第2話 廃墟と沈黙

朝霧が深く、森の樹々を白く覆い尽くしている。その中を、一台の荷馬車が軋んだ音を立てながら進んでいた。


御者台に座る男の名は、ヴァルター・カールマン。齢五十三になる行商人である。長年、エリシア公国の南部地域を巡り歩き、村々に日用品や布地、時には連邦製の珍しい品々を届けることで生計を立ててきた。その顔には深い皺が刻まれ、風雨に晒された肌は日に焼けて黒ずんでいる。しかし、その目は依然として鋭く、長年の経験が培った商人特有の洞察力を湛えていた。


彼が今向かっているのは、カスティーナ村である。人口二百人ほどの小さな村で、ヴァルターは年に四度ほど、この村を訪れていた。村人たちは彼を「ヴァルターのおじさん」と呼び、親しく迎え入れてくれる。特に子供たちは、彼が持ってくる砂糖菓子や色とりどりのリボンを楽しみにしていた。ヴァルターにとって、カスティーナ村は単なる商売の場所ではなく、長年の付き合いが育んだ第二の故郷のような存在であった。


荷馬車は、森を抜ける細い道を進んでいく。普段ならば、この時間にはすでに村の鐘楼が見えているはずであった。しかし、今日は霧が濃く、視界が極端に悪い。ヴァルターは手綱を握る手に力を込め、馬に注意深く声をかけながら進んだ。道の両脇には雑草が生い茂り、時折、折れた木の枝が道を塞いでいる。


やがて、森が開け、村の入り口が見えてきた。しかし、そこで目にした光景に、ヴァルターは馬を止めざるを得なかった。


村の入り口付近にあったはずの木造の門柱が、根元から折れて地面に倒れていた。その破壊の仕方は、まるで何か巨大な力が加えられたかのように、木材が無残に砕け散っている。ヴァルターは荷馬車から降り、慎重に門柱に近づいた。その破断面を見て、彼は息を呑んだ。木材は、まるで何か鋭利な刃物で切断されたかのように、あまりにも綺麗に断ち切られていたのである。


「これは……一体……」


ヴァルターの呟きは、霧の中に消えていった。彼は不吉な予感を抱きながら、さらに村の中へと足を踏み入れた。馬を荷馬車に繋いだまま、徒歩で進む。霧が少しずつ晴れ始め、視界が開けてくると、彼の目に映ったのは、信じがたい光景であった。


村の家々が、まるで巨大な獣に踏み潰されたかのように、破壊されていた。屋根は崩れ落ち、壁は粉々に砕け、梁は折れ曲がっている。しかし、その破壊の様子は、火災や自然災害によるものとは明らかに異なっていた。木材は焦げてはおらず、風で吹き飛ばされたような散乱の仕方でもない。それは、何か圧倒的な力によって、意図的に破壊されたかのように見えた。


ヴァルターは、震える足で村の広場へと向かった。そこには、かつて村人たちが集まり、笑い声が響いていた井戸があった。しかし今、その井戸は半壊し、石組みが崩れ落ちている。地面には、巨大な足跡のようなものが、いくつも刻まれていた。それは、人間のものではない。獣のものでもない。まるで、金属の塊が地面を踏みつけたかのような、深く、規則的な痕跡であった。


「村の者は……どこに……」


ヴァルターは必死に声を上げた。しかし、返事はない。村全体が、死んだように静まり返っている。鳥のさえずりも、虫の羽音も聞こえない。ただ、風が廃墟の間を吹き抜ける音だけが、不気味に響いているだけであった。


彼は、一軒一軒、家の中を覗いて回った。しかし、どこにも人の姿はない。家具は散乱し、食器は割れ、衣類が床に散らばっている。まるで、住人たちが何かから逃げるように、慌てて家を飛び出したかのような痕跡が残されていた。しかし、血痕はない。遺体もない。ただ、人々がある日突然、この村から消えてしまったかのように、何も残されていなかった。


ヴァルターは、恐怖と混乱で頭が真っ白になるのを感じた。彼は長年、この地域を旅してきた。山賊や盗賊の類も知っている。しかし、このような破壊の跡は、一度も見たことがなかった。山賊であれば、家財を略奪するだろう。しかし、ここにはまだ価値のある品々が残されている。火事であれば、焼け跡が残るはずだ。しかし、焦げた木材は一つもない。


最も恐ろしいのは、村人が一人も残っていないということであった。二百人の人間が、跡形もなく消えてしまうなど、一体どうすれば可能なのか。ヴァルターは、自分の足元を見下ろした。そこには、あの奇妙な足跡が、まるで村全体を這い回ったかのように、無数に刻まれていた。


彼は、集会場の方へと向かった。もしかしたら、誰かがそこに避難しているかもしれない。しかし、集会場は最も無残に破壊されていた。屋根は完全に崩落し、壁の一部は吹き飛んでいる。中に入ろうとしたヴァルターは、床に大きな穴が開いているのを発見した。それは、地下へと続く避難部屋への入り口であった。彼は慎重に穴の縁まで近づき、下を覗き込んだ。


地下の避難部屋は、天井が崩れ落ち、瓦礫で埋まっていた。しかし、そこにも人の姿はなかった。ヴァルターは、全身に冷たい汗が流れるのを感じた。この避難部屋は、村で最も頑丈な場所であったはずだ。それが、このように破壊されているということは、一体何が起こったというのか。


彼は、もはやこれ以上、この村に留まることができなかった。恐怖が彼を支配し、一刻も早くここから離れなければならないという本能が、彼を駆り立てた。ヴァルターは荷馬車へと走り、馬に鞭を入れた。馬もまた、この村の異様な雰囲気を感じ取ったのか、いつになく素早く走り出した。


荷馬車は、来た道を引き返していく。ヴァルターの頭の中では、ただ一つの考えだけが渦巻いていた。役人に知らせなければならない。この異常事態を、一刻も早く公国の役人に報告しなければならない。


彼が向かったのは、カスティーナ村から最も近い町、ミラノールである。そこには、エリシア公国の地方行政を担当する役所があり、数十名の役人と、わずかながら公爵親衛隊の出先機関も置かれていた。町までは、荷馬車で約三時間の道のりである。ヴァルターは、馬に鞭を入れ続け、可能な限り速く進んだ。


昼過ぎ、ようやくミラノールの町が見えてきた。町の門をくぐると、彼は真っ先に役所へと向かった。荷馬車を乱暴に止め、飛び降りるようにして建物の中に駆け込む。そこでは、数人の役人が書類仕事をしていた。


「大変だ! カスティーナ村が……村が……!」


ヴァルターの叫び声に、役人たちは驚いて顔を上げた。彼の姿は、泥と汗にまみれ、顔は蒼白で、まるで幽霊でも見てきたかのようであった。


「落ち着いてください。何があったのですか?」


若い役人が、椅子から立ち上がり、ヴァルターに近づいた。ヴァルターは、荒い息をしながら、必死に説明しようとした。


「カスティーナ村が……破壊されているんだ! 家々は粉々に壊され、村人は一人もいない! 全員が……消えてしまったんだ!」


役人たちは、顔を見合わせた。彼らの表情には、困惑と疑念が浮かんでいる。カスティーナ村は、この地域でも平和で静かな村として知られていた。そのような村が、突然破壊され、住民が消えるなど、にわかには信じがたい話であった。


「本当なんだ! 信じてくれ! この目で見てきたんだ!」


ヴァルターの必死の訴えに、役人たちもようやく事態の深刻さを理解し始めた。若い役人は、奥の部屋へと走り、上司を呼びに行った。やがて、中年の役人が現れた。彼の名は、ルシウス・ベルトラン。ミラノール町の行政長官である。


ルシウスは、ヴァルターから詳しい話を聞いた。村の破壊の様子、人々の消失、そして地面に残された奇妙な足跡。ヴァルターは、震える声で、見てきたことの全てを語った。ルシウスは、深刻な表情で頷きながら、それを聞いていた。


「分かりました。直ちに調査隊を派遣します。しかし、もし本当にそのような事態であれば、これは町だけでは対処できません。首都にも報告が必要です」


ルシウスは、部下たちに指示を出し始めた。公爵親衛隊の兵士たちを集め、調査隊を編成する。同時に、首都エリシオンへの早馬も準備された。ヴァルターは、その場で椅子に座り込み、頭を抱えた。彼の心の中には、村人たちの顔が次々と浮かんできた。パン屋のマリサおばさん、村長のバルトロメオ、そして、いつも砂糖菓子をねだってきた子供たち。彼らは、一体どこへ行ってしまったのか。


翌日の朝、調査隊が出発した。隊長は、公爵親衛隊の騎士であるアルベルト・ダ・フォンセカ。三十代半ばの、経験豊富な騎士である。彼の下には、兵士が二十名、そしてミラノール町の役人が数名同行した。ヴァルターも、道案内として同行することになった。


調査隊は、馬に乗り、武装を整えてカスティーナ村へと向かった。道中、アルベルトはヴァルターに何度も状況を確認した。彼の表情は厳しく、警戒心が強く表れていた。ヴァルターの報告が正確であれば、これは単なる山賊の襲撃などではない。何か、未知の脅威が存在する可能性があった。


昼過ぎ、調査隊はカスティーナ村に到着した。霧はすでに晴れており、村の惨状が白日の下に晒されていた。


アルベルトは、馬から降りると、部下たちに警戒を命じた。兵士たちは剣を抜き、周囲を警戒しながら村の中へと進んでいく。役人たちは、その後に続いた。彼らが目にしたのは、ヴァルターが語った通りの光景であった。いや、実際にその場に立つと、その惨状はヴァルターの言葉以上に衝撃的であった。


「これは……一体……」


アルベルトは、崩れ落ちた家々を見回しながら呟いた。彼は長年、騎士として様々な戦場を経験してきた。しかし、このような破壊の跡は、一度も見たことがなかった。火攻めでも、攻城兵器でもない。まるで、何か巨大な力が、村全体を踏み潰したかのようであった。


役人の一人が、地面に残された足跡を指差した。それは、明らかに人間や動物のものではなかった。幅は一メートル以上あり、深さも数センチに達している。金属質の何かが、この地面を踏みしめた痕跡であることは間違いなかった。


「まさか……魔術師の領地の何か、でしょうか?」


若い役人が、恐る恐る尋ねた。魔術師の領地は、時折、不思議な魔法装置や召喚獣を作り出すと聞く。しかし、アルベルトはその可能性を否定した。


「魔術師の領地がこのような遠隔地で活動する理由はない。それに、彼らの召喚獣は生物だ。これは……金属の何かだ」


調査隊は、村全体を丁寧に調べていった。しかし、どこにも村人の姿はなかった。遺体すらも発見できない。まるで、二百人の人間が、空気の中に溶けて消えてしまったかのようであった。


集会場の地下避難部屋を調べた兵士が、報告に戻ってきた。


「隊長、地下室も破壊されています。天井が崩落し、内部は瓦礫で埋まっていますが……人の姿はありません」


アルベルトは、深く息を吐いた。この村で何が起こったのか、まだ誰にも分からない。しかし、一つだけ確実なことがあった。それは、この破壊が人間の手によるものではないということだ。そして、村人たちは、何者かによって連れ去られた可能性が高いということである。


「野盗の仕業ではありませんな」


ルシウスが、アルベルトの隣に立ち、呟いた。彼の顔には、深い不安が浮かんでいる。


「ええ。野盗であれば、家財を略奪し、建物に火を放つでしょう。しかし、ここには略奪の痕跡がない。それに、この破壊の仕方は……何か、機械のようなものを感じます」


アルベルトの言葉に、ルシウスは眉をひそめた。機械。確かに、地面に残された足跡は、まるで巨大な機械が歩いた跡のように見える。しかし、そのような機械を作れる勢力が、この大陸にあるだろうか。ザルティス連邦は蒸気機関の技術で知られているが、人を襲うような兵器を開発しているという話は聞いたことがない。


調査隊は、その日一日をかけて村を調べ上げたが、新たな手がかりは見つからなかった。夕暮れが近づき、アルベルトは撤退を命じた。この村で夜を明かすことは、危険すぎる。もし、村を破壊した何かが再び現れたら、彼らも同じ運命を辿るかもしれなかった。


調査隊は、ミラノールへと戻った。そして、その夜、アルベルトは詳細な報告書を作成し、早馬で首都エリシオンへと送った。報告書には、村の破壊状況、村人の消失、そして地面に残された奇妙な足跡の詳細が記されていた。彼は報告の最後に、こう記した。


「カスティーナ村を襲ったのは、人間ではない。それは、未知の何かである。もし同様の事件が他でも発生しているならば、公国は未曾有の危機に直面している可能性がある。至急、対策が必要である」


首都エリシオンでは、レオノーラ公爵がこの報告を受け取り、青ざめた。彼女は直ちに幹部会議を招集し、対策を協議した。しかし、誰も明確な答えを持っていなかった。魔術師の領地への問い合わせ、宗主国であるヴェルドラント帝国への救援要請、そして他の村々への警告。できることは全て行われたが、それでもなお、この未知の脅威に対して、エリシア公国はあまりにも無力であった。


カスティーナ村の廃墟は、その後も人が近づくことなく、静寂の中に放置された。そして、この廃墟こそが、アーレンシア大陸に訪れた新たな時代の、最初の証人となったのである。

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