
獣はしばらく動かず、やがて低い音を残して背を向けた。
草をかき分け、銀の光の中に消えていく。
風が残り香のように漂い、世界が静けさを取り戻した。
膝から崩れ落ちる。
全身がだるい。
呼吸のたびに、胸の奥がズキズキする。
まるで、体の中の何かを“使いすぎた”ような感覚。
掌を見ると、皮膚がうっすらと光っている。
吸収と放出――その両方をやってしまったらしい。
「……やばいな。これ、使い方次第じゃ……」
その言葉を最後に、視界が揺れた。
めまいのような、空気の渦のような――。
バランスを崩して前に倒れかけた瞬間、
背後から「危ない!」という声が響いた。
腕を掴まれ、引き寄せられる。
柔らかい何かにぶつかり、二人分の体重が地面に倒れ込んだ。
土の匂いと、少し甘い風の香りが混ざる。
「……っ、あぶな……大丈夫?」
顔を上げると、目の前に少女がいた。
白銀の髪が風に舞い、透けるような紫の瞳がこちらを見つめている。
年は二十歳前後か。
灰色のローブの裾が風に揺れ、腰には細い杖のようなものが吊られていた。
「あ、あんた……人、だよな……?」
「人、です。あなたこそ……風の渦に触ってたけど、大丈夫?」
彼女の声は落ち着いていて、どこか澄んでいた。
異国の訛りのようなものが混じっているが、不思議と意味は理解できる。
言葉が“翻訳されている”ような、そんな感覚。
「風の……渦? あれ、川みたいなやつのことか?」
「そう。風脈。流れに直接触れるなんて、普通はできませんよ。下手したら、身体ごと持ってかれます」
「持ってかれる……?」
彼女は小さく息を吐き、笑みを浮かべた。
「説明したいけど、まずは離れましょう。あなた、風を暴走させたでしょ? ここに長くいると、土地が傷む」
夏生は言葉を失い、ただ頷いた。
風を――暴走。
確かに、自分の中の“何か”が爆発した感覚はあった。
少女は立ち上がり、手を差し出した。
細い指先。風に揺れる髪が光を受けて透き通る。
夏生はその手を掴んだ。温かい。人の体温だ。
その瞬間、胸の奥の鼓動が一瞬だけ静かになった。
「助けてくれて……ありがとう」
「礼はあとでいいですよ。とにかく、ここから離れましょう。風が荒れてる」
少女――後にルシエルと名乗る彼女に導かれ、夏生は歩き出した。
風の流れが少しずつ穏やかになる。
背後では、さっきの草がゆっくりと立ち上がり、倒れた跡を覆い隠していった。
まるで、世界が自らの傷を癒やしているようだった。
歩きながら、夏生は思った。
――この世界は、生きている。
そして、自分の中にも、その一部が流れ込んでいる。
それが「力」なのか「呪い」なのか、まだ分からない。
ただひとつだけ確かなのは、
この瞬間、確かに“ひとりではない”ということだった。
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