第13話【“当たり前”という呪いをほどく夜】
天蓋から垂れる薄布をくぐって、やわらかな月明かりがベッドへ降りていた。
淡い青が、祝福のヴェールのようにふたりを包む。
その光の中で、クレノは頬をほんのり染め、恥じらうように微笑んだ。
「……ご奉仕、頑張りますね」
その一言、その表情――
胸の奥で、鋭い痛みがはじけた。
(あ――)
細い体つきはまだ少年のようで、けれど影の落ち方が一瞬、誰かの面影をなぞった。
漆黒の髪に、紅の瞳。
――クレハ・バレンタイン。
かつて、誰より強く焦がれ、そしてその手で愛ごと断ち切られた男の名が、喉の奥に刺さる。
(忘れていたわけじゃない。……クレノは、あの男の弟)
ぐらりと胸が熱を帯び、視界がにじんだ。
押し戻しても溢れてくる感情に、涙が先に零れた。
「ルミエ様……!? ぼ、僕、なにか……間違えましたか……?」
不安に震える声。クレノが慌てて身を起こし、覗き込む。
(これほど時間が経っても、まだ私は――。……いや、違う。今は私の問題を彼に背負わせる時じゃない)
喉を詰まらせながら、ルミエールは必死に言葉を探した。
「……っ。クレノ、違うの」
「え……?」
「今、君がしようとしてくれた“奉仕”――それはね、本来、君が背負うことじゃない」
意味をつかみきれず、クレノはきょとんと目を瞬く。
次の瞬間、強張った顔でシーツを握りしめ、小さく身を退いた。
「も、申し訳ございません……」
縮こまる肩。息が浅い。
ルミエールは涙を拭い、ゆっくりと身を起こす。心の波を押さえ、できるだけ静かに問いかけた。
「……どうして、そう思ったの? だれに教わったの、そんなこと」
「……母上……それから、エリザ様も……」
「エリザ?」
眉がわずかに動く。
「だれ?」
クレノは息を飲み、一瞬だけ怯え、やがて小さな声で落とした。
「……ミラノ侯爵家のご令嬢です。たまに、うちに来ていて……その……」
頭の奥で、何かが弾ける。
嫌な確信が、冷たい水のように背骨をつたった。
「クレノ」
呼ぶ声に、彼の肩がびくりと跳ねる。
「これまで、その“奉仕”を……何人に?」
「え……えっと……何人……」
震える指で数を折る、あどけない仕草。
「……七人……くらい、でしょうか……」
視界が白く瞬いた。
胸の奥がぎゅっと締まって、言葉がにじむ。
「……クレノ」
掠れた声が、喉から洩れる。
痛みは怒りに似て、けれど真ん中は、ただただ哀しかった。
「それは、いけないことなんだ」
「……え?」
本気で、なぜ咎められるのか分かっていない――その瞳が痛い。
誰かが長い時間をかけて、価値のものさしをすり替えたのだ。
「君のからだは、だれかの“義務”にも、“娯楽”にもならない。
気まぐれに差し出していいものでもない。……生きている君そのものなんだ」
クレノは戸惑い、ぽかんとルミエールを見つめる。
「……でも、みんな笑っていました。
それで、僕の居場所があるって……母上が……」
「違う」
思わず強く出そうになる声音を、喉の奥で落とす。
月光が薄絹を透け、彼の細い肩に淡い輪郭を描く。
「それは“暴力”。言葉を飾っても、していることは同じ。
君はずっと、“させられてきた側”だった」
「……ぼ、暴力……?」
「うん。君が望んだわけじゃないことを、“望んだように見せかけて”させた。
それは尽くすこととは、まったく別のもの」
ルミエールはベッドに座り直し、そっと彼の手を包む。
細い指が、ふるりと震えた。
「……でも、僕、そうしないと“家”に居場所がなくて」
「クレノ」
名前を呼ぶだけで、泣きそうになる。
言葉を足すより先に、彼女は抱きしめた。
強くではない。壊れものに触れるようでもない。――“人”として、等しい温度で。
「もう、そんなことしなくていい。君は、君のままで、ここにいていい」
「……ルミエ様……」
かすかな声。
次の瞬間、頬を伝う一筋の涙。
(どうして……泣いているんだろう。――いや、きっと今、ほどけていくんだ。
長く絡めとられていた“当たり前”の呪いが)
「これからは、私が教えるよ。
本当に大切にされるって、どういうことか。
君が、君として生きるって、どういうことか」
クレノは声を出さず、肩を震わせるだけだった。
その涙は、苦しみの果てにようやく辿り着いた――“赦し”の証。
やがて呼吸が落ち着き、彼の瞼がおもく閉じていく。
今日という一日――見知らぬ邸、知らない人々、幾重の緊張。
無垢な魂に背負わせるには、あまりに多かった。
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