第10話 生存への賭け
エテルノスの片腕が地面に転がり、その巨大な身体が膝をついている光景は、城壁の上の兵士たちから全ての希望を奪い去った。死神のような鎌を持つ二足歩行の機械は、倒れかけたエテルノスに向かって、さらなる攻撃を加えようとしている。その動きは、四足歩行の獣たちとは比較にならないほど速く、まるで訓練された剣士のように流麗であった。
公爵宮殿の玉座の間では、レオノーラ公爵が立ち上がっていた。彼女の元には、城壁からの緊急報告が次々と届いていた。エテルノスの敗北、そして、新たな敵の出現。彼女の顔には、深い絶望が浮かんでいたが、しかし、その瞳にはまだ諦めの色はなかった。彼女は、側近たちを見渡し、静かに、しかし力強く命じた。
「全ての市民を、北の裏門へと誘導せよ。帝国へと続く街道を使い、できる限り多くの民を避難させる。これは命令である」
その言葉に、大臣たちは驚愕の表情を浮かべた。首都を捨てるのか。しかし、レオノーラの決意は揺るがなかった。彼女は、国のために兵士たちを玉砕させるという選択肢を選ばなかった。たとえ僅かな望みであっても、生き延びる道を選んだのである。
「兵士たちには、鉄の獣を引きつける役目を与える。民衆が脱出する時間を、一分でも長く稼ぐのだ」
レオノーラの命令は、直ちに伝令によって城壁の上のジェルドの元へと届けられた。ジェルドは、その命令を受け取り、深く頷いた。彼もまた、最後まで戦うことを覚悟していた。しかし、それは無駄死にではない。民衆を救うための時間稼ぎである。
「全軍に告ぐ! 我々の任務は、民衆が首都から脱出する時間を稼ぐことだ! 鉄の獣どもに、我々の存在を知らしめよ!」
ジェルドの叫びが、城壁全体に響き渡った。兵士たちは、その命令に従い、再び弓矢を構えた。そして、投石器が城壁の各所に配置され始めた。投石器は、大きな石や鉄の塊を投げつける古い兵器であったが、今や彼らに残された数少ない攻撃手段の一つであった。
一方、首都の市街では、兵士たちが民衆を誘導し始めていた。通りには、突然の避難命令に動揺する市民たちが溢れかえっている。母親たちは子供の手を引き、老人たちは杖をつきながら必死に歩く。商人たちは、財産を詰め込んだ荷車を引いている。しかし、兵士たちは彼らを急かし、裏門へと向かわせた。
「落ち着いてください! 秩序を保って、裏門へと向かってください!」
「動揺しないでください! 必ず、帝国が我々を助けてくれます!」
兵士たちの声が、混乱する市街に響く。しかし、その声には、彼ら自身の不安も滲んでいた。本当に、全員が無事に脱出できるのだろうか。そして、自分たちは、生き延びることができるのだろうか。
裏門は、首都の北側、帝国へと続く街道に面していた。この門は、通常は物資の搬入に使われる小さな門であり、大勢の人間が一度に通過することは想定されていなかった。しかし、今や、この門が唯一の希望の出口であった。門の前には、既に数百名の市民が集まり、次々と外へと押し出されている。
案内兼護衛の騎士団、三百騎が先頭に立ち、避難民の列を誘導していた。彼らは、帝国へと続く街道を守り、民衆を安全な場所へと導く任務を担っている。騎士たちの顔には、緊張が浮かんでいた。もし、鉄の獣たちがこちらに気づけば、自分たちだけでは到底守り切れないことを、彼らは理解していた。
しかし、レオノーラの読みは正しかった。四足歩行の鉄の獣たちは、城壁の南側に集中しており、裏門の存在には気づいていないようであった。あるいは、気づいていても、城壁の上の兵士たちに注意を引かれているのかもしれなかった。
城壁の上では、ジェルドの指揮の下、投石器が次々と発射された。巨大な石が、空を切り裂いて飛び、鉄の獣たちに向かって落下した。いくつかの石は、四足歩行の獣の装甲に命中し、鈍い音を立てた。しかし、それらは、わずかに獣の動きを止める程度であり、実質的な損害を与えることはできなかった。
「弩を放て! 矢を放て! 奴らを近づけさせるな!」
ジェルドが叫び続ける。兵士たちは、必死に矢を放ち、弩を撃ち続けた。彼らの攻撃は、鉄の獣には通じなかった。しかし、それでも彼らは撃ち続けた。一分でも長く、敵の注意を引きつけるために。
しかし、二足歩行の死神のような機械は、あまりにも速かった。それは、城壁に向かって駆け出し、信じられないほどの跳躍力で城壁の上へと飛び上がった。兵士たちは、その光景に悲鳴を上げた。
「化け物が登ってくる!」
「逃げろ!」
二足歩行の機械は、城壁の上に着地すると、その両腕の鎌を振り回した。鎌は、兵士たちを次々と薙ぎ払い、彼らの身体を空中へと投げ飛ばした。血が飛び散り、悲鳴が響き渡る。ジェルドは、剣を抜いてその機械に斬りかかったが、鎌が彼の剣を弾き飛ばした。次の瞬間、ジェルドの身体は、鎌の一撃で城壁の外へと吹き飛ばされた。
城壁の防衛線は、瞬く間に崩壊した。兵士たちは、恐怖に駆られて逃げ出し、城壁の内側へと退却しようとした。しかし、四足歩行の鉄の獣たちもまた、城壁を乗り越え始めていた。彼らの巨大な脚が、城壁の石を踏み砕き、次々と首都の市街へと侵入してくる。
残る二千五百の兵士たちは、最後の抵抗を試みた。彼らは、市街の通りで鉄の獣たちと戦い、一人でも多くの民衆を逃がそうとした。しかし、その戦いは、あまりにも一方的であった。鉄の獣たちは、兵士たちを踏み潰し、掴み上げ、そして機体内部へと引き込んでいった。市街は、瞬く間に地獄絵図と化した。
裏門では、民衆が殺到していた。門は既に満杯であり、人々は押し合いへし合いしながら、必死に外へと出ようとしていた。子供が転び、老人が倒れる。混乱の中で、泣き叫ぶ声が響き渡った。
「押さないで!」
「子供が! 子供が潰される!」
騎士たちは、必死に群衆を整理しようとしたが、パニックに陥った民衆を制御することは困難であった。しかし、徐々に、人々は門を通り抜け、街道へと出ていった。その列は、まるで蟻の行列のように、首都から北へと延びていく。
レオノーラ公爵は、宮殿の窓から、その光景を見つめていた。彼女の心には、深い痛みが走っていた。自分の国が、今、崩壊しようとしている。しかし、彼女は歯を食いしばり、自らもまた、裏門へと向かう決意を固めた。
「公爵様、お急ぎください! もう時間がありません!」
侍従が、彼女を急かした。レオノーラは、一度だけ首都を振り返り、そして馬車へと乗り込んだ。彼女を護衛する騎士たちが、馬車を取り囲み、裏門へと向かった。
市街では、依然として戦いが続いていた。兵士たちは、次々と倒れていった。しかし、彼らの犠牲は、無駄ではなかった。鉄の獣たちは、兵士たちの抵抗に足止めされ、裏門へと向かうことはなかった。民衆は、その間に、少しずつ、しかし確実に首都から脱出していった。
やがて、最後の民衆が裏門を通り抜けた。そして、レオノーラ公爵の馬車もまた、門を出た。護衛の騎士たちが、門を閉じようとしたその時、市街から悲鳴が聞こえた。鉄の獣たちが、ついに裏門の存在に気づいたのである。
「急げ! 門を閉じろ!」
騎士たちが叫び、門を閉めようとした。しかし、その時、二足歩行の死神のような機械が、市街の向こうから姿を現した。それは、凄まじい速度でこちらへと駆けてくる。騎士たちは、恐怖に顔を引きつらせた。
「間に合わない……」
しかし、その時、城壁の一部が崩れ落ち、瓦礫が通りを塞いだ。それは、偶然か、あるいは最後まで戦っていた兵士たちの仕掛けた罠か。二足歩行の機械は、その瓦礫に阻まれ、一瞬だけ動きを止めた。
その隙に、門は閉じられた。騎士たちは、安堵のため息をつき、そして民衆の列を急がせた。
エリシア公国首都エリシオンは、今、鉄の獣たちの手に落ちた。しかし、民衆の多くは、生き延びることができた。彼らは、帝国へと続く街道を、ひたすらに北へと歩み続けた。
レオノーラ公爵は、馬車の窓から、遠ざかっていく首都を見つめた。その美しい白亜の建物は、今や煙に包まれている。彼女の心には、深い悲しみと、そして僅かな希望が交錯していた。
「必ず、戻ってくる……。エリシアは、決して滅びはしない」
彼女の呟きは、誰に聞かせるでもない、自らへの誓いであった。
避難民の列は、数万にも及んだ。彼らの顔には、疲労と不安、そして僅かな希望が浮かんでいた。空は曇り、時折冷たい雨がぱらつく。まるで、エリシア公国の運命を暗示しているかのようであった。
しかし、彼らの背後には、依然としてあの鉄の獣たちの影が忍び寄っているかもしれない。エリシア公国の民衆の、生き残りをかけた長い旅が、今まさに始まろうとしていた。
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