私の世界と彼女の世界

 学校を出ると、冷たい風が足の間を通り抜けた。


「寒い」

 思わず漏れた独り言。佐野さんはそれを拾って、軽く投げ返してきた。


「もう11月だもんね」

「そうだね」

「白河さんと初めて会ったのは……?」

「いつだっけね」とぼけてみる。忘れるはずがない。初めましてで抱き合うなんてことはこの先一生ないんだから。


 佐野さんは「んー」と唸る。なかなか答えは出なさそうだから、諦めて答えを教えた。


「たぶん9月。まだ暑かった」

 佐野さんは黙った。求めていた答えをあげたのに何故か何も言わずに歩く。

 

 この時間にこのあたりを歩く人はいないから、2人分の足音だけが聞こえる。鳥も虫も、寒いからか黙り込んでいる。


「佐野さん?」

「……あっ、いや。なんかさ」

「うん?」

「こーなるとは思ってなさすぎて」

「まあ、それは私も」

「仲良くなれて、よかったなって」

「……」

 

 仲良くなれたかどうかっていう問いに答えるのは難しい。だけど確かなのは、肌が触れ合う相手は佐野さんだけってこと。守屋とはハグなんてしないし、彼女以外のクラスメイトはあまり話したことがない。触れるとか以前に興味がない。今までもあまり友達は居なかったし。それにそもそも……抱きしめられた記憶なんて、親にだってない。

 

 だから、他の誰かとは違う人っていう存在ではある。


「ごめん忘れて。なんか変な感じ出しちゃった」

「よくわかんない」

 

  私はあまり空気が読めない方だと思う。だから、佐野さんの言う”変な感じ”はわからなかった。


 わかった方がいいのかもしれないけど、今はわからない。


 素直に言葉にすると、佐野さんが微笑んだ。そのせいでお互いに無言になって、びゅうっと音と共に強くて冷たい風が通り抜けていった。

 

 2人が並んで歩いているから、足音が時折重なる。だけど会話はない。

 でも仕方ない。私は会話が得意じゃないから。それに、話すべきことはあまり思いつかない。


 誰かといるときは、何かしらの会話が生まれる。守屋といるときもそうだし、今まで佐野さんと過ごした時間はそうだった。完全な沈黙はあり得なかった。たぶん今まで、静寂は不安の種だったのだ。

 

 でも今日は、無言でも別にいい気がする。

 私よりずっと喋りが上手な佐野さんですら、一言も発さないから、たぶんそういうことだ。

 

 だからしばらく何も会話がなくて、その間、私の心もずっと静かだった。今まではこんな時間がなかった。誰かと居て、だけど静かで、でも何も感じない――心地よい時間、なのかも。


「佐野さん、逆方向なんじゃないの?」

 駅に着いたのに、佐野さんはまだ私の隣を歩いていた。佐野さんの家と私の家は真反対の方向にあるからここで別れるはずだ。

 佐野さんは私の質問に答えず、歩き続ける。

 そして、急に立ち止まって、振り返る。

 駅の蛍光灯に照らされて、校則違反の赤茶が靡く。

 

「……寄り道、しよ?」

 

 少し波打った髪が、ふんわり揺れる。

 手を伸ばせば触れられる距離。

 甘い香りが漂ってくる。


 寄り道くらい、私だってたまにする。だから普通のことなのに、佐野さんの言葉はなぜか良くない誘惑に聞こえてしまった。


「なんか、エロいね」

「ち、違うし。そういう意味じゃないからマジで。怒るよ?」

「ごめん、冗談」


 佐野さんはエロくない。

 それは最初からわかってる。

 エロいって感じてしまう私の方が変態なんだと思う。それは、認めざるを得ない。


 「結構傷ついたからね、変態とか言ってきてさ」

「あれは違う」

「あっ、もしかしてさ……嫉妬した?私が麻衣とくっついてたから」

「……うるさいな。どこ行くの?寄り道って言っても行く場所あんまりないけど」

 自分でさえわからない心の奥深くの何かには、これ以上踏み込まれたくない。それにそもそも考えたくないから言葉を詰め込んだ。でも、佐野さんの表情が緩んでいく。たぶん無駄な足掻きだった。


「えへへ、図星だ」

「……」

「んー、なんかお腹空いたから、コンビニとかない?」

「あるよ。ちょっと歩くけど」

 「全然いいよ」


 ちょっとどころじゃなくて、それなりに歩くことになるが私も別に構わない。帰っても家には誰もいないし、


 温かい部屋で過ごす一人の時間よりも、寒いけど佐野さんが居る時間の方がたぶん、マシだ。


 ――


 私はお腹が空いていないし、欲しいものも特になかったからコンビニの前の手すりに座った。


 「なにしてんの?」

「私、別に用ないから」

「え?そこで待ってるの?寒くない?」

「うん。でも、用もないのに入るのはおかしい」

 買うべきものがないのに物を売る場所に行くのは、意味のないこと。


 考えていることを正直に伝えただけだけど、佐野さんは笑った。私の言っていることがおかしいことはわかっているけど、私の中ではこれが常識だから、変えることはない。佐野さんの前であっても。いや、彼女の前だからこそだ。


「やっぱ変わってるよね」

「私からしたら、佐野さんの方が変わってる」

「私、割と常識人だよ?」

「常識人はハグセラピーなんかしない」

「そ、それは、遥に流されただけ……」

「ほら、早く行って来なよ。待ってるからさ」

「えー?」

「……何買ってきてくれるのかな。センスに期待してる」

「あー、悪いぞそれ〜。ま、期待しといて?」


 センスに期待とは言ってみたものの、それは建前だ。佐野さんが私の好みを知っているわけがないし、たぶん、嗜好は全然違う。


 だって、私と佐野さんは全然違う。

 今まで意識してこなかったけど、これは確実なことだ。


 佐野さんはもう目の前にいない。だけど彼女の姿を暗闇に投影するのは難しいことじゃない。


 身長は彼女の方が少しだけ低い。顔は、多分佐野さんの方が可愛い。私はメイクもしてないし、無頓着な方だと思う。佐野さんはメイクが上手。

 制服の着方だって違う。


 香りも、体温も、柔らかさも、全部。

 たぶん例の悪ふざけ――ハグセラピーなんてものがなければ、一生混じり合うことはなかった。


 だけど、それが心地いい。違うものなのに、いやだからこそ、触れると、心地よいのかも。


「おーまたせ」

 佐野さんの声が私の思考を断つ。

「待ってないよ」

「どう?これ。私のセンス」

 コンビニ袋から取り出されたのは、2つのカレーパン。

「……カレーパン?」

「あ、反応微妙だな」

 声が近くなる。すぐ横に佐野さんが座ったのだ。

「いや、えっと……悪くない」

 カレーパンは嫌いじゃないけど、このタイミングで選ぶセンスはわからない。悩んだ末に絞り出した言葉は、あんまり上手じゃない。

「えへへっ、なにカッコつけてんの」

 見破られて、突っ込まれる。

「ち、違うし」

 カッコつけたわけじゃない。私なりに頑張っただけ。

 でも佐野さんが笑ってよかったと思う。不思議なことに。

「はい。食べて」

「ありがと」

 受け取ったカレーパンを一口齧る。サクって音がした。そして別に、いつもと変わらない味だった。


 隣からサクッと聞こえて、佐野さんの声がした。

「美味しい?」

「うん」

「私のも美味しい」

「それはそうでしょ」

「そっか」

 冷え切った風が吹いて、カレーパンを抑える手に力を入れる。ふと見上げると、青く光る月が見えて、余計に寒く感じる。

 もう一口齧ると、さっきより温かい。

 

 同じものを食べてるから、同じ味。


 いや違う。


 同じ味を感じているわけではない。だけど「美味しい」って同じ気持ちになっている。


 彼女が見る世界と、私が見る世界は違う。

 でも一瞬だけ、何かが重なる。

 

 それは、なんだか不思議……いや。

 いや、心地いい。

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