第33話【報せの名は】
王宮・西棟。
朝の光がすでに傾きはじめ、廊下の大理石を金色に染めていた。
厚い石壁の間を抜け、重厚な銀装飾の扉を押し開けると、
静謐な空気に包まれた執務室が姿を現す。
赤と金を基調にした室内。
壁際には王家の紋章を掲げた大旗が揺れ、
深緑のカーテンが外の光をやわらかく遮っていた。
その中央――整然と書類が並ぶ執務机の前に、
カイン王太子が腰を下ろしている。
ペン先を止め、机上の文書を片手で押さえながら、
入室したルミエールへと視線を上げた。
彼女は背筋を正し、懐から一枚の報告書を取り出す。
その動きには、騎士団長らしい精確さがあった。
「殿下。……刺客の出どころは、判明しましたか?」
低く落ち着いた声。
だが、その奥に潜む緊張は隠せなかった。
カインは長い息を吐き、報告書に視線を落とす。
ペンを置き、指先で書類を軽く叩きながら言った。
「ああ。……だがな、ルミエール。
お前が予想していた“叔母上”――マリアベル様からだけではない」
「……?」
ルミエールの眉がわずかに動く。
その反応を確かめるように、カインは椅子を少し引き、
机の端に積まれた封筒を一枚取り上げた。
「確かに叔母上が動いたのは事実だ。
だが、同時に別の筋から刺客が放たれていた。
目的は――クレノの排除。しかも、明確な殺意を持ってな」
室内の空気が一変する。
ルミエールの表情が、わずかに凍りついた。
「……誰が?」
その声は低く、しかし鋭い。
まるで刃のように、空気を切り裂いた。
カインは一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。
そして短く告げる。
「――クレハ・バレンタインだ」
その名が落ちた瞬間、ルミエールの心臓が激しく跳ねた。
指先がかすかに震える。
一瞬、光が遠のいたように感じた。
(……また……あの名を聞く日が来るとは)
喉が渇き、息が浅くなる。
脳裏に浮かんだのは――炎。
焼け落ちる館の中で、冷たい瞳で自分を見下ろしていた男の姿。
クレハ・バレンタイン。
クレノの実兄。
そして、自らの断罪と死を刻みつけた、最も深い傷の名。
「実の弟を……なぜ……」
唇が震え、言葉が途切れた。
それでも、ルミエールは必死に立ち続けた。
机に手を添え、視線を真っ直ぐに向ける。
カインは静かにその姿を見つめ、声を低くした。
「動機までは掴みきれていない。
だが――クレハは今、中央議会に影響を持つ一派と繋がっている。
表向きは有能な青年貴族だが、裏では私兵や情報屋を抱えている。
目的が“力”か、“憎悪”か……それはまだ分からない」
「……政権の中枢に……」
ルミエールは一歩、前へ出た。
靴音が硬い床に響く。
「権限と資金を得たクレハが、再びクレノを狙う。
……見過ごすわけにはいきません」
その瞳には、怒りと――揺るがぬ意志が宿っていた。
「気をつけます」
静かに告げた声の奥に、決意の火が燃える。
もう、かつてのように奪わせはしない。
だが、カインはふっと口元を緩めた。
「まぁ――お前に勝てる男はいないと思うがな?」
その軽い口調に、ルミエールは呆れたように眉を下げた。
「またそういうことを」
だが、長い付き合いでわかる。
その軽口は、信頼の証であり、励ましの言葉だ。
「……殿下には、本当に敵いません」
わずかに微笑んで頭を下げると、ルミエールは壁の時計に目をやった。
針は昼を指している。
本来なら、まだ任務の途中――
けれど胸の奥では、別の約束が優先されていた。
「――殿下、そろそろ失礼いたします」
姿勢を正し、静かに告げる。
「おや、珍しいな。午後の会議もまだだぞ?」
「はい。なるべく毎日帰ると、クレノと約束しましたので」
その声音には、ほんのわずか照れが混じっていた。
カインは思わず吹き出す。
「ははっ……なんてこった。
鉄の女が“家に帰る”なんて言葉を口にする日が来るとは」
「……守るものができた、というだけのことです」
ルミエールの声は穏やかだった。
その瞳には、炎ではなく光が宿っている。
「もし何かあれば、いつでも呼んでください。
昼でも夜でも、クレノが寝ていても――私は参ります」
「……そのうち、クレノに叱られるぞ?」
「そこまでの関係ではありませんので」
少しだけ頬を染めながら、軽く礼をして踵を返す。
金具のついたブーツが石床を鳴らし、扉へと歩いていく。
カインは、その背中をしばらく見送っていた。
扉が静かに閉まる。
執務室に再び、静かな時間が戻る。
カインは椅子にもたれ、深く息を吐いた。
窓から差し込む光が、机の上の書類を照らす。
「……あの男が、ルミエールに目をつけているとはな」
小さく呟いた声には、王太子としての警戒と、ひとりの友としての心配が入り混じっていた。
「さて……」
椅子を回転させ、彼は窓の外を見上げる。
雲間から差す光が王城の尖塔を照らし、
その下で、ふたりの運命の糸が静かに絡まりはじめている――そんな気がした。
「王太子として、やれることをやらねばな」
カインの瞳がわずかに鋭く光る。
ペンを取り直し、報告書に再び手を伸ばした。
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