第3話咆哮
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### **第三話 咆哮**
『バカヤローッ!!』
鼓膜が破れるかと思った。
受話器の奥で、獣が吠えた。
夫の声は、もう人間の言葉の体を成していなかった。汚らしい唾液の飛沫まで飛んできそうな、ひび割れた音の塊。それが、受話器という細い管を通して私の耳へ直接ねじ込まれる。
私は反射的に受話器を耳から離した。顔をしかめ、眉間に皺を寄せる。
『間違いないんか!? あ!? 誰から聞いたんや!』
矢継ぎ早に浴びせられる詰問。
うるさい。頭が痛い。
なんで私が怒鳴られなきゃいけないの。悪いのはあんたの娘でしょう。
「……さっき、京都府警のタナカさんいう人から」
努めて冷静に、けれど底冷えするような声で返す。私の唇は乾ききっていた。
「病院の屋上から、転落した、と……」
転落。
その単語を口にした瞬間、私の脳裏に浮かんだのは、娘の体がコンクリートに叩きつけられる瞬間ではなく、潰れたトマトのように飛び散った赤い液体が、誰かに掃除される面倒くさい光景だった。
『どこの病院や! 場所は! 時間はいつや!』
夫の怒鳴り声が続く。
病院?
……そういえば。
私は焦げ臭い台所を見回した。東山……なんとか病院。男はそう言っていたはずだ。でも、メモなんて取っていない。あの時、私は火加減のことで頭がいっぱいだったのだから。
「……はあ。それが、聞いとらんのです」
正直に答えた。悪びれるつもりなど毛頭なかった。
『聞かれへんでどないすんねん! この、ドアホが!!』
ドアホ。
その一言が、私の腹の底にある澱(おり)に火をつけた。
誰に向かって言っているの。私が毎日、誰のおかげで飯を食えていると思っているの。
受話器を握る手に力が入り、プラスチックがミシミシと悲鳴を上げる。
『はよ電話しなおして、聞けや! わかっとんのか!?』
「……はい」
『わしもすぐそっちに帰るけん、しっかりしいや! ええな!』
「……はい」
ガチャン!!
耳をつんざくような破壊音とともに、通話は断ち切られた。
ツー、ツー、ツー……。
無機質な電子音が、私の鼓膜に残った夫の残響を上書きしていく。
私はゆっくりと受話器を置いた。
カチリ。
静かだ。
台所には、相変わらず換気扇の回るブーンという音と、雨が窓を叩く音だけが響いている。
へたり込む気になど、なれなかった。
むしろ、体の奥底から冷たい力が湧いてくるのを感じた。
「しっかりしいや、か」
鼻で笑う。
あんたこそ、事故でも起こして死ねばいいのに。
そうすれば、保険金が二倍入る。
不謹慎な計算が、一瞬だけ頭をよぎり、すぐに消えた。
想像する。
今頃、あの男は血相を変えて事務所を飛び出しているだろう。
あの若い事務員の女は、さぞかし驚いた顔をしているに違いない。「社長、どうしたんですかぁ?」なんて、間の抜けた声を出して。
夫はきっと、何も言わずに飛び出す。それとも、「娘が死んだ」と劇画チックに言い残すか。
どちらにせよ、滑稽だ。
男たちは、いつも自分たちが世界の中心にいると思っている。悲劇の主人公気取りで、雨の中を疾走する自分に酔っているのだろう。
私は、冷めきった鍋の中を覗き込んだ。
真っ黒に焦げ付いた肉の塊が、鍋底にへばりついている。
タワシでこすっても、もう落ちないかもしれない。
「……ったく」
今日一番の深いため息が出た。
娘の死よりも、この鍋を洗う手間の方が、今の私にはよほど現実的で、深刻な問題だった。
私はシンクの蛇口をひねった。
ジャーッ。
激しい水流が、焦げた鍋に叩きつけられ、黒い水飛沫を上げる。
その音だけが、私の心を少しだけ落ち着かせてくれた。
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