1000円の価値
佐野さんからの返信は意外と早いし、日にちが過ぎるのはもっと早い。
「連絡来ないと思ってた」
端に寄せられた、椅子が重ねられた机の上にカバンを置きながら言った。
「私もだよ」
マットに消臭スプレーをかけながら佐野さんが答える。
「他の人は来なかった?」
「うん。てかそもそも遥が飽きちゃったみたいでさ。あ、あのアカウント動かしてんの私じゃないんだよ」
「そう」
自分からこんな商売を始めよう、というわけではないことに少し安心した。友達同士の悪ノリの延長ってことだろう。
「じゃあ」「だけど」
言葉が被って、代わりに沈黙が流れる。
目配せで合図すると、佐野さんが笑った。
「だけどさ、お金はもらってるし、続けるよ」
「返してくれれば続けなくていい」
別に、返して貰わなくたって、やめたければやめればいい。だけど、そうなると私はただの悪ふざけに乗せられただけ。お金は返してもらうべきだ。
「いやそれは無理。もう使ったし」
「金遣い荒いね。想像通り」
「一言余計。みてこれ」
佐野さんは、じゃじゃーん、と小さくて綺麗な装飾が施されたガラス瓶を掲げる。
「香水?」
「そうそう。欲しかったんだー。嗅いでみる?」
「別に。だってハグするじゃん」
「そーだけど」
佐野さんは笑顔を絶やさない。最初に会った日よりもなんだか少し、顔が柔らかい。
「……じゃ、早くしよ」
私は客でしかない。だから、変に距離感を詰められても困る。今日もさっさとハグをして、新しい香水に代わった私の1万円を確かめて帰るべきだ。
「そんな急かさないでよ。ちょっと喋ろうよ。ハグして終わりって味気なくない?」
「それでいいじゃん。だって、ハグセラピーなんでしょ」
「うーん、まあそうだけどさ。私、結構待ったんだよ?1人で、30分も」
私を責めるように、口調が少し強い。待たせたことは申し訳ないと思うけど、責められると謝りたくなくなるのが人間だ。
「今日がいいって言ったのはそっち。待ちたくないなら別日にすればよかったのに」
待たせたことに関して、100%私が悪いわけじゃない。だって、今日は私の補習の日。だけど、佐野さんは直近で空いてるのは今日しかないと言ってきた。だからこんなことになったのだ。
「えー、だって今日くらいしかないし。明日は委員会あるし、明後日は遥たちと遊ぶし」
「別にいつでもいいのに。もういいや」
これ以上このやりとりを続けていても、意味はない。そう判断したから上靴を脱ぐ。そしてマットの上に座る。
「どう?匂いする?」
少し距離があるから、まだわからない。
「わかんない。早くして」
「もー、色々話したいんだよ。だって、私白河さんのこと、全然知らないし」
「知らなくていいじゃん。私、客だよ」
「それでもさ、知らない人とハグって、なんかさ、意味わかんない」
ハグに何を求めているのか、私だってわからない。
恋人でもない2人が抱き合って、何が生まれるのか。
私は別に佐野さんのことを性的に好きなわけじゃないから、欲望が満たされるわけじゃない。佐野さんだって多分そうだ。
「意味?そんなの……ないでしょ」
でも、何かしらの意味はあって欲しい。
1万円分の意味があるべきだ。
10回のうちで、何かしらを見つけたい。
「変なの」
「変でいいから」
体を近づけて、腕を広げる。
少し離れた佐野さんの体をぐいっと抱き寄せると、柔らかい感触が腕に伝わる。
そして、この前よりも甘ったるい、果物みたいな香りが鼻に広がる。
確かに、少し高そう。それだけだ。
胸がうるさいけど、香水のせいだ。
「いい匂いする。こっちの方が好きかも」
「そ、そうなんだ」
佐野さんは消えるような声で答える。
「なんで新しいの買ったの?」
「そ、それは……なんとなく?」
佐野さんの力が緩んだから、強く抱きしめる。
声が漏れる。
「そっちの方がモテるの?」
「モ、モテるとかそういうのじゃ、ないし」
声に息が混ざっている。
佐野さんはモテる。だから遊んでいそうだしハグには慣れていそうだけど、意外とそうでもないのかもしれない。
「へえ、男好きっぽいのにね」
「きゅ、急にうるさいな。さっきは喋ってくれなかったのに」
「うるさい?確かに耳元だしね」
荒くなってきた息を抑えるのをやめて、声に吐息を混ぜる。
この時間にきっと意味はない。ないけど、数学よりは楽しい。
佐野さんの耳に息を吹きかけると、腕の中の彼女が身じろぎした。
「弱い?」
「……う、うるさい」
「じゃあ、もっと静かにする」
口元を耳に近づける。 わざと囁く。
佐野さんは、エロいことの知識がないわけじゃないはずだ。
きっと抵抗する。『これそういうのじゃないから』とか言って突き放してくる。
そう思ってたのに。
「……ん」
佐野さんは、声を漏らすだけ。そして。
背中に回された腕が、ぐいっと食い込む。
温度が激しく流れ込む。
香水の甘さの奥から、熱を帯びた肌の匂いが滲み出した。
人工的な甘さとは違う、知らない匂い。
不快じゃない。じゃない。むしろ、心地いい。
なのに、心臓が暴れ始めて、息が苦しい。
腕の力を抜く。
だけど、佐野さんの力は強くなる。
ぐいっと抱きしめられて、体がめり込みそう。
知らない感触が、初めての温度が、全身にぶつかる。
「……おわり」
「……」
佐野さんは何も言わない。
「ねえ」
「……あ、え?なんて」
「もう終わり。放して」
体を締め付ける力が一気に緩んで、体が仰反る。
「力強すぎ」
目線に抗議を乗せる。
「そっちもじゃん」
佐野さんが対抗してくる。表情は硬いし、声も鋭い。
教室では見せないであろう表情だ。
「いいじゃん、それは」
「なんでよ、ズルじゃん」
「私、お客さんだもん」
「それ、関係なくない?」
「関係ある」
「……」
佐野さんは黙り込む。口喧嘩が弱いし、押しにも弱い。
「じゃあ、またね」
「待ってよ」
立ちあがろうとすると、スカートの裾を掴まれる。
「なに」
「……香水、どうだった?」
「気に入った。私は好き」
「そっか」
「じゃあね」
香水の香りは嫌いじゃない。
前につけていたものよりも甘くて、だけどくどくない。
しかし脳にこびりついた匂いは、香水じゃない。
あの匂いは私の中で、1000円なんかよりもずっと、重たい。
それが、ちょっと腹立たしい。
――
曖昧な意識の中で、チャイムの音だけが輪郭を持つ。
そして。
夢とも現実ともつかない柔らかさが、背中を包み込んだ。
――佐野さんだ。
机に足がぶつかって、目が醒める。
「……なんじかんめ?今」
骨を伝う私の声は不明瞭で、舌足らず。
「6時間目!ずっと寝てたね〜」
独り言のつもりだったけど、後ろにいた守屋が叫んだ。
「……授業面白くないし、しょうがない」
「出たそれー」
「うるっさいな……頭痛い」
「今日さー、どっか行かない?お腹すいた」
「いいけど、別に」
「やったー」
昨日の出来事が、温度がまだ残っている。眠気が、曖昧な感触を伴って。
1000円の価値も、あの時間の意味もわからない。
――だけど。
もう一度、確かめたい。
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