第34話「王国の使者、最後の懇願」
アルトが生まれてから一年が過ぎた。
ヴァイス領は平和と繁栄を謳歌し、その国力はもはやクライス王国を凌ぐほどになっていた。
一方、クライス王国はもう末期的な状況にあった。
辺境から買い付けた種によってかろうじて飢饉は免れていたが、国の経済は完全に辺境に依存する形となり、事実上の属国と化していた。各地で続く反乱、貴族たちの権力闘争、そして指導者の不在。国は内側から崩壊しようとしていた。
そんなある日、ヴァイス領にクライス王国からの正式な使節団が訪れた。
彼らはガイオンとエルナに謁見を求めると、その場で深々と頭を下げた。
「ヴァイス領主様、そして聖女エルナ様。本日は我らが国王陛下からの最後の願いを伝えるために参りました」
使者の口から語られたのは、驚くべき内容だった。
「国王陛下は退位を決意されました。そして王太子アルフレッド殿下も、王位継承権を放棄なされました」
「……何?」
ガイオンが、訝しげに眉をひそめる。
「クライス王国は、もはや我々の手には負えませぬ。国を立て直すには強力な指導者と、大地を癒す聖女の力が必要です。つきましては、どうか……」
使者はそこで一度言葉を切ると、意を決して続けた。
「聖女エルナ様をクライス王国の新しい女王として、お迎えしたいのです!」
その言葉に、謁見の間はしんと静まり返った。
エルナを、女王に?
それはあまりに突拍子もない、身勝手な申し出だった。
自分たちで国を滅茶苦茶にしておいて、その尻拭いを自分たちが捨てた女にやらせようというのか。
ガイオンの体から怒りのオーラが立ち上るのが、エルナにも分かった。彼が口を開く前に、エルナは静かに立ち上がった。
そして使者たちに向かって、はっきりと告げた。
「そのお話、お断りいたします」
彼女の声は穏やかだったが、その響きには決して覆すことのできない、固い意志が込められていた。
「わたくしはヴァイス領主ガイオンの妻、エルナです。クライス王国の女王になるつもりは、毛頭ございません」
「し、しかし聖女様! あなた様でなければ国が、民が……!」
使者が必死に食い下がる。
「民を思うのであれば、女王を迎えるよりも先に、あなた方がやるべきことがあるはずです」
エルナは冷ややかに言った。
「あなた方は、わたくしが提示した大地の再生の道を真摯に歩んできましたか? 私利私欲を捨て、民のために汗を流してきましたか? ……わたくしには、そうは見えません」
彼女の言葉は、使者たちの胸に鋭く突き刺さった。
「国を立て直すのは、誰か一人の英雄ではありません。そこに住む人々、一人一人の意志です。あなた方が本気で国を愛し立て直す覚悟があるのなら、わたくしは友人としてこれからも援助を惜しみません。作物も薬も、今まで通り、正当な対価で売りましょう」
それは女王になることを拒絶しながらも、完全に見捨てるわけではないという、エルナなりの最大限の慈悲だった。
「ですがこのヴァイス領とクライス王国は、対等な隣国です。どちらが上でどちらが下でもない。そのことだけは、お忘れなきよう」
エルナの言葉に、使者たちはもはや何も言い返すことができなかった。
彼らは自分たちの甘さと傲慢さを、改めて思い知らされた。
聖女にすべてを押し付けようとしていた自分たちが、恥ずかしかった。
使者たちは再び、深々と頭を下げた。
「……承知いたしました。我々の不明を、お許しください」
彼らはすごすごと引き上げていった。
後に残された謁見の間で、ガイオンは誇らしげに妻を見つめていた。
「……見事だった、エルナ」
「いいえ。当たり前のことを言ったまでです」
エルナはふわりと微笑んだ。
彼女はもう、誰かの都合に振り回される弱い少女ではない。
一つの国の運命さえも左右する強く賢明な一人の女性であり、領主の妻であり、そして一人の母親なのだ。
クライス王国がこれからどうなるのか。それは彼ら自身の問題だ。
エルナはただ、自分の愛する家族とこの国の人々と共に、未来へ向かって歩んでいくだけだった。
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