「洗い場のシミ落とし」と追放された元宮廷魔術師。辺境で洗濯屋を開いたら、聖なる浄化の力に目覚め、呪いも穢れも洗い流して成り上がる
藤宮かすみ
第1話「ひまわり畑と洗い場のシミ」
風が丘を渡るたび、黄金色の海がさざ波を立てる。
見渡す限りのひまわり畑。太陽を追いかけて咲き誇る無数の花々は、この村の名の由来そのものだった。
ソレイユの丘。王都の喧騒から遠く離れたこの場所が、アルク・レンフィールドの現在の住処であり、仕事場だ。
店の軒先に揺れる「ひまわり洗濯店」の看板は、彼が自ら彫ったものだ。三十代半ばの男が、無骨な指で彫ったにしては、どこか優しい丸みを帯びた文字だった。
彼は店の前の簡素な椅子に腰かけ、ただ黙ってひまわりが揺れるのを眺めていた。それが彼の数少ない慰めであると同時に、胸を締め付ける苦い記憶を呼び覚ます光景でもあった。
『太陽のように、顔を上げて』
そう励ましてくれた師の言葉を思い出す。だが、今の自分にその資格はない。
彼は自嘲気味に息を吐き、視線を足元に落とした。そこには、染み付いた恥と後悔が、影のようにまとわりついている。
五年という月日は、輝かしい過去を色褪せさせるには十分すぎる時間だった。
かつて彼は、王都の宮廷魔術師団にその名を轟かせたエリートだった。「銀閃」のアルク。その二つ名は、彼が放つ魔術の軌跡が、夜空を切り裂く銀色の閃光のようだったことに由来する。
誰もが彼の将来を疑わず、彼自身もまた、その輝かしい道をまっすぐに進むのだと信じていた。
あの日までは。
国家の安寧を祈る、百年で最も重要な儀式「聖別の大祈祷」。その大役を任された彼は、民衆と王侯貴族が見守る荘厳な祭壇の上で、致命的な失敗を犯した。
彼の指先から放たれるはずだった祝福の魔力は、ほんのわずかな心の揺らぎによって制御を失い、祭壇に捧げられた純白の聖布に、醜い黒いシミとなって付着した。
儀式は穢され、中断された。聖なる布に刻まれた黒いシミは、国中に広まる不吉の象徴となった。
魔力の大部分を暴走と共に失い、魔術師としての生命を絶たれた彼は、同僚たちから蔑みの視線を向けられた。
「聖布を汚した者」「洗い場のシミ落とし」。
そんな嘲笑と共に、彼は事実上追放され、この辺境の村へと流れ着いた。
以来、彼は人と深く関わることをやめた。心の奥底にしまい込んだ恥辱は、時折こうして彼の胸を抉る。
ただ黙々と、依頼された洗濯物を洗う。それが彼にできる、唯一のことだった。
不思議なことに、彼が洗った洗濯物は、どんな頑固な汚れも落ち、まるで新品のような白さと心地よい肌触りになると、村では密かな評判だった。だが、アルク自身はその力の正体を知らない。失われたはずの魔力が、汚れや染みを根源から「浄化」する力へと変質したことなど、彼自身が一番信じられなかった。
だから彼は、その評判にもどこか居心地の悪さを感じ、ただ黙って仕事をこなすだけだった。
「こんにちは」
不意にかけられたか細い声に、アルクはゆっくりと顔を上げた。
店の前に、一人の少女が立っていた。亜麻色の髪を揺らし、少し大きめのワンピースを着た、まだ十代半ばといったところだろうか。俯きがちなその顔は、長い前髪に隠れてよく見えない。
「……依頼か」
アルクは短く尋ねる。少女はこくりとうなずき、おずおずと一歩前に進み、腕に抱えていたものを差し出した。
白いブラウスだったが、その胸元には、まるで泥水でも跳ねたかのような黒ずんだ汚れが広がっていた。
「これ……お願いします」
少女の声は、まるで消え入りそうだ。
アルクは無言で立ち上がり、そのブラウスを受け取る。指先が触れた瞬間、少女はびくりと体を震わせ、弾かれたように後ずさった。
そして、何も言わずにくるりと背を向けると、逃げるように走り去ってしまった。
『何なんだ……』
後に残されたアルクは、手の中のブラウスに視線を落とす。ごく普通の、安価な生地のブラウスだ。
だが、胸元の汚れはどこか奇妙だった。単なる泥汚れではない。どす黒く、まるで生き物のように淀んだ気配を放っている。
その気配に、アルクの心臓がどくりと跳ねた。既視感があった。
それは、五年前、彼の人生を狂わせた、あの聖布のシミに酷似していた。
冷たい汗が背筋を伝う。胸の奥が、ずきりと痛んだ。
彼は深呼吸をして、その不快な感情を押し殺す。仕事は仕事だ。
店の裏手にある作業場へ向かうと、そこには大きな木製の洗い桶と、使い込まれた洗濯板が置かれている。蛇口から流れ出る清水が、桶の中で涼しげな音を立てた。
アルクはブラウスを冷たい水に浸す。いつも通り、無心で洗おうとした。
だが、あの黒い淀みが頭から離れない。自らの失敗の象徴が、今、この手の中にあるような錯覚に陥る。
『洗い流さなければ』
その想いが強まった瞬間、彼の掌から、ふわりと淡い光が溢れ出した。アルク自身も気づかないほどの、ごく微かな光。
だが、その光が水に溶け込むと、ブラウスに染み付いていた黒い淀みが、まるで朝霧が晴れるかのように、すうっと消えていく。
アルクは、ただ夢中で手を動かし続けた。光のことは意識にのぼらない。ただ、この不快な汚れを消し去りたい一心だった。
やがて、ブラウスは元の清らかな白さを取り戻していた。いや、それ以上だ。まるで祝福でも受けたかのように、清浄な気配をまとっている。
洗い終えたブラウスを固く絞り、物干し竿にかける。夏の強い日差しが、濡れた生地を優しく照らし出した。
風に揺れる真っ白なブラウスを眺めながら、アルクは知らず知らずのうちに、安堵のため息を漏らしていた。
あの少女は、なぜあんなものを。そして、なぜあんなに怯えていたのか。
彼の心に浮かんだ疑問は、しかし、ひまわり畑を渡る風にかき消されていった。彼は再び店の前の椅子に戻り、静かに目を閉じる。
洗い流せない過去のシミが、まだ胸の奥で疼いていた。
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