第8話「過去の亡霊と現在の矜持」

「……馬鹿な」


 ギデオンの口から、絞り出すような声が漏れた。

 目の前の冴えない洗濯屋が、かつて自分たちが嘲笑の対象にした「銀閃」のアルクその人であり、そして今、王都を救う唯一の希望かもしれないという事実。

 彼のプライドが、その現実を受け入れることを拒んでいた。


 しばらくの沈黙の後、ギデオンは魔術師団の長としての仮面をかぶり直し、傲岸な態度でアルクに言い放った。


「アルク・レンフィールド。国王陛下の名において、貴様に協力を命じる。直ちに我々と共に王都へ戻り、聖布の呪いを解け。これは、お前が犯した過ちの、償いをする唯一の機会だ。光栄に思うがいい」


 その言葉は、アルクの心の最も柔らかな部分を、無遠慮に踏みにじるものだった。

 償い? 光栄? 散々罵倒し、追放した相手にかける言葉がそれなのか。彼の神経を逆撫でするには、十分すぎるほど高圧的な物言いだった。


 アルクの表情から、すっと感情が消えた。彼は静かに、しかしきっぱりとした口調で答えた。


「断る」


 その短い一言に、ギデオンだけでなく、後ろに控えていた魔術師たちも息を呑んだ。

 まさか、拒絶されるとは微塵も思っていなかったのだ。


「な……何を言っている! これは王命だぞ! 貴様、逆らう気か!」


 ギデオンが激昂する。だが、アルクは少しも動じなかった。

 彼はただ、静かな瞳でかつての同僚を見据える。


「俺はもう、宮廷魔術師じゃない。あんたたちがそう望んだんだろう? 俺はただの洗濯屋だ。ひまわり洗濯店の、アルクだ。国の危機も、王女殿下の病も、俺には関係ない」


 彼の言葉は、冷たく、硬かった。それは、五年という歳月をかけて彼の心に築かれた、分厚い壁だった。

 過去の裏切りと屈辱が、彼の心を頑なにした。国がどうなろうと、自分を嘲笑い、見捨てた者たちを助ける義理など、どこにもない。


「貴様……! 自分の失敗が原因だというのに、責任を取る気もないのか!」


「責任? 俺は、あんたたちに追放された時点で、その責任とやらを全て取ったつもりだがな。魔術師としての地位も、名誉も、誇りも、全て失った。これ以上、何を差し出せと言うんだ」


 アルクの反論に、ギデオンはぐっと言葉を詰まらせる。

 正論だった。彼らはアルクから全てを奪い、それでこの件は終わったはずなのだ。今になって、彼に責任を押し付けるのは、あまりにも虫が良すぎる話だった。


「だが、人々が苦しんでいるのだぞ! 罪のない民が、次々と命を落としている! それを見過ごすというのか!」


 一人の若い魔術師が、悲痛な声で訴えかける。

 その言葉に、アルクの心がわずかに揺れた。罪のない人々。ソレイユの丘で暮らす、ヒマリや、農夫や、猟師たちの顔が思い浮かぶ。彼らのような普通の人々が、王都で苦しんでいる。


 だが、その揺らぎを、過去の記憶がすぐに打ち消した。

 儀式が失敗したあの日、王都の民衆もまた、彼に石を投げたではないか。「不吉の魔術師」「国の恥晒し」。手のひらを返したように、彼を罵った。

 彼らもまた、自分を見捨てた者たちだ。


『今さら、助ける義理など……』


 アルクは固く唇を結び、顔を伏せた。これ以上、彼らと話すことはない。

 彼は背を向け、店の中に戻ろうとした。


「待て、アルク!」


 ギデオンが焦ったように呼び止めるが、アルクは足を止めない。

 使節団の顔に、絶望の色が濃くなっていく。このまま、王都は見捨てられるのか。自分たちが犯した過去の過ちによって。


 彼らが失意のうちに、馬上の人となろうとした、その時だった。


「待ってください!」


 凛とした、少女の声が響いた。


 振り返ると、そこに立っていたのはヒマリだった。

 いつの間に来ていたのか、彼女は心配そうな顔でアルクとギデオンたちを交互に見ている。その手には、アルクに差し入れようとしていたのだろう、水差しが握られていた。


 ギデオンは、突然現れた村娘を訝しげに見る。

 だが、ヒマリは彼の視線に臆することなく、まっすぐにアルクの元へと歩み寄った。そして、彼の前に立つと、真剣な瞳でアルクを見上げた。


 彼女の存在が、この膠着した空気を変えようとしていた。

 アルクの頑なな心を溶かす、唯一の可能性。

 ひまわりのように、真っ直ぐな光が、彼の前に差し込もうとしていた。

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