パート15

最高級のデザート。アロマテラピーとマッサージ。

 それが、この男が導き出した『尊厳』の対価。

 詩織は、もはや涙も出なかった。怒りも、悲しみも、憎しみさえも、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。心が、完全に麻痺してしまったのだ。

 彼女は、まるで精巧に作られた人形のように、こくり、と頷いた。

​「……ありがとう、ございます。楽しみに、しています」

​ その感情のこもらない返答を聞いて、ヒロは「それはよかった」と、心底満足げに頷いた。

 彼にとって、これは問題が一つ解決した、というだけのことに過ぎない。被験者の精神的安定は、実験データの精度を向上させる。故に、彼女の『尊厳』を回復させることは、極めて合理的な投資なのだ。

​ その日を境に、詩織の抵抗は、完全に消えた。

 彼女は、与えられた食事を黙って食べ、言われるがままにセンサーを装着し、感情を無にしたまま舞を舞った。その舞は、もはや神への祈りでも、呪詛でもない。ただ、ヒロが求めるデータを正確にアウトプットするためだけの、完璧に制御された作業だった。

 時折、ヒロが「素晴らしい! 今日の君の舞は、実に安定していて、美しい!」などと、屈託のない笑顔で褒めてくるのが、彼女にとっては最大の拷問だった。

​ こうして、数ヶ月が過ぎた。

 俣望という毒が、夜の世界を静かに蝕んでいく間。

 芹沢詩織という巫女が、その力を解析され、兵器へと作り変えられていく間。

 ヒロは、水面下で、着々と彼の計画の基盤を構築していた。

 買収した建設会社は、ダミー会社として完璧な資金洗浄のルートを確立。暴力団組織を内部から崩壊させるための情報操作も、最終段階に入っている。

 全てが、彼の描いた設計図通りに、寸分の狂いもなく進んでいた。

​ ある夜、地下の研究施設で、ヒロは巨大なモニターの前に一人座っていた。

 画面には、いくつものウィンドウが開かれている。

 一つは、詩織の生体データと、彼女の力によって収集された、この国独自の魔法に関する膨大な解析データ。

 一つは、世界経済の動きをリアルタイムで表示する金融チャート。彼の資産は、この数ヶ月で、常人では認識不可能なほどの桁にまで膨れ上がっていた。

​ そして、最後のウィンドウに、一通のメールがポップアップした。

 差出人は、『M』。俣望だ。

 件名は、ただ一言。

​ ――『「城」を、内側から完全に掌握しました』

​ その報告を見て、ヒロは、初めて、ほんのわずかに口の端を吊り上げた。

 それは、喜びでも、満足でもない。

 完璧な機械が、設計図通りの性能を発揮したことを確認した、技術者の笑みだった。

​「盤面の準備は、整った」

​ 彼は、誰に言うでもなく呟くと、モニターの電源を落とした。

 暗闇に包まれた研究施設で、彼の瞳だけが、昏い光を放っている。

​「――さて、そろそろ、僕の『怪物』が、どんな顔に育ったか、見に行くとしようか」

​ 最初の駒と、最初の拠点を手に入れた合理主義者。

 彼の次なる一手は、自らが育て上げた『毒』との再会。

 物語は、ようやく、その混沌の序章を終えようとしていた。

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