忘れ物、持ってきたよ
家に帰るといつも、肩の荷が降りたような気がして、気分が軽くなる。
だけど今日はなんだか、気が重い。
それは多分目が疲れているせいだから、すぐにコンタクトを外した。メガネの自分が嫌いでいつもはお風呂に入る直前まで着けているけど、眼精疲労に悩まされたくはない。特に今日は。
重い体をソファに投げ捨てると、沈む。ちょっと太ったかな。そして、そのまま動けなくなる。
でも今日は幸いなことにお母さんが居る。
揚げたてのエビフライを食べて、味噌汁を飲んで、お風呂に入る。
それでもまだなんか、心に靄がかかっているような。確かにムラなく温かい作りたてのご飯は美味しかったし、寒くなってきたからこそお風呂は気持ちよかった。
けど、落ち着かない。ソワソワするような、でも動きたくもない。
もう返信は待ってない。だから焦りも不安も、ないはずなのに。
なんか、なーんにもしたくない。
課題があるからやらなきゃだけど、ソファから動けない。スクバからタブレットを取ってきてここでやればいいのは分かってるけど、立つ気力がない。今日ってそんなに疲れたのかな。
ソファの傍にある小さいテーブルの上にあったリモコンを拾って、テレビのチャンネルを変える。平日の夕方はどの局も同じようなニュース番組ばっかりでつまらない。でもたぶん今の私はなにを見ても面白いと思わない。それに、面白いかどうかよりも、明日の天気のほうが大事だ。キッチンから聞こえる換気扇と水道の音のせいであまり聞こえないから音量を上げたいけど、リモコンが古いせいでうまくテレビに伝わらない。力を込めて押してもダメ。諦めてリモコンを床に落とす。
モフモフした冬仕様のカーペットが音と衝撃を吸収して、ぼん、と小さく響く音が聞こえる。そして、キッチンの音が消える。テレビの音がはっきり聞こえた。明日は東日本全域で雨だって。
気分が沈むのは、気圧が低いから。今の私を説明するのに十分な根拠が示された途端、ちょっと体が軽くなる。ぐいっと体を起こすと、スマホがぶるっと震える。
通知だ。
また、スマホが震える。
連続で、二回も通知が来た。誰かからのメッセージに違いない。
意味もなく、わけもなく、心臓がぎゅっとなる。
鼓動が、骨を伝う。なんでかはわからない。スマホを取り出して、画面を開いてみる。
アプリが読み込まれるちょっとの時間が、長い。なんで。
別にもう期待していない。白河さんからじゃない。
私たちはもうなんでもないただのクラスメイト。用がなければ話さないし、連絡なんて取り合わない。そして、用なんかない……。
だから、だからもう――
目を背けた。再びソファに身を委ねて、お腹の上にスマホを置く。
何してんだか、私。
全部おかしい。最初は、ただの悪ふざけだったのに。遥の悪ふざけに乗って、綺麗だけどよく知らない白河さんを抱きしめて、それで、なんとなく、よくわからない気持ちになって。
全部忘れたい。全部冗談だったってことで、いつもみたいな悪ノリだって。
――なのに、忘れたら終わってしまう気も、する。
終わらせればいい、いやそうじゃない。それじゃダメ。始まってすらいないんだ。そう思わなきゃいけないけど、もう遅いから。
お腹に振動が伝わる。ぶるぶると断続的な震えが、全身を這いまわる。
電話がかかってきたけど、そんなことはどうでもいい。
ただ、感触が気持ち悪くて、スマホを持ち上げた。麻衣からだった。
震えるスマホを顔の真上に掲げて、深いため息が漏れる。
めんどくさいな、と思った。
今の私は疲れている。誰かと誰かの間でフワフワ漂うことに、疲れた。
電話に出たらたぶん怒られる。それはそうだ。一緒に帰る約束をしたのに、勝手に帰ったから。何も連絡はしていないから、私が悪い。あの時と、一緒だ。白河さんの時と一緒。
放っておくと、画面は元に戻る。数件の通知がホーム画面に溜まっていたから、開いてみる。
麻衣からは電話だけ。
メッセージは遥からだった。
『どうしたの?』
シンプルだったから、答えた。
『体調悪くて、ごめん』
すぐに返信が来た。
『そっか。お大事に。待たせてごめん』
二人はたぶん一緒に居るから、麻衣にも返さなきゃいけないけど、言葉が思いつかなかった。
スマホを床に放り投げて、目を閉じた。やっぱり目は疲れていたみたいで、瞼がぐっと重くなる。
意識が薄れそうで、薄れなくて……。
インターホンの音が鳴り響いた。
お母さんを呼んだけど返事はないから、たぶん外に行ってしまった。
私が出るしかないじゃん、とため息が漏れ出て、体がほぼ自動的に起き上がる。
ソファから立ち上がって、玄関のモニターを確認すると、ぼんやりと。
ぼんやりと、見覚えのある少女のシルエット。
曖昧で、粗く、淡い輪郭線は不明瞭だけど、私はすぐにわかった。
いや、私より先に、脳みそが認識した。ずしん、と重たいものが、頭のてっぺんに落ちた。
白河さんだ。
どんな感情を抱けばいいかわからない。
だからどんな顔をすればいいかわからない。どんな声で、なんて言葉で。
わからない、がこんがらがって、鼓動だけがうるさくなっていく。
だけど、とりあえずモニター越しに「ちょっと待ってて」とだけ伝えた。
崩れて肩が出たトレーナーと乱れた前髪を軽く指で直して、パーカーを羽織る。全身鏡に映るのはいつも通りの私。
ゆっくりドアを開けた。
重い音にベルの軽やかな音が重なって、外のひんやりした空気が全身を包む。
「え、えっと」
前のめりになった言葉に意味は追い付けない。
「……忘れ物、持ってきたよ」
白河さんはそう言いながら、ゆっくりと近づいてくる。
玄関から漏れた照明が照らす彼女の表情からは、何も感じ取れない。
「あ、ありがと、う」
意図せず自然に落ちた言葉も、なぜか詰まる。
別に、いつも通りだ。
私は何にも変わってない。ちょっとだけ体調が悪いだけ。
そう言い聞かせても、心臓は大人しくしてくれない。
「はい。これ」
冬の気配を感じる夜の風と変わらない温度で、白河さんは平然と。
彼女の手には私のリップが握られていた。
それを受け取ると、白河さんが微笑んだ。
玄関のドアが閉まって、オレンジ色の淡い照明が消える。白河さんの真っ白い肌が夜の青さを纏う。
表情が見えなくなって、乱れた呼吸が少し落ち着く。
私を待っているわけでもないだろうけど、時間が止まっている。
「ね、なんで家わかったの?」
「先生に聞いたから……まあ、教えてくれたよ。家近いからついでに届けるって言ったら」
「え、近いっけ。どっち口から出るの?」
最寄りが一緒なのは、なんとなく知っていた。だけど、中学校も小学校も違うから近所ではない。
白河さんがリップを届けてくれたのは、”ついで”じゃない。
真面目さからくる行動なんかじゃ、たぶんない。
そう思いたいような、それじゃダメなような。
「……西だけど」
「それって、真反対じゃん」
「……じゃ、またね」
「ちょ、ちょっと」
手を伸ばしたらもう、白河さんは居なかった。
スマホを開いたけど、通知はない。
白河さんとのトーク画面を開いて、文字を打ち込んだ。
まだ既読はついていないけど、別にいい。
いつもの私なら、素直に感謝を伝える。だからそうすればいい。
それだけだ。余計な感情はなくて、ただ当たり前のことをするだけ。
みんなに対する態度と変わらない、常識的で、明るい言葉を。
『ありがとう!』
それだけ送って、すぐにスマホをしまった。
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