職場と坂下、そしてこごろう

会社の自動ドアをくぐると、エアコンの風が頬に当たった。

冬の外気を切り離したような空間。人工的な温度と、印刷機のインクの匂い。

オフィスはすでに何人もの社員が机に向かっていて、キーボードの音が一定のリズムで鳴っていた。

その音の重なりは、まるでこの場所全体が一つの機械のように動いているようだった。


麻生夏生は小さく挨拶をして自分の席に座る。

ディスプレイをつけると、昨日のメールの返信が未読のままいくつも並んでいる。

頭の中で「あとで」「すぐ」「要返信」を分けながら、ひとつずつ処理していく。

指は動いているのに、心はどこか離れていた。

そのとき、横から明るい声がした。


「おはようございます!」

新卒二年目の坂下だ。

彼女は大きめのマグカップを両手で持って、机の端に置いた。

前髪を留めている小さなヘアピンが、蛍光灯の光で一瞬きらりと光る。


「麻生さん、昨日の夜中、監視システムの警告出てませんでした?」

「出てたけど、フェイルオーバーで止まったよ。被害はなし」

「よかったぁ……昨日、帰り際に“もし何かあったら”って言われてて、ちょっとドキドキしてたんです」

「無事で何より。ここのシステム、壊れないのがいちばんの褒め言葉だからね」

「ですね!」


彼女は笑うと、マグカップを両手で包み込みながら立ち去っていった。

その後ろ姿を見送って、夏生は少しだけ口元をゆるめた。

若さというのは、周囲の空気を明るく変える力がある。

その光を見ていると、少しだけ自分まで呼吸が軽くなる気がした。


午前十時。

上司の樫村が近づいてきた。

「麻生くん、例の顧客向け資料、昼までに出せる?」

「はい。概要を一枚にまとめておきます」

「“問題は起きたが、起きていないのと同じように解決した”みたいな感じで頼むよ」

「……それ、詩ですね」

「経営層は詩が好きなんだよ」

樫村はにやりともせずに去っていった。

冗談なのか本気なのか、判断がつかない人だった。


昼休み。

社員食堂のテレビではバラエティ番組が流れ、誰も真剣に見ていない。

夏生はカップ味噌汁を持って空いた席に座った。

そこへ、また坂下がトレイを持ってやってきた。


「隣、いいですか?」

「どうぞ」

「ありがとうございます。……あ、そうだ」

彼女は少し迷ったあと、声を落とした。

「会社の裏の駐車場に、白い猫がいるんです。片耳が折れてて、毛がちょっとだけ茶色混じりで。

 昨日見かけて、めちゃくちゃかわいかったんですけど……名前、つけちゃってもいいですかね」

「名前?」

「“こごろう”って呼んでます。寒い日に来るから」

夏生は思わず笑った。

「いい名前だね。あいつ、そんな顔してそうだ」

「え、麻生さんも知ってるんですか?」

「たまに見かけるよ。夜になると、会社の自販機の横で座ってる」

「そう!あそこです!」

坂下は嬉しそうに身を乗り出した。

その表情を見ていると、少しだけ心が柔らかくなった。


「こごろう、今朝もいたんですよ。カリカリあげようとしたら逃げちゃいましたけど」

「距離を詰めすぎたんだな。猫って最初の距離感、大事なんだよ」

「やっぱり……でも、ちゃんと見てくれてたのが分かって嬉しかったです」

坂下は小さく笑って、箸を置いた。


しばらく沈黙が流れる。

食堂の奥でレンジが鳴り、誰かが立ち上がる音がした。

夏生は空いた味噌汁の容器を手に取りながら言った。

「坂下さん、猫好きなんだね」

「動物は全部好きです。……でも、最近はこごろう見てると“あ、自分もああなりたいな”って思うんです」

「自由だから?」

「自由っていうか、ちゃんと自分のペースで生きてる感じ。無理してない」

「……なるほど」

夏生は静かにうなずいた。

人間より猫のほうが、ずっと自然に生きている。

そんな気がした。


午後、オフィスに戻ると、上司の声がまた飛んできた。

「麻生くん、あの資料――うん、完璧だ。いいね」

短い一言。

ほめられても、心は驚くほど動かない。

以前なら、もう少し嬉しかったはずだ。

いつからこうなったのか、自分でも思い出せない。


夕方になると、窓の外がオレンジ色に染まっていた。

デスクの上のコーヒーはすっかり冷めている。

夏生は腕時計を見て立ち上がった。

祖母の施設の面会時間が迫っていた。


「麻生さん、もう帰るんですか?」


坂下が顔を上げる。

「うん。今日は祖母に会いに行く」

「いいですね。……気をつけてくださいね」

「ありがとう。こごろうにもよろしく」

「はい!」

彼女は笑顔で手を振った。

その声に送られながら、夏生はオフィスを出た。


廊下を歩きながら、ふとスマホを取り出す。

母からのメッセージがもう一通届いていた。

【おばあちゃん、今日はとても穏やか。あなたが来るの、楽しみにしてる】

その一文に、小さく息を吐く。

電車の窓越しに見たあかねの笑顔、坂下の「こごろう」、祖母の名前。

いくつかの出来事が一本の糸みたいに胸の奥で結ばれていく気がした。

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