魔王軍、ただいま人類救援中!~宇宙からの侵略? 知ったことか。世界の終わりを決めるのは我々だ~
DG
星の彼方よりの侵略者
プロローグ 動く星
天頂を巡る悠久の星々は、この世界が誕生してより、一度として正しき軌跡を外れたことなどなかった。
ザルティス連邦の首都ザルティス市。その北東区にある小高い丘の上、古びた三階建ての石造りの建物は、本来なら技師の作業場か商人の倉庫であったものを、学者が研究室に改装した痕跡を色濃く残していた。窓枠には油汚れが染みつき、石畳の床には長年の使用で無数の傷が刻まれている。そんな無骨な建物の最上階、狭い部屋の中央に据えられた真鍮製の大型望遠鏡は、しかし、この連邦において最も精巧な光学機器の一つであった。レンズは魔術師の領地から取り寄せた特殊な水晶を研磨したものであり、架台は連邦が誇る蒸気機関技術を応用した精密な追尾装置を備えている。
その望遠鏡を覗き込む男の名は、エドワード・コルネリウス。齢五十を越えた天文学者である。白髪が目立ち始めた頭部には、昼間の仕事の疲れが濃く影を落としていたが、それでも彼の青灰色の瞳には、夜空への尽きせぬ探求心が宿っていた。彼は昼間、連邦議会付属の技術顧問として蒸気機関の改良作業に従事し、夜になると、この私設の観測室で星々の運行を記録し続けるという、二重の生活を送っていた。それは生計を立てるための妥協であり、同時に、自らの情熱を守るための戦いでもあった。
今宵もまた、エドワードは窓の外に広がる夜空へと望遠鏡を向けていた。ザルティス市は大陸で最も賑やかな港湾都市であり、昼夜を問わず三百万の人々が行き交い、無数の灯火が煌めいている。それゆえに、夜空の観測には決して適した場所とは言えない。街の明かりは天空の微かな星々の光を掻き消し、港から立ち上る煙や蒸気は大気を濁らせる。しかし、エドワードには他に選択肢がなかった。連邦の学会からの支援はわずかであり、遠方の静かな山岳地帯に観測所を構える資金など、到底持ち合わせてはいなかったのだ。
この夜、彼が観測対象としていたのは、北方の星座群であった。羅針座、と呼ばれるその星々の配置は、航海者たちが方角を知るための指標として古来より親しまれてきたものである。エドワードは、数ヶ月にわたってその星々の位置を精密に記録し、僅かな位置のずれや明るさの変化を追跡していた。それは地味で、時には退屈とさえ思える作業であったが、宇宙の秩序を理解するための、必要不可欠な営みであった。
望遠鏡の接眼レンズに目を当て、微調整用のダイヤルを慎重に回す。視界の中に、幾つもの光点が浮かび上がってくる。それらは遠い遠い世界から届く、時間を超えた光であった。エドワードは、自らが手書きで作成した星図と、視界の中の星々とを照らし合わせながら、一つ一つの位置を確認していく。羅針座の主星、次いでその周囲を取り巻く幾つかの光点。全ては、彼が数週間前に記録した通りの位置に、変わらぬ輝きを放っていた。
ふと、エドワードの視界の端に、見慣れぬ光が映り込んだ。
それは、羅針座の主星からやや西側に離れた位置に存在する、六等星ほどの、肉眼では捉えることが困難な微かな光点であった。しかし、エドワードはその星の存在を知らなかった。彼が長年使い続けてきた星図には、その場所に星は記録されていない。新星か、あるいは彗星の接近か──そう考えた瞬間、彼の心臓が高鳴った。もしそれが本当に新たな天体であるならば、それは天文学者としての彼にとって、生涯に一度あるかないかの発見となる。
エドワードは慎重に望遠鏡の視界を調整し、その光点を画面の中央に捉えた。拡大率を上げ、さらに細部を観察しようと試みる。しかし、街の灯火がもたらす光害と、大気の揺らぎによって、その光点の詳細な形状を把握することは困難であった。それでも、一つだけ確かなことがあった。その光は、確かにそこに存在しているということだ。
エドワードは、卓上に置かれた羊皮紙のノートを手繰り寄せ、インク壺に羽根ペンを浸すと、その光点の位置を記録し始めた。日付、時刻、そして天球上の正確な座標。彼の手は、興奮によってわずかに震えていた。もしこれが新星であるならば、明日、いや数時間後には、その輝きは増しているかもしれない。あるいは、もしそれが彗星であるならば、その位置は刻々と変化しているはずだ。
記録を終え、エドワードは再び望遠鏡を覗き込んだ。その光点は、依然として変わらぬ輝きを放っていた──いや、待て。
彼の視界の中で、その光点が、ごくわずかに、しかし確実に、位置を変えていた。
エドワードは息を呑んだ。最初、それは自分の目の錯覚か、あるいは望遠鏡の追尾装置のずれによるものかと思った。しかし、彼は直ちにその可能性を否定した。追尾装置の精度は極めて高く、短時間でそのようなずれが生じることはあり得ない。そして、彼の目もまた、長年の観測によって鍛え抜かれており、このような微細な変化を見逃すほど鈍ってはいなかった。
その光点は、動いていた。
それも、星々が天球上を描く、天空の回転によるゆっくりとした見かけの動きとは、明らかに異なる軌跡を辿っていた。それは、まるで意志を持つかのように、不規則に、そして時折、急激に方向を変えながら、夜空の中を移動していたのである。
エドワードの背筋を、冷たいものが這い上がった。彗星は、確かに夜空を移動する天体である。しかし、その動きは、太陽の重力に引かれた、予測可能な放物線を描くものだ。惑星もまた動くが、その軌跡は黄道に沿った、規則正しいものである。しかし、彼が今、目の当たりにしているこの光点の動きは、そのどちらにも当てはまらなかった。それは、まるで生き物が空中を飛び回るかのような、不気味で、不可解な運動であった。
エドワードは震える手で、再びノートにペンを走らせた。光点の位置の変化を、時間を追って記録していく。数分が経過する間に、その光点は、彼の視界の中を、明らかに移動していた。そして、その動きには、ある種の規則性──いや、規則性というよりは、「パターン」とでも呼ぶべきものが存在するように思えた。まるで、何かを探索するかのように、一定の範囲を行き来し、時折、特定の方角へと急速に移動しては、また元の位置へと戻ってくるのである。
そして、エドワードの視界の中に、さらなる異変が映り込んだ。
最初の光点から少し離れた位置に、また別の、同じような光点が出現したのである。そしてそれもまた、同様の不規則な動きを見せていた。エドワードは慌てて望遠鏡の視野角を広げ、周囲を観測した。すると、北方の空に、同じような微かな光点が、さらに数個、確認できた。それらは全て、星々とは明らかに異なる、奇妙な動きをしていた。
エドワードの呼吸が荒くなった。額には、気づけば冷たい汗が滲んでいた。これは、一体何なのだ。新星でも、彗星でも、惑星でもない。まして、流星のように一瞬で消え去るものでもない。それは、まるで、何かの意志によって制御されているかのような、不自然な動きをする、複数の光点であった。
彼の脳裏に、一つの恐ろしい可能性が浮かび上がった。もしこれらが、天体などではなく、何か「別のもの」であったとしたら。例えば、魔術師の領地が開発しているという、飛行する魔法装置の類であったとしたら──いや、しかし、魔術師たちがこれほどの高高度を、しかも複数の機体で飛行させる技術を持っているという話は、聞いたことがない。
ならば、これは一体──。
エドワードは、もはや自分が何を見ているのか、理解できなくなっていた。ただ一つ、確実に言えることがあった。それは、自分が今、この瞬間、人類の誰も見たことのない、何か途方もなく異常な現象を、目撃しているということだ。そして、その異常さが、彼の心に、言いようのない不安と恐怖を植え付けていた。
どれほどの時間が経過しただろうか。エドワードは、ひたすら望遠鏡を覗き込み、それらの光点の動きを追い続けた。やがて、東の空がわずかに白み始め、夜明けが近づいてくると、それらの光点は、まるで闇に溶け込むかのように、一つ、また一つと、視界から消えていった。そして、最後の一つが消えた時、エドワードはようやく、望遠鏡から目を離した。
彼の顔は蒼白で、全身が震えていた。背中には、夜通しかいた冷たい汗が、シャツに張り付いている。彼は椅子に深く腰を下ろし、両手で顔を覆った。
「何を……見てしまったのだ、私は……」
エドワードの呟きは、誰にも聞かれることなく、夜明けの薄明かりの中に消えていった。彼の手元には、羊皮紙のノートに記された、無数の座標と時刻の記録だけが残されていた。それは、この世界に訪れようとしている、未曾有の異変の、最初の記録であった。
ザルティス市の街は、やがて朝日に照らされ、いつもの賑やかな一日を迎えようとしていた。港からは船の汽笛が響き、市場では商人たちの声が飛び交い始める。しかし、その喧騒の中で、一人の老学者だけが、言いようのない戦慄を胸に抱えたまま、窓の外の空を見上げ続けていた。その空は、昨日までと何も変わらぬように見えた。しかし、エドワードは知っていた。あの夜空の向こうに、何か恐ろしいものが潜んでいることを。
彼の背中を流れる冷たい汗は、まだ乾くことはなかった。
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