第2話「雪解けの距離」

「こんばんは」


 静寂を破ったのは、鈴を転がすような澄んだ声だった。振り返った先に立っていたのは、ずっと待ち焦がれていた彼女――小鳥遊雫だった。俺、冬月湊は高鳴る鼓動を懸命に抑え、できる限り穏やかな表情を作った。


 十五年。毎年この日、この場所で、ただ一人彼女を待ち続けた。七歳の時に事故に遭い、記憶を失ってしまったと人づてに聞いたのは、約束を交わした翌年のことだった。それでも俺は信じていた。いつか彼女が、この場所を思い出してくれることを。


 だからここ数年、彼女がこの教会の前に姿を現すようになった時、奇跡が起きたのだと思った。けれど彼女は俺に気づくことなく、すぐに踵を返してしまう。その背中を見送るたび、胸が張り裂けそうになるのを堪えてきた。


 そんな彼女が、今、目の前にいる。勇気を振り絞って、俺に声をかけてくれた。


「毎年、いらっしゃいますよね」


 彼女の言葉に、どれだけ心が震えただろう。ああ、彼女も俺の存在に気づいてくれていたのだ。それだけで、十五年という途方もない時間が報われた気がした。


「思い入れ、というよりは……約束、かな」


 本当は、君との約束なんだよ。そう喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。彼女の瞳は俺を映しながらも、そこには見知らぬ他人を見る色が浮かんでいた。やはり、覚えていないのだ。


 切なさが胸を締め付ける。けれど同時に、安堵している自分もいた。もし彼女が約束を覚えていて、それを重荷に感じていたら? 俺が待ち続けていることが、彼女を苦しめることになったら? それだけは避けたかった。


「冬月……湊さん」


 彼女が俺の名前を口にする。それだけで、世界が祝福の光に満たされるような心地がした。忘れていてもいい。思い出せなくてもいい。もう一度、ゼロから始められるのなら。


 だから、彼女からお茶に誘われた時、俺は神に感謝した。


「はい、ぜひ。俺も、あなたともっと話してみたいと思っていました」


 これは嘘じゃない。ずっと、ずっと君と話したかった。


 約束の週末、俺たちは駅前のカフェで会った。窓の外では粉雪が舞っている。緊張した面持ちでメニューを眺める彼女の横顔を、盗み見る。昔の面影は確かにあるが、すっかり綺麗な大人の女性になっていた。


「湊さんは、お仕事何をされているんですか」


「建築家をしています。主に公共施設や住宅の設計を」


「わあ、すごいですね。私、そういうの全然詳しくなくて……」


 恐縮したように笑う彼女に、「雫さんは、お花の仕事なんですよね」と尋ねる。すると、彼女の表情がぱっと明るくなった。


「はい! 小さい頃から、お花が大好きで」


『それ、知ってるよ』


 心の中で呟く。幼い頃、彼女はいつもシロツメクサで花冠を作っては、俺の頭に乗せてくれた。その時の太陽みたいな笑顔は、今も鮮明に覚えている。


「素敵ですね。花は、人の心を癒してくれます」


「湊さんも、お花好きなんですか?」


「ええ。特に……霞草が好きです」


 その瞬間、雫さんの動きがぴたりと止まった。彼女の瞳が揺れている。


「霞草……」


「どうかしましたか?」


「いえ……なんだか、とても懐かしい響きで。どうしてでしょう……」


 戸惑う彼女に、俺はそれ以上何も言えなかった。霞草は、彼女が昔一番好きだと言っていた花だ。「主役にはなれないけど、どんな花も引き立ててくれるでしょう? 優しいところが好き」そう言って笑っていた。


 俺は、この十五年間、真実を告げるべきかずっと悩んできた。記憶を失った彼女に過去を押し付けるのは、果たして正しいことなのか。俺のエゴではないのか。


 けれど今、こうして彼女と話していると確信する。俺は今の彼女に恋をしているのだと。過去の思い出の中の少女ではなく、目の前で微笑み、戸惑い、一生懸命に言葉を探す、小鳥遊雫という一人の女性に。


 だから決めた。俺は何も言わない。彼女がもし、新しい関係の中で再び俺を好きになってくれるのなら、それ以上の幸せはない。過去は、彼女が自ら取り戻したいと願った時に、そっと寄り添えばいい。


「雫さん」


「はい?」


「また、会ってもらえませんか」


 俺の言葉に、彼女は一瞬きょとんとした後、頬をほんのり赤く染めて小さくうなずいた。


「はい、喜んで」


 その笑顔を守りたい。心からそう思った。雪が降り積もるように、ゆっくりと静かに、二人の時間を重ねていこう。失われた十五年を取り戻すのではなく、新しい未来を二人で築いていくために。雪解け水が新たな流れを作るように、俺たちの関係もここから始まっていくのだ。

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