第4話「崩れた境界」


 夕暮れのショッピングモール。

 フードコートから漂う油の匂いと、無数の足音。

 人々の笑い声の中に、わずかに――“死”の気配が混ざっていた。


(……嫌な音がする)


 耳の奥で、低く軋むようなノイズ。

 瘴気の震え。

 魔王の呪いが、現世で目を覚ます時の音だ。


 視線を向けると、アクセサリーショップの前で揉めている二人。

 一人は中年の男、もう一人は若い男。

 その中年の皮膚が灰色に変色し、血管が黒く浮き出ていた。


 次の瞬間、男が若者の肩に――噛みついた。


 赤黒い血が飛び、悲鳴が上がる。

 人々が立ち尽くす。

誰も動けない。

恐怖の中で、ただ“死”が拡がっていく。


(……完全発症か)


 あの動き、筋肉の硬直、体温の異常。

 スヌーズでは抑えられない。

 感染ではなく――魔王の呪詛の発露。


「……魔王、死んでもまだ世界を蝕むか」



---


 俺は人混みを抜けた。

 視線を避け、速歩き。

 崩歩を使えば、誰にも気づかれずに接近できる。


 噛まれた若者は壁際に倒れ、中年男が唸り声を上げている。

 肌の色は鉛のように濁り、理性の光は完全に消えていた。


 俺は迷わず詠唱を噛み殺す。


 《結界・幻視(ファントム)》――周囲の認識をぼかす小術。

 外から見れば、ただの揉み合いにしか見えない。


 中年男がこちらを向く。

 焦点の合わない瞳の奥に、“死の理”が蠢いていた。

 体内の瘴気が暴れ、筋肉が逆流する。

 それでも人の形を保っているのが、余計に哀しい。


 俺は、静かに右手を上げた。


「安らかに還れ――《鎮魂(リポーズ)》」


 掌底を胸骨の下に叩き込み、魔力を流す。

 光も音も出ない。

 ただ、空気が一瞬だけ震えた。


 黒い靄が体から溢れ、溶けていく。

 目の濁りが消え、身体から力が抜けた。

 人だったものが、人の形に戻る。


 周囲ではまだ誰かが叫んでいたが、

 幻視の結界がある限り、誰も“俺のやったこと”を見ていない。



---


 血まみれの若者が、壁際で震えていた。

 肩口から瘴気が滲んでいる。

 だが、まだ初期段階だ。


 俺はしゃがみ込み、指先をかざす。


 《鑑定眼》


【対象:人間(男性)】

状態:感染進行 6%(初期)

理性:安定

瘴気活性:微

回帰可否:高(感染から4時間以内)

推奨:スヌーズ適用可


(間に合う。まだ理性は保てる)


 静かに詠唱を重ねる。

 《起床(スヌーズ)》。


 淡い光が走り、空気が震えた。

 傷口から滲む灰色の靄が弾け、消える。

 男の呼吸が整い、焦点が戻る。


 ――スヌーズ。

 感染から二十四時間以内の者にだけ使える理性安定術。

 発症直後なら、心を完全に呪いから切り離せる。

 だが、瘴気が深く入り込んでいれば、成功は不安定になり、

 数時間で切れることもある。


 要するに、成功率の低い賭けだ。


 俺は呼吸を整え、彼の瞳を見た。

 意識は戻っている。

 術は――成功だ。


「動けるか」


 男が小さく頷く。

 まだ混乱している。

 何も言わず、俺は彼の傷にガーゼを巻き、立ち上がらせた。

 「すぐに病院へ行け」

 「あなたは……」

 「気にするな。忘れろ」


 短く言い捨てて、俺は背を向けた。

 幻視の結界を解くと同時に、ざわめきが戻る。

 誰も、俺の存在に気づかない。

 人々はただ、「誰かが倒れた」と騒いでいるだけだった。



---


 モールの裏口を出ると、夜風が冷たかった。

 街の明かりが遠くで滲み、空気の中にわずかな瘴気が漂っている。

 俺はビルの壁に背を預け、ステータスを開いた。


【賢者カガミ/状態:死人(デッド・マギア)】

封印解除率:24% → 26%

新規解放:魔力循環安定化/一部魔法干渉解除

副次:体術(崩歩)威力上昇


 数字が上がるたび、心が少しだけ軽くなる。

 だが同時に、体の奥で“呪い”が疼く。

 封印が解けるほど、俺の中の“魔王の残滓”も強くなる。


(魔王の呪いが、瘴気としてこの世界に広がってる……)

(つまり、あの戦いは終わっていなかったってことか)


 空を見上げる。

 薄雲の向こうに、満ちかけの月。

 赤く滲んで見えるのは、目のせいか、それとも――。


「……死の理が、人を殺しに来てる」


 吐き捨てるように呟く。

 指先を見れば、僅かに灰色の光が滲んでいた。

 俺の体にも、まだ“それ”が残っている。


 笑えねぇな。

 魔王を討って、死人になって、今度は呪いの後始末か。


 通りの向こうで、さっき助けた男が救急車に乗せられていた。

 俺の存在は、誰の記憶にも残らない。

 幻視の結界が、そういう仕組みだ。


 それでいい。

 死人が人の記憶に残る必要はない。


「死人賢者カガミ、封印解除率二十六パーセント。

 次は――呪いの根を断つ」


 夜風が吹き抜けた。

 街の灯りが一瞬揺れ、まるで誰かの息のように消えていった。



---

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