REACTOR
ブリードくま
臨界前夜
上杉涼太は、どこにでもいる高校生だった。
成績はそこそこ、友人もそれなり。
放課後は駅前の定食屋で皿を運び、バイト終わりにコンビニへ寄るのが日課だった。
「今日も混んでたな……」
閉店間際の暖簾をくぐり、油と味噌汁の匂いが夜風に溶ける。
コンビニでプリンを1つだけ買う。疲れた夜のごほうび。レジの明かりが、いつもより白く、無機質に感じた。
店を出ると、雨はすでに上がっていた。
舗道に残った水たまりが街灯をゆらゆら映している。
風が少し冷たい。
「風呂入って、寝よ」
小さく独り言をこぼしながら、家路へと歩き出す。
スマホを取り出して時間を確認する。午後9時過ぎ。
親はまだ仕事で帰っていない。妹は塾。
家に帰っても、誰もいない。
(まあ、いつも通りだ)
足元のアスファルトがきらりと光る。
遠くで車のブレーキ音が聞こえた。
すべてが日常の続きのように思えた。
――その声を聞くまでは。
「おい、逃げんなって。話は最後まで聞けよ」
「離して!」
男たちの怒鳴り声と、少女の悲鳴。
その短い叫びが、まるでガラスのように静かな夜の空気を激しく裂いた。
涼太は思わず足を止める。
見なかったことにすればいい。
知らないふりをして通り過ぎれば、いつも通りの夜が続く。
それなのに、足は勝手に動いていた。
路地の奥は暗い。街灯が届かず、空気が重い。
近づくにつれ、胸の奥で何かがざわついた。理性が止めようとするのに、好奇心がそれを踏みつけて進む。
男が2人。少女を壁際に追い詰めている。
肩までの髪。制服姿。細い腕が無理やりつかまれていた。
「やめろ!」
声が出た瞬間、男たちがこちらを振り向く。
「なんだテメェ、ガキが首突っ込むな!」
一歩、男が近づいてくる。
その肩がわずかに動いた――と思った次の瞬間。
風が鳴った。それは、ただの風ではなかった。金属が空間を切り裂くような、鋭い音。
男の体が宙に浮き、背中から地面に叩きつけられる。
何が起きたのか理解できない。遅れて、風の中に蹴りの軌跡だけが残った。その残像が、一瞬だけ世界を止めた。
「……は?」
もう1人が声を詰まらせ、拳を振り上げようとした瞬間、少女の動きがさらに加速した。彼女の膝が男の腹にめり込み、空気が押し出されるような鈍い音が響く。
男はよろめき、少女の肘がその首筋を正確に捉えた。2人目も声にならない呻きを残して崩れ落ちる。
路地に残ったのは、涼太と少女だけ。
少女はゆっくりとこちらを向いた。
月明かりが髪を照らし、頬に光の線を描く。
年は自分より2、3歳下に見える。その瞳は深海のように冷たく澄んでいた。
「……見られちゃったな」
声は驚くほど落ち着いていたが、月明かりの下で彼女の目が一瞬だけ揺れた。まるで、隠していた何かを暴かれたような。
「い、いや……その、助けようとしただけで」
「助ける必要、なかったけど」
彼女は小さく唇を噛み、すぐに冷たい視線に戻した。
「でも、首突っ込んだ度胸は嫌いじゃないよ」
少女の足が小さく動く。
次の瞬間、視界が跳ねた。
反射的にのけぞる。白い踵が、風を切って鼻先をかすめた。心臓が一瞬跳ね、喉の奥で息が詰まる。
風圧で髪が揺れ、スカートがふわりと舞う。彼女の動きに、なぜか目を離せなかった。恐怖よりも、その美しさに。
彼女は止まらなかった。
再び踏み込み、回し蹴り。
涼太は横へ身をひねってかわす。
その瞬間、月明かりの下で、舞い上がった布の奥が一瞬だけ見えた。
「……っ」
少女の動きが止まる。
視線が合う。彼女の頬がわずかに赤くなり、次の瞬間、すべてを凍らせるような強い視線に変わった。
「……見た?」
「ち、違っ……!」
息が詰まる。
彼女は数秒、何かを測るようにじっとこちらを見つめた。
そして、ふっと表情を緩める。
「避けるなんて、やるじゃん」
その足元に、何かが落ちた。
コンビニ袋から滑り出た、生徒手帳。濡れたアスファルトに表紙が光る。
少女はそれを拾い上げ、指で名前をなぞる。
「……上杉涼太……」
低くつぶやき、ゆっくりと顔を上げる。
「覚えときますね。……先輩」
そう言って踵を返す。
白いスニーカーの音が、雨上がりの路地を遠ざかっていく。
涼太はその場に立ち尽くした。
倒れた男たちの息づかいが、湿った空気に混ざっている。
ポケットの中で手が震えた。
「……なんだったんだ、今の」
声に出した途端、胸の奥が熱くなった。
恐怖でも、興奮でもない。
心の奥をざらつかせる、得体の知れない感覚。それは、退屈な日常を食い破る、初めての衝動だった。
プリンの入った袋を拾い上げる。指先がわずかに震えていた。
冷たい夜風が頬を撫でる。
あの夜が、上杉諒太の“普通”を終わらせた。
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