Ep.5 —死んだはずだよ、お富さん

クレー特別行政区・セト区・カミヤ・コア 国立公文書館別館・地下4階

語り手:ルカ・コヴァチ(38歳 / 記録調査員 / 旧ユーゴスラビア系ニホニーズ)


カミヤ・コアの地下深くに位置する国立公文書館別館は、都市の消化器官の底のような場所だ。 メトロの微振動が、分厚いコンクリートの壁を通して、絶えず腹の底に響いてくる。


空調の低い唸り音と、膨大な紙の匂い——カビと埃と、酸化したインク、そしてすり減った紙繊維の甘ったるい匂い——が充満している。それは私の故郷、台湾・高雄にある古い図書館の匂いによく似ているが、もっと湿っぽく、重苦しい。「忘れられた時間」が澱んでいる匂いだ。


蛍光灯がチカチカと点滅する薄暗い通路を抜け、最奥にある鉄扉を開けると、そこは紙の迷宮だった。 天井まで届くスチール棚が整然と、しかし威圧的に並び、そこには無数のダンボール箱が詰め込まれている。その隙間に、要塞のように築かれたデスクがあった。


ルカ・コヴァチは、資料の山に埋もれるようにして座っていた。 彼は痩せ型で、色素の薄い金髪と、少し神経質そうな青い目をしている。使い古されたツイードのジャケットは、あちこちに紙で擦れた跡があり、袖口はインクで汚れている。


デスクの上には、最新の軍用スペックのNEXIS端末と、それとは対照的なボロボロになった昭和時代の戸籍簿、そして飲みかけのインスタントコーヒーが置かれている。 彼は私が部屋に入ると、端末から顔を上げ、拡大鏡を外して、少し眩しそうに目を細めた。


(手元のマグカップを持ち上げ、中身がないことを確認してため息をつく。カップの縁には、乾いたコーヒーの跡が年輪のように残っている)


ようこそ、迷宮へ。 コーヒー、飲むか? ……ああ、君は台湾の人だったな。お茶の方がいいか? ……いや、いいんだ。遠慮するな。ここの給湯室の水は配管が錆びてて鉄臭いからな。君の持参品の方が賢明だ。


ここに来るまで迷わなかったか? 地上の受付嬢は「地下4階」と言っただろうが、実際には地下6階相当の深さだ。ここは都市計画の図面からも消えかけている「盲腸」みたいな場所だからな。


俺の仕事について聞きたいだって? 名刺には「記録調査員」と書いてあるだろう。聞こえはいいが、実態は「ゴミ漁り」だ。


ニホンには、NEXIS(国家統合システム)という完璧なデータベースがある。国民のあらゆる行動、資産、職歴、医療データが記録されている。政府は言う。「NEXISにないものは存在しない」と。


だが、NEXISが稼働したのは1967年だ。 それ以前の記録、特に1945年から1952年にかけての「暗黒の7年間」のデータは、デジタル化されずにこの地下室(ダンジョン)で腐りかけている。


手書きの戸籍、焼け焦げた住民台帳、軍政庁が残したタイプライターの報告書。 それらは文字が薄れ、紙魚(シミ)に食われ、崩れ落ちる寸前だ。俺の仕事は、その腐った紙の山から、クライアントが探している「失われた家族」を見つけ出すことだ。


NEXISが「存在しない」と断定した人間を、物理的な証拠から「発掘」する。考古学者と探偵と、検死官を足して3で割ったような仕事さ。


そんで東欧系の俺が、ニホンの古い戸籍を洗っているのかって? いい質問だ。たいていの客は、俺の顔を見て「ニホン語読めるのか?」としか聞かないからな。


俺は「国を失う」という感覚を知っているからだ。


両親は第三次大戦の難民だった。国が分裂し、昨日の隣人が今日の敵になり、パスポートがただの紙切れになる恐怖を知っている。 俺自身も、難民キャンプで育った。そこでは「記録」だけが生死を分けた。「在留許可証」「配給カード」「身分証明書」。紙一枚がないだけで、人間は透明人間になる。


ニホン人も同じだ。彼らは一度、国を失った。あの忌まわしい本土決戦と、その後の内戦と分割統治。彼らは家族を選別され、故郷を追われ、生き残った者だけで新しい国を作った。


だが、その過程でこぼれ落ちたもの——死んだことにされた者、行方不明者、捨てられた者——は、NEXISという綺麗なシステムの底に沈殿している。 だから、俺の目には見えるんだよ。この繁栄したハイテク国家の足元に埋まっている、無数の「選ばれなかった人々」の骨がね。


鎮魂歌としての『お富さん』

(ルカは、デスクの脇にある古いレコードプレイヤー—真空管アンプを備えた骨董品だ—に針を落とす。パチパチというスクラッチノイズの向こうから、軽快だがどこか哀愁を帯びた手拍子と、古いニホン語の歌が流れてくる)


『粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の洗い髪 死んだ筈だよ お富さん』

(春日八郎『お富さん』・1954年)


この曲を知っているか? そう、『お富さん』だ。 台湾のカラオケでもお年寄りがよく歌ってるって? 奇遇だな。 いや、奇遇じゃない。これは必然だ。


1954年に発売された春日八郎のヒット曲。歌詞の内容は、歌舞伎の『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』を題材にしている。ヤクザの親分が、死んだと思っていた昔の愛人(お富)と数年ぶりに再会する話だ。


『死んだはずだよ お富さん』

『生きていたとは お釈迦様でも 知らぬ仏の お富さん』


このフレーズが、当時のニホンでなぜ爆発的に流行ったか分かるか? 単なるラブロマンスや、軽快なブギウギのリズムが受けたからじゃない。 当時のニホン人の誰もが、胸の中に「死んだはずの誰か」を抱えていたからだ。


満州で、シベリアで、あるいは南洋のジャングルで。 ソ連軍の侵攻から逃げる途中、はぐれてしまった子供。本土決戦の炎の中で手を離してしまった妻。引き揚げ船に乗せられず、桟橋に残してきた弟。


彼らは「死んだ」と確認されたわけじゃない。ただ「いなくなった」だけだ。 だが、残された人々が生きていくためには、彼らを「死んだ」ことにしておかなければならなかった。死亡届を出さなければ配給はもらえない。遺族年金も出ない。再婚もできない。


だから彼らは、役所に嘘をつき、自分にも嘘をついて、愛する人を戸籍の上で殺したんだ。 でも、心のどこかで願っていたんだ。


『もしかしたら、どこかで生きているんじゃないか? ある日ひょっこり、玄関の戸を叩いて、「ただいま」って言うんじゃないか?』


この歌は、そんなニホン人にとっての鎮魂歌(レクイエム)であり、残酷な希望の歌なんだ。 「死んだはずだよ」と口ずさむことで、彼らは自分の罪悪感を慰め、同時に微かな奇跡を夢見た。


そして俺のところに来る依頼人の多くは、この歌の呪いに、70年以上経った今もかかっている。彼らの枕元には、毎晩「死んだはず」の家族が立つんだよ。 『なんで私を置いていったの?』ってね。


(ルカは一冊の分厚いファイルを取り出す。表紙は湿気で波打ち、茶色く変色している。そこには軍政庁のスタンプと、『1947・佐世保帰還者選別記録』という文字が押されている。彼はページをめくる際、まるで爆発物を扱うように慎重だ)


先月、一人の老婦人がここに来た。 名前はタナカ・ヨシコさん。86歳。上品な旧本土系の女性だ。今はニホ区の高級老人ホームに住んでいるが、その手には、苦労して働いてきた人間の節があった。


彼女の依頼は、「弟の最期を確認してほしい」というものだった。 話を聞くと、1947年の冬、彼女の一家は満州から引き揚げてきた。当時の状況は、君も歴史の授業で習っただろう? 地獄だ。


ソ連軍の追撃、飢え、寒さ、疫病。彼女の一家は命からがら本土行きの船に乗ったが、燃料不足でナガスポ(旧長崎県)に寄港した。 そこで待っていたのは、軍政庁の検疫官とMPによる「選別(トリアージ)」だった。


当時のニホンは、本土決戦で主要都市が壊滅し、食料生産能力もゼロに等しかった。軍政庁の論理は冷徹だった。 「全員は救えない。労働力になる者、健康な者、生殖能力のある若者だけを上陸させる。それ以外は切り捨てる」


当時10歳だった弟のケンジは、船内でチフスにかかっていた。高熱で意識が朦朧としていたらしい。 検疫官は冷淡に告げた。


『姉(ヨシコ)は合格。弟(ケンジ)は不合格。隔離船へ回せ』


母親は泣き叫んで抵抗したそうだ。「私が代わりに隔離船に行きます」「あの子一人じゃ死んでしまう」と。 だが、MPは母親を銃床で殴りつけ、ヨシコさんと母親を無理やり上陸用舟艇に乗せた。


ヨシコさんは、桟橋から遠ざかる小船の上で、弟が毛布にくるまって震えているのを見たのが最後だった。彼が手を振ったのか、それともただ苦しんで動いただけなのか、今でも分からないと言っていた。


公式記録——後日発行された死亡証明書——では、弟は「隔離キャンプにて病死。遺体は防疫のため火葬・水葬」となっていた。 だが、彼女はずっと引っかかっていた。


「あの子は、本当に死んだのでしょうか? 骨も戻ってこず、遺品一つない。ただ紙切れ一枚で『死にました』と言われても……私は、あの子を見殺しにした夢を毎晩見るんです」


俺は調査を開始した。NEXISには当然、ケンジの記録はない。死亡届が受理された時点で、彼のデータはアーカイブの彼方へ消えている。 だから俺は、この地下室に潜った。


マスクと手袋をして、当時の軍政庁衛生局が残した、膨大な手書きのリストを洗った。死亡者リスト、火葬許可証、隔離病棟の日誌、そしてMPの警備記録。 埃で肺が詰まりそうになる作業だ。文字は乱れ、インクは滲み、ページによっては血痕や嘔吐物の染みが残っている。当時の混乱と絶望が、物理的な汚濁として残っているんだ。


一週間後、俺は「あるパターン」を見つけた。 死亡者リストと、火葬実施数の間に、統計的なズレがある。 特に「10代前半の子供」と「軽度の伝染病患者」の数が合わない。死んだことになっている数より、焼かれた数が少ないんだ。


俺はさらに深掘りした。「移送命令書」という未分類の箱を見つけた。 そこには、表向きは「病死」として処理した子供たちの一部を、別の場所へ送っていた記録があった。


あんたの故郷、台湾だよ。


(ルカは壁に貼られた古地図を指差す。台湾と、ニホン南部の航路が赤い線で結ばれている。私の心臓が早鐘を打つ。そのルートは、私の祖父母が通った道だ。そして今、逆方向から私が辿ってきた道でもある)


記録の裏に、小さなスタンプを見つけた。 『TM-TRTIS(マニラ覚書)準拠 / TPA(Taiwan Provincial Administration)受入』。


口減らしのために殺処分? いや、もっと大規模な国家プロジェクトだ。 当時のIAG(軍政庁)は、ニホン本土で支えきれない人口を、機能を維持していた旧植民地政府へ託す決断をしたんだ。 「TM-TRTIS(マニラ覚書)」に基づく、台湾への緊急移送だ。


君は台湾人だから知ってるだろうが、1947年当時、台湾はまだちゃんとした独立国ではなかった。 連合国軍の監督下で旧総督府が改組された「台湾暫定行政庁(TPA)」が統治していた。 そこは、本土機能を喪失した日本人のための、最後の「広域自治政府」であり、シェルターだったんだ。


大陸からの撤退戦は、悲惨なんて言葉では生ぬるい状況だった。ソ連軍の戦車と、長年の恨みを晴らそうとする現地の暴徒たち。満州や北支の日本人居留民にとって、帰路は文字通りの地獄だった。 生き残った数百万人が港に殺到したが、肝心の本土(ニホン)側には、彼らを受け入れる能力なんて残っていなかった。本土決戦と生物兵器汚染で、国土は焦土と化し、食料生産はゼロ。受け入れれば共倒れだ。


だが同時に、軍政庁は焦っていた。 本土決戦であまりにも多くの日本人が死にすぎたからだ。 『このままでは、日本人という民族自体が消滅しかねない』 そういうレベルの人口危機だった。 だから彼らは、生き残った『種』を保護するために、まだ統治機構と農地が温存されていた台湾へ送ることを決めたんだ。


マニラで締結されたこの覚書に基づき、大陸の殺戮を生き延びてきた孤児、病人、そして国家再建に必要な技術者や官僚たちが、台湾へ緊急輸送された。 世に言う「民族大移動」だ。


タナカ・ケンジの名前は、台湾行きの輸送船『第三有明丸』の名簿にあった。 「隔離キャンプにて病死」の日付の翌日、彼はこの船に乗せられていた。 彼は死んでいなかった。 チフスから奇跡的に回復した後、あるいは最初から誤診だったのかもしれないが、身寄りのない子供として、TPAが管理する台湾の収容施設へ送られていたのだ。


俺はヨシコさんに報告した。彼女は震える手で名簿を触り、泣き崩れたよ。 『あの子は、生きていたのね……寒い海に捨てられたんじゃなかったのね。暖かい南の島で、生きていたのね』


だが、これで終わりじゃない。 「でも、70年以上前の話だろ? 今さら追跡できるのか?」 君はそう思うだろう。俺も最初はそう思った。台湾海峡の動乱、そしてニホンとの関係の変化。追跡の手がかりは途絶えているように見えた。


だが君なら分かるだろう? 台湾はニホンとは違う。あそこは…… ニホン人が過去を水に流して効率化するのに対し、台湾人は過去を石に刻み、サーバーに「デジタルバックアップ」して保存する。 それに、あそこの公用語は何だ? 「台湾語」と「旧日本語(Kyū-Nihongo)」だ。 ニホン人が古臭いと捨ててしまった大正・昭和の言葉を、あちらでは法律と技術を記述する言語として、今でも公式に使っている。


俺は台湾の興信所を使って、現地の戸籍と、900万人もいるという君と同じ「ニッケイ」の名簿を洗ってもらった。


見つかったよ。基隆(キールン)港の近くの商店街。 『タナカ・ケンジ(田中健治)』という老人が、今もその名前で生きていた。 彼は名前を変えていなかった。 隠れる必要なんてない。あそこではニッケイは「外来者」ではなく、共に国を作った仲間として胸を張って生きているからな。


報告書によると、彼は現地のコミュニティの好好爺として尊敬を集めているそうだ。 子供たちに飴を配り、喧嘩の仲裁をし、そして流暢な台湾語と、日本語を使い分けている。 彼は言葉を忘れていなかったんじゃない。 この70年間、誇りを持って使い続けていたんだ。


(ルカはPCのモニターを指差す。そこには、ビデオ通話のログが残っている。日付は一週間前だ)


先週、ヨシコさんと、台湾のケンジさんを繋いだ。 俺が仲介して、ここの特別回線を使ってビデオ通話を設定したんだ。 ヨシコさんは正装して、画面の前に座った。 見事な着物だったよ。引き揚げの時になんとか持ち帰った母親の物だと言っていたな。そして髪を完璧にセットして。 彼女にとって、これは弟との再会であると同時に、自分の人生の「禊(みそぎ)」だったんだろう。


画面の向こうには、日焼けした肌の、眼光の鋭い、しかし柔和な笑顔の老人がいた。 背景には高雄の強い日差しと、店の売り物であるカラスミや干し椎茸が見えた。 彼はニホン人特有の猫背ではなく、台湾のニッケイ老人特有の、背筋の伸びた、堂々とした姿勢で座っていた。


最初は、気まずい沈黙が流れた。 70年という時間は、姉弟を他人にするには十分すぎる長さだ。 画面越しの立派な老人。それが、あのひ弱だった弟だとは信じられなかったのかもしれない。 ヨシコさんが、震える声で呼びかけた。


『……ケンちゃん?』


すると、画面の向こうの老人の目が、大きく見開かれた。 彼はゆっくりと口を開き、そして答えた。 日本語で。 台湾訛りでも、現代のニホンの崩れた言葉でもない。 70年前に時が止まったような、古風で、丁寧で、美しい日本語でだ。


『……姉さんで、ございますか?』


ヨシコさんは息を呑んだ。 そのイントネーションは、彼らが別れた1947年の冬、ナガスポの桟橋で聞いた言葉そのものだったからだ。 『ああ、ケンちゃん……言葉、わかるの? 日本語、忘れてないの?』


ケンジさんは、好好爺らしい穏やかな笑みを浮かべて頷いた。 『忘れるものですか。台湾(こちら)では、日本語は大切な言葉です。毎日使っております。 それに……姉さんと母さんに、いつか会えたら、恥ずかしくない言葉でお話ししたいと、ずっと思っておりました』


俺は横で見ていて、鳥肌が立ったよ。 彼は台湾の地域社会のボスとして、あのハイテク国家の繁栄を支える市民として生きながら、魂の核の部分に「タナカ・ケンジ」を保存していたんだ。 台湾という国が、旧来の日本文化や言語を「正統な遺産」として守り続けてきたことが、この奇跡を生んだんだ。


その時、ヨシコさんが、涙を流しながら、ふと口ずさんだんだ。あの歌を。 意識して歌ったんじゃない。感情が溢れて、祈りのように漏れたんだ。


♪死んだはずだよ お富さん……


すると、ケンジさんも歌った。 朗々とした、よく通る声で。


♪生きていたとは お釈迦様でも 知らぬ仏の お富さん……


歌詞は完璧だった。 台湾の地で、サトウキビ畑で、他の捨てられた子供たちと一緒に、寂しさと恐怖を紛らわせるために歌っていた記憶を。 そして、海峡を越えてラジオから流れてくる春日八郎の声を聴きながら、「自分は死んでいない、生きている」と鼓舞し続けた記憶を。


二人は画面越しに、一緒に歌い、そして泣いた。 言葉はいらなかった。 「お富さん」という、ニホンの棄民たちが共有するコード(言語)が、70年の断絶を一瞬で繋いだのだ。


歌い終わった後、ケンジさんは言った。 『姉さん。私はニホンを恨んでおりません。 台湾(こちら)の人たちは優しかった。ニッケイも台湾人も、みんなで助け合って国を作りました。 ……私は、幸せでございましたよ』


ヨシコさんは何度も頷いて、画面に手を押し当てて、『よかった、よかった』と繰り返していた。 謝罪でもなく、後悔でもなく、ただ弟が「幸せだった」と言ってくれたこと。 それが、彼女の70年間の悪夢を終わらせたんだ。


二人は再会を約束した。 来月、ヨシコさんが台湾へ行くことになっている。 ……まあ、ヨシコさんの心臓の状態と年齢を考えると、これが最初で最期の再会になるかもしれない。移動のリスクは高い。 それでも、彼女は行くと言うだろう。 「弟が生きていた」という事実を目で見て、その手で触れるまでは、死んでも死にきれないだろうからな。


(ルカは冷めたコーヒーを飲み干し、苦い顔をする。カップの底に残った粉が泥のように見える)


この仕事をしていると、つくづく思うよ。 ニホンという国は、摩天楼や、NEXISの完璧なデータでできているんじゃない。 こういう「継ぎ接ぎの傷跡」でできているんだって。


俺の両親もそうだった。故郷を追われ、言葉も通じないこの極東の島国に流れ着いた。 ニホン人は、過去を忘れるのが上手だ。 「水に流す」という便利な言葉があるからな。 軍政庁時代の混乱も、棄民の歴史も、まるで無かったことのようにして、綺麗な「多民族共生国家」の看板を掲げている。 教科書には「戦後の混乱」としか書かれていない一行の裏に、何万ものタナカ・ケンジがいる。


だが、水に流しても、沈殿物は底に残る。 タナカ・ケンジのような「沈殿物」が、海の向こうの台湾で、あるいはスラムの片隅で、じっと息を潜めている。 彼らは幽霊のように、この国の影に立ち続けている。


『お富さん』の歌詞には続きがあるのを知っているか?


♪過ぎた昔は 水に流して……


よくできた歌詞だ。 ニホン人は、死んだはずの人間が生きて帰ってきた時、喜びよりも先に「困惑」する。 『今さら帰ってこられても、戸籍がない』『相続が面倒だ』『今の生活が壊れる』ってね。 だから、歌の中だけでも「水に流して、仲良くしましょう」と自分に言い聞かせているのさ。


ヨシコさんのような人は稀だ。多くの人は、幽霊が幽霊のままでいることを望んでいる。


持ち主の分からない傘や、片方だけの手袋が、山のように積まれている場所。 誰も取りに来ない。でも、捨てられない。 NEXISという管理システムは、その山にタグを付けて、整理整頓した気になっているだけだ。 中身を見ようともせずにね。


でもな、時々、ヨシコさんのように「落とし物」を探しに来る人がいる。 泥だらけになって、埃まみれの山の中から、たった一つの真実を見つけ出して、手渡してやる。 その時、遺失物は「ゴミ」から「宝物」に戻るんだ。 俺が見たいのはその瞬間だけだ。


俺はこの国を愛してはいない。 だが、この仕事は嫌いじゃないよ。 死んだはずの人間が、戸籍(データ)の上じゃなく、記憶の中で生き返る瞬間を見られるからな。 それは、どんな映画よりもドラマチックで、どんな宗教よりも救いがある。


(ルカは、レコードプレイヤーの針を上げた。音楽が止まり、また空調の低い唸り音だけが残った。部屋の空気が、少しだけ軽く感じられた)


さて、休憩は終わりだ。君も記事の締め切りがあるんだろう? ……ああ、そうだ。もし台湾に行くことがあったら、タナカ・ケンジさんによろしく伝えてくれ。


『ニホンは相変わらず湿っぽい国だが、アンタの姉さんは元気だ』ってな。 それと、もし彼がまだあの歌を歌っていたら、こう伝えてくれ。 『アンタは死んだはずの幽霊じゃない。しぶとく生きた人間だ』と。



(※1) 軍政庁(IAG) 1947年から1967年にかけて、再独立までニホンを統治した政府。連合国軍の下部組織として機能したが、実際には食糧難と疫病対策に追われ、強権的な人口管理政策を行った。その最たるものが「マニラ覚書(TM-TRTIS)」に基づく台湾への大規模移送であり、これは戦後ニホンの人口問題を解決するための国策として行われたが、その事実は長らくタブー視されていた。


(※2) TPA(Taiwan Provisional Administration / 台湾暫定行政庁) 戦後、台湾総督府が改組されて成立した統治機構。ニホン本土の機能不全に伴い、「日本人のための広域自治政府」としての性格を強めた。後に現地台湾人エリートとの「社会契約」を経て、現在の台湾の基盤となった。ここではニホン本土とは違い、旧日本語が行政言語として維持されている。


(※3) お富さん(Otomi-san) 1954年に発売された春日八郎のヒット曲。海峡で分断された「ニホンのニッケイ人」と「台湾のニッケイ人」を繋ぐ唯一の文化的な絆(アンセム)として機能した。台湾向けの放送でこの曲が流れると、多くのニッケイがラジオの前で涙したという。


(※4) NEXIS(Nihon EXpansion & Integration System) ニホンの国家運営を支える基幹システム。1967年に稼働を開始した。それ以前の記録はアナログ媒体のまま放置されているケースが多く、ルカのような民間業者が手作業で照合を行っている。NEXISにとって「存在しない」とされる人々も、地下倉庫の紙束の中には確かに生きている。


プロフィール ナガセ・メイ (Mei Nagase) 台湾・高雄出身。国立成功大学社会科学部卒。日台言語・文化財保存協定(KIOKU)のアーカイブ調査員を経て、『Common Tide』編集デスク兼ライターに。ニッケイ3世の視点から、港湾都市の「隙間」にある生活と食文化を記録する。オールド・ヒロ在住。週3で屋台に通うハオシャオ愛好家。

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