第6話「夜鳴きの街」


 夜風がざらついていた。

 肌を撫でるたび、砂鉄の粉が混じっているような感覚。

 旧団地の窓際で目を閉じると、空気の流れの中に小さな“異音”が紛れていた。

 助けたはずの男の、短い悲鳴が遠くに響いた気がした。


(嫌な脈動だ。……瘴気の圧が、増してる)


 胸の奥に鈍い熱。死人の身でありながら、鼓動のようなものを感じる。

 それは魔王の呪いが刺激されている証。

 加賀美は、ゆっくりと立ち上がった。



---


 街の南側――住宅街の端に、古いスーパーマーケット跡がある。

 昼間に歩いたとき、廃墟の奥からわずかに“黒い風”が吹いていた。

 今、その風が明らかに強まっている。


 団地を出て路地を抜け、月光の下を歩く。

 人気はない。

 遠くの街灯がオレンジに揺れ、舗装道路の割れ目から草が伸びている。

 地面の上で、灰色の靄がゆっくりと蠢いていた。


(まるで、あの世界の瘴気地帯だな……)


 かつての異世界。

 魔王が最初に撒いた“死の風”も、こんな色だった。

 呼吸するだけで肺が腐り、言葉を失い、心が削れていく。

 そして最後に、人間の形を捨てる。


 地面に指を滑らせ、瘴気を一滴だけすくう。

 魔力視を開くと、黒い粒子が細胞のようにうごめいていた。

 生きている――それも、地球の理じゃない。


「こいつはもう、“ウイルス”なんてレベルじゃないな」


 呟きと同時に、低い唸り声が響いた。

 スーパーのガラス扉の奥で、誰かが暴れている。

 次の瞬間、金属音と共にガラスが割れた。


 出てきたのは、三人。

 店員の制服を着たまま、顔を灰色に変色させた男女。

 瞳は真っ赤で、呼吸は荒い。

 人間というより、理性を削られた“肉の人形”。


 そのうちの一人が、倒れている別の人間に噛みついた。

 血が飛び散り、悲鳴が上がる。

 そして、悲鳴を上げた本人の目が、ゆっくりと濁っていった。


 発症速度が、異常に速い。


「――まずいな。もう媒介が変質してる」


 周囲を確認。

 建物の陰に一人、コンビニ袋を抱えた若者がうずくまっていた。

 まだ噛まれてはいない。だが恐怖で動けない。


「逃げろ」

 短く言う。

 若者が顔を上げ、息を詰めたまま頷く。

 彼が路地へ走り去るのを見届け、加賀美は静かに息を吐いた。



---


 地面に掌を置き、魔力を流す。

 《簡易封陣(シール)》――即席の魔法陣を刻み、周囲の瘴気を制限する。

 だが、現代の舗装路は魔法式との相性が悪い。

 陣の展開は遅く、亀裂に沿って光が散るだけだった。


「現代の地質は、魔法に向かねぇな……」


 灰色の群れがゆっくりとこちらを向く。

 唸り声が重なり、空気が震えた。

 その声は、かつて魔王軍の咆哮を聞いた時と似ていた。

 “支配される恐怖”が、空気そのものに染みついている。


 加賀美は両手を広げ、短く詠唱を切る。


 《結界・幻視(ファントム)》。

 周囲の視覚情報をぼやかす。

 人間の目には、ただの停電か火災の煙にしか見えなくなる。


 それから、右足を一歩沈めた。

 《崩歩・二の型──沈》。

 足裏に力を集め、動きの軌道を断ち切る。

 次の瞬間、ゾンビの群れの中に紛れ込むように滑り込み、肘で顎を砕く。


 骨が鳴り、肉が軋む。

 一体、二体。

 掌底と膝の連撃で、声を出させる間もなく沈める。


 この手の相手には、殺意よりも“静寂”の方が効く。

 音を立てれば、群れが寄る。

 ただの肉塊として葬るのが一番だ。


 最後の一体が、呻き声を上げて倒れた。

 その直後、背後で悲鳴が上がる。

 振り向くと、先ほど逃げたはずの若者が、倒れていた。

 肩口を噛まれ、血が滲んでいる。


「……遅かったか」


 加賀美は若者の脈を取り、わずかに息を吐いた。

 まだ完全には発症していない。

 時間との勝負だ。


 掌を当て、詠唱する。

 《起床(スヌーズ)》。

 柔らかな光が皮膚を伝い、若者の呼吸が整っていく。

 瞳が正気に戻り、かすれた声で呟いた。


「助かった……のか……?」

「一時的にな」

「……あんた、何者だ?」

「通りすがりの死者だ」


 そう答え、加賀美は立ち上がった。

 少年が言葉を失う間に、再び路地の奥へ視線を向ける。

 倒した感染者たちは、すでに黒い灰に変わり始めていた。

 残った瘴気が、ゆっくりと風に溶けていく。



---


 人影が消えた後、彼は静かにステータスを開いた。


【賢者カガミ/状態:死人(デッド・マギア)】

封印解除率:27% → 28%

魔力循環:安定

魂残滓:魔王由来/反応増幅

副次:体術強化(小)/瘴気感応域 拡大


(上がるたびに、力が戻る。だが……その分、“死”が近づく)


 スヌーズを使うたび、救うたび、魂が冷えていく感覚がある。

 魔王の呪いが、まるで喜んでいるかのように。


「救えば救うほど、呪いが満ちていく……。笑える話だ」


 口の端で笑いながら、ポケットから古びたメモを取り出した。

 質屋でもらった古紙の裏に、ここ数日の瘴気分布を記録している。

 点として描かれた印が、少しずつ広がっている。

 感染は、確実にこの街を侵食している。


「こいつはもう、世界規模になる。……“あの時”と同じか」


 空を見上げると、雲の切れ間から赤い月が覗いた。

 血のような色。

 魔王が死ぬ瞬間に見た空の色と、同じだった。



---


 足元に、かすかな光。

 倒れた感染者の一人が、まだ微かに動いていた。

 完全に崩壊していない。

 瘴気の核が、残っている。


(核が残ると、また拡散する。……放置はできん)


 加賀美は右手をかざし、短く詠唱した。

 《封印・灰鎖(グレイ・ロック)》。

 死者の魂を“灰の鎖”で縛り、完全な静寂に還す術。

 異世界でも、戦場の片隅で仲間を弔うためによく使った。


 灰が宙に舞い、淡く光る。

 静かな夜風に溶けていった。


「安らかに眠れ。……俺も、いつかそっちに行く」



---


 そのとき、遠くから警報のようなサイレンが鳴り始めた。

 消防車ではない。

 もっと低く、重たい音。

 街の一部が“封鎖”され始めている。


 感染事件――として報じられるだろう。

 だが人々は、まだ“本質”を知らない。

 この世界に流れ始めた“死の理”を、誰も見抜けない。


 加賀美は団地の方向へ歩き出した。

 その足取りは、まるで風が通り過ぎたかのように静かだった。

 だが、確かに“生きている意志”があった。

 路地裏の灯りをすり抜け、結界の中へ戻る。


 夜が、街を包み込んでいく。

 遠くで、誰かの泣き声が聞こえた気がした。

 助けに行くべきか――そう思いながらも、足を止めた。


(全部は救えない。それが、世界の理だ)


 低く息を吐く。

 胸の奥で、魔力の炎がゆらめいた。

 死人の心臓が、わずかに音を立てた気がした。


「それでも、やるさ。……俺は、“死人賢者”だからな」


 月光の下で呟くその声は、夜風に溶けて消えた。

 そして、灰色の街に再び静寂が訪れた。



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