4話 寒い風
戻れないかも
マネキンに巻かれた赤いマフラーを触る。見た目より薄っぺらいけど、ないよりは多分マシ。
「マフラーほしいね!」
「そうだね。そろそろ寒いよね」
やや下に視線を向けると、声の主が消えていた。
小さい子供みたいで目が離せないな、とカーディガンのポケットに手を突っ込んで歩き出すと、後ろからバタバタとうるさい足音が聞こえて振り向く。
「これ似合いそうー」
守屋が紺色のマフラーを掲げた。
「うん、確かに」
派手なやつよりも、落ち着いた色が好きだ。私が普段身につけるものも、暗い色のものばかり。今着ているカーディガンも、黒だ。暗い色の方が好きだし、似合うから。
守屋は何も考えていないように見えて、案外私のことをよく観察している。
「でしょっ!これ買おうよ〜。きっと後で必要になるからさー」
「買おうよって……まあ、アリかな」
来週にはもう最高気温が15℃を切る。今買って損はない。それに自分のセンスを信じるより、守屋のセンスに賭けた方がいい。
マフラーを受け取って、そして、セルフレジで支払いを終えた。2990円。まあ、その価値は十分にあるし、手触りから考えるとむしろ安いくらいだ。
「つけて!」
「え?あー」
店の外を歩く人で、マフラーをつけた人はいない。だけど守屋が目をキラキラさせているから仕方ない。
雑に巻いてみる。守屋が大袈裟に喜ぶ。
「似合ってる!かわいい!」
「そう?ならよかった。ありがとね」
彼女の言葉に深い意味はない。だからこそ、私も自然に感情が漏れ出す。たぶん今、頬が緩んだ。
「えへへ、センスには自信あります!」
守屋は誇らしげにドヤ顔をして、くるっと回る。そして私の前を歩き出す。行き先なんか考えていないだろうけど、とりあえずついて行く。前を歩く彼女から漂う、素朴な、ミカンみたいな柔軟剤の香りが少しだけ気分を緩めてくれる。守屋は身長も顔立ちも、香りさえも中学生の時から何にも変わってない。
「どっか行く?」
守屋の行先はわからないけど、どこかに連れて行ってほしいと思った。どうせ家に帰ってもやることがないし、守屋と過ごす時間は心が落ち着く。
「んー、今日わたし塾なんだよね……」
「そっか。じゃあ駅行こう」
私は歩いて帰ったほうが早いけど
「送ってくれるの?」
「うん。マフラー選んでくれたから」
「め、めずらしい。明日は雪だ!」
「大袈裟だね。気まぐれだよ」
いつもだったら、ここでお別れ。
だけど今日は、そうじゃない。守屋と一緒にいる時間で感じる心地よさの正体を知りたいと思ったから。
煌びやかなショッピングモールを出て、ガラス張りの連絡通路を抜けると、すぐに改札。
「じゃあ、また明日」
「うん!ありがとね」
人目を憚らず大きく手を振る守屋に、小さく手を振り返す。改札を通った後に振り返って、また手を振ってきたから振り返す。
彼女の姿が見えなくなってから、人の波に逆らって歩き出す。
ショッピングモールに入ると、大きな笑い声が聞こえてくる。聞き覚えがあるような、ないような。
いや、あの子達――佐野さんと、その友達だ。
よりにもよって、最悪。
別に嫌いなわけではない。だけど、佐野さんと私の間には得体の知れないものがある。最初は、お金だけだった。だけど、この前、それが少し変わった。なんとなく、下を向いた。
あの時の出来事は、避ける理由として充分で。
近づいてくる足音と話し声を遮断したくても、耳は閉じられない。下を向いて、歩く速度を上げる。もっと音が近づく。
心臓がうるさくなる。理由は、きっと焦り。
佐野さんの顔を見るのが怖かった。
昨日、私は自分のルールを自分で破った。
隣を空けた。自分と佐野さんを繋ぐものが、曖昧になった。
“それ”が何かはわからなかったけど、いやわからなくていい。でも、あの部屋の外で彼女と会う回数が増えるとわかってしまいそうで怖い。
どくどくと心臓が暴れて、胸骨が揺れる。
佐野たちとすれ違った。
彼女たちから漂う香りは豪奢で、甘く、華やかだった。だけどその中から佐野さんの甘い香りは見つからなくて、安心した。
私はきっと、彼女の香りを覚えている。高い香水の派手な甘さも、その奥に隠れた彼女そのものの、熱を帯びた香りさえも。
だから、彼女の匂いを感じなくてよかった。覚えているということを認めたくないから。
そして視界の端に映ったのは佐野さんじゃなくて、安積さんだった。小さな頭を隣にいる誰かにくっつけて、大きな声で笑っていた。
私はあんなに大きな声で笑えない。佐野さんと一緒にいれば、違うのかな。お金を払わずに過ごした佐野さんとの時間は、何か見えそうで何も見えなかった
じゃあ、また――
またハグをすれば、見えなかったことが。わからなかったことがわかるように、なるのかな。
変なことばかり考えていると目の前の景色がぼやけていく。そして、体が傾く。
咄嗟に手すりに掴まると、変な汗が額から垂れて、心臓の音が身体の内側から聞こえてきた。
今のは少し危なかった。血液の流れを未だに感じるくらいには、焦ったんだと思う。
だけどこれはなんか違う。転びそうになって、怖くなって、体が反応しただけ。
佐野さんに触れたときの胸の痛みは、これじゃない。
彼女といるときの痛みの正体を知りたいけど、知ってはいけないような気もする。だからいまするべきことは、家に帰ること。帰って、いつも通りに家事をすることだ。
そのまま手すりを伝って階段を降りると、あたりは一気に暗くなった。人の通りも減って、足の間を通り抜ける風も冷たい。
マフラーはまだ要らないけど、薄いカーディガン一枚では少し、肌寒い。
乾かない冷や汗のせいで、余計に寒い。寒いし、つまらない。
人が多いのも嫌いだけれど、退屈なのはもっと嫌い。
守屋が居れば鬱陶しいくらいには暇がなくなるし、佐野さんを抱きしめていれば、嫌でも暑くなるのに。
足元が赤色に染まって、立ち止まる。ここの信号は長い。
落ち着かなくて、スマホを取り出す。『明日空いてる?』とだけ送って、すぐにポケットにしまう。
別に、会いたいとかじゃない。戻したいのだ。お金を払ってハグされるってだけのつながりに。
公園で起きたことは大したことじゃない。なんとなく家に帰るのが嫌で、昼の残りを食べていた。そしたら、佐野さんが現れた。追い払う理由もなかっただけ。それだけ。
そのはずなんだけどなぜか、今になって後悔している。
正体の分からない不快感をなくすためには、またあの部屋で彼女に会うしかない。それだけだ。
何のためにお金を払っているのかはまだわからない。私にとって1000円がどれだけ重くて、あの時間の意味がその価値に見合うのかもわからない。でも昨日、わかりそうになってしまった。お金を払っている時間じゃないのにも関わらず。だから今はとりあえず、リセットしたい。
私の足音がだけが響く路地を抜けて、玄関のドアを開ける。真っ暗な部屋の電気をつけて、カバンをソファに放り投げる。リモコンを拾ってテレビをつける。
ポケットに手を伸ばしかけて、止める。スマホを開くとそのままだらけてしまうし、今日は……佐野さんからの返信が気になってしまう。手を動かさない代わりに足を動かすことにして、キッチンに向かう。やるべきことは明確で、だけど余計なことを考えてしまって、なぜか鼓動が早い。
冷蔵庫に入っていた作り置きを電子レンジに突っ込む。急ぐ必要なんか無いのに、どうしてか勢いがついて、電子レンジの扉が大きな音を立てて閉まった。そして、手持ち無沙汰になってしまう。
――駄目だな、私。
気が付いたらスマホを開いていた。
ホーム画面に通知が二件。一瞬だけ、佐野さんからの返信を知らせる通知の上で、指が止まる。
言葉にできない、してはいけない妙な熱が、頭に集まってくる。
思ったよりも、早かった。
友達と一緒に居た佐野さんは、私のことなんか気にも留めないと思っていた。
いや、返信することくらい大したことじゃないってだけなのかもしれないけど。
通知を開くと、二つの吹き出しが目に入る。
『ごめん!明日は空いてないな……』
『ちょっとしばらく厳しいかも』
なんて返すのが正解かはわからないし、なんだか喉のあたりが苦しくなった。
だから、何も返さずにスマホをしまった。
佐野さんから誘ってくることはない。
いつも、私からだったから。このまま時間が経ったらきっと佐野さんは私のことを忘れて、私は支払った1万円の存在も忘れてしまうだろう。
もしそうなったら、元の日常に、戻れるのだろうか。
心のどこかで佐野さんの温度と香りを欲しがるような、わけのわからない今の状態から、均衡のとれた今までの私に、戻れるのだろうか。
心臓はまだ、うるさい。
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