ANZU ~楠木杏・野球少女物語~

齋木カズアキ

第1話 プロローグ

 あれは二年前のことだった。

 思い出す度に今でもあの衝撃が僕の脳裏に鮮明に蘇る。


「あんずねえちゃん、次は千賀のフォークね!」

「よし、分かった!」

 マウンドに立つ髪の長い細身のピッチャーが、バッターボックスに立つ少年に威勢のいい返事をした。帽子を目深に被っていて顔は見えないが、どうやら女の子のようだった。手足はファッションモデルのように長い。力感のない流れるようなフォームから遅れて出て来た右腕が弓のようにしなり、指先から放たれたボールは綺麗な球筋の残像を残した。バッターボックスの少年があっさり空振る。構えていたキャッチャーもホームプレート上で跳ねたボールを取り損ねて後方にそらしてしまった。

「すげえ!!」

 周りの少年たちが合唱した。

「急に見えなくなった。本物のおばけフォークだ!」

 バッターボックスの少年は叫んだ。

 僕は河川敷のグラウンドで行われている草野球の光景を遥か後方の川の堤防の上から眺めていた。これから先輩スカウトマンと共にドラフト候補がいる高校に向かう途中の、のどかなひとときのはずだった。 

 だがその一球にボクは釘付けになった。一瞬目を疑った。なぜならプロ野球の球場で観るプロ野球選手の球筋のように美しかったからだ。

「じゃあ、次は菅野のスライダー」

「オッケー!」

 またしても滑らかなフォームから放たれたボールをバッターボックスの少年はかすりもしなかった。ど真ん中に構えていたキャッチャーは、ホームプレート手前で突然右に曲がった球筋に慌てて身体を倒したが、全く付いて行けず再び後方にそらした。


「おおっ!!」


 再び全員で合唱が起こる。

「あんずねえちゃんの球、球種が分かってても全然取れないよ」

 キャッチャーの少年から泣きが入った。

「分かった、分かった。今度はストレート投げるから」

「ねえ、ねえ、あんずねえちゃん、誰のストレート?」

 合唱メンバーの一人が身を乗り出して叫んだ。

「それじゃあ、吉田輝星のストレート」

 ええ、それ誰?と叫ぶ声を無視してピッチャーはプレートを踏んだ。かつて注目されプロ野球に入団した甲子園のヒーローの悲しい現実が心を騒がせるも、ボクは目の前で起こる出来事に期待感を抱き、思わず手持ちのスピードガンを構えた。

「行くよ!」

 滑らかなフォームに力強さが加わり、指先から放たれたストレートは糸を引き吉田投手の球筋のようにホップしてミットに届いた。

 キャッチャーミットの上の唇でボールが跳ね、三度後方にそれる。案の定バッターボックスの少年のバットの軌道は球筋の遥か下で空を切り、文句なしの三球三振だ。

「いててて、あんずねえちゃん手加減してよ。小学生が使うキャッチャー・ミットなんて安物なんだからさあ。綿が入ってるところに当たってもいてえよ。手首もちょっと持って行かれちゃったし」

「ごめん、ごめん、つい本気出しちゃった」

 本気出しちゃった?慌ててスピードガンを覗く


”150キロ”


 しっかり狙いを定めた訳ではなかったが、この数字は驚愕に値する。しかも軟球。

 腕を組み、背筋を伸ばしてベンチに腰掛けていた指導者らしき男性が、マウンドに向かって休憩終了だと声を発すると、女の子と守りについていた小学生はベンチの方へ歩き出した。彼女のパフォーマンスは休み時間の余興だったらしい。


 早くしろという先輩スカウトマンに促され、後ろ髪を引かれる思いで僕はその場を離れた。どこにでもあるような、のどかなひとときのはずが、考えもしなかった質の高い映像を見せられたせいで、まるで初めて恋をした異性のように、少女の姿がしばらく頭から離れなかった。   

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る