水の記憶と条例の街

共創民主の会

第1話 公人の手に、紅葉のしおり

 ——十月十五日、朝七時半、執務室の窓を開けると、鳥海山が初雪をいただいていた。日本海からの冷たい風が、市役所のコンクリートを撫でてゆく。私は息を白くし、机の上の議案ファイルに向き直った。表紙にはこう記されている――「鳥海市水循環保全条例に基づく採石規制案・緊急対策会議」。


 午前九時、会議室。水循環保全審議会の報告は、私の予想を超える重さだった。

「……以上の試算により、A社が申請する三十メートル掘削は、地盤沈下だけでなく、鳥海山麓の湧水脈を完全に断つ可能性が高いと結付けました」

 専門委員の声は静かだったが、それはまるで落とし穴の蓋を外すような響きを伴っていた。スクリーンに映る数値は冷たく、私の目を射る。A社の雇用は百二十名。年間の市税納付額は三億八千万。一方で、山麓に住む三百四十世帯の水源は、百二十年もの間、湧水に依存してきた。

「市長、決断を」

 総務部長が私を見据える。私は背筋を伸ばし、口を開いた。

「……本日をもちまして、A社の採石計画を凍結し、条例第八条に基づき再審査を命じます」

 ざわめきが一瞬湧いたが、すぐに収まった。私は「公人」の顔を外さない。しかし、ズボンのポケットの中では、孫の結衣が先週くれた紅葉のしおりが、汗で湿っていた。


 午後一時、副市長室。石黒正道は、いつもより眉間のしわが深い。

「経済団体連合から、もう三回電話が入った。雇用の減少を危惧して、来週には署名集会を起こすそうだ」

「署名には応じる。だが、撤回はできない」

 石黒はため息をつく。

「市長は、いつも先を読んでいる。だが、俺は板挟みだ。町工場の社長に『子どもの飯の種が奪われる』と詰め寄られた」

 私は窓の外を見る。日本海側の工場地帯から立ち昇る白い煙。それは暮らしの息吹でもあり、同時に私が制御できない時代の奔流でもある。

「今夜、市民説明会の会場は?」

「公民館だが、収容は二百人。予想では三倍は来る」

「……開放して、体育館に変えよう」

 石黒は小さく頷いた。私は補佐役の肩を軽く叩く。彼が背負う「人情」の重さは、私の「正義」と秤にかけられることなどない。それでも、私は叩かなければならなかった。


 夕方五時、鳥海山麓・桝沢集会所。公民館より小さな木造の建て物だが、梁の黒光りが長い時間を物語っている。本田義郎会長は、竹の杖をつきながら私を出迎えた。

「市長、よう来てくれた」

 畳の間に集まった住民は三十人ほど。だが、彼らの沈黙は百万人の叫びより重い。円座の中央に、古いビンが置かれていた。中には透明な水が満ち、底に小さな紅葉が一枚。

「これは、今朝、湧水から汲んできたもんだ。市長、飲んでみてくれ」

 私はビンを手に取る。冷たい。それは地底百二十年の時間を含んでいる。喉を通る瞬間、私は子どもだったころ、父に連れられてこの集落を訪れた日を思い出す。川で捕ったアユを焼き、湧水で冷やした酒を大人たちが口にした。同じ水だ。

「……うまい水だ」

 本田会長は、ゆっくりと頷いた。

「この水が枯れたら、俺たちの『なまり』は消える。市長、『なまり』を知っとるか?」

 私は答えに窮す。会長は続ける。

「『なまり』とは、祖先がこの土地で生きてきた証しだ。水が枯れたら、墓石も、酒も、子守唄も、全部カラッ風になる」

 私は畳に手をつく。頭を下げることなど、市長として何度もある。だが、今度は違う。私は「個人」として、水の記憶に頭を下げた。

「……必ず守る」

 その言葉は、政策ではなく、男同士の約束に近かった。


 夜九時、自宅の書斎。蛍光灯の下、私は2016年の判決書を開く。鳥海山を守る住民団体が国を相手取って起こした訴訟――私は当時、副市長として法廷の最後列で聞いていた。結論は「住民側敗訴」。理由は「採石事業は公共性が高く、経済的利益が水環境の悪影響を上回る」とのこと。判事の言葉は、まるで鈍い斧のように私の胸に突き刺さった。

 ファイルの間から、一枚の写真が零れる。孫の結衣が、湧水で遊ぶ私の家の庭。紅葉に覆われた小さな水路に、紙船を浮かべている。私は写真を胸ポケットに戻す。そして、今朝本田会長から受け取った小瓶を、判決書の上に置いた。水滴が、墨文字を滲ませる。だが、それでも水は透明だ。

 私はペンを手に取る。明朝、議会に提出する「鳥海市水循環保全条例の更なる強化案」の最終原案。数字はもう読まない。私は小瓶を握りしめた。冷たさが、掌の骨まで響く。市政は、数字の積み重ねではない。誰かの未来への、静かな約束だ。

 机の上の時計が、零時を回った。鳥海山は、雪をいただいたまま、街灯の向こうに沈黙している。私は窓を閉め、灯りを消す。そして、小瓶をポケットに入れたまま、書斎を後にした。明日、市民説明会。そして再来週、議会。私は「公人」として、また「個人」として、水の記憶を背負って歩く。紅葉は朽ちても、水は巡る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る