大罪人の娘・本編

いずもカリーシ

第壱節 日本で最も富む国へと嫁いだ娘

娘は、日本で最も富む国へと嫁いでいた。


その国の名前は『摂津国せっつのくに』と言い……

現在の大阪府大阪市、吹田市、摂津市、茨木市、高槻市、豊中市、池田市、兵庫県神戸市、尼崎市、西宮市、芦屋市、明石市、伊丹市、宝塚市などを含んでいる。


それにしても。

800年以上にわたって帝都として栄えた『京の都』を含む山城国やましろのくにでもなく、海外から東洋のベニスと呼ばれ日本一の繁栄を誇る都市とうたわれた『堺』を含む和泉国いずみのくにでもなく、摂津国せっつのくにが日本で最も富む国であったのはなぜだろう?


 ◇


1574年晩秋、祝言の翌朝。


凛は夫より先に目覚めた。

とても浅い眠りで何か夢を見ていたはずが、その内容は覚えていない。

外は少し早い雪が降っている。


寝息を立てている夫を横目に……

彼女は昨夜の出来事を思い出していた。


「婚礼の宴の間からずっと、この人は優しい目でわたしを見てくれている。

正直。

これには少し安心した。

会ったこともない、見知らぬ男性と夫婦めおとになるとき……

一番の心配は……

夫となる人が、『思いやり』のある人かどうかなのだから」


まだ夫が起きる様子はないと考えた凛は、さらに思考を進ませる。

「この人は思いやりがある人なのかもしれない。

ただ……

一つ分からないことがある。

まことに思いやりのある人ならば……

どうして?

どうして、祝言の夜が1刻[時間]ほど話す『だけ』なの?」


まことに思いやりのある人ならば……

わたしが嫁いだ『目的』を十分に理解しているはず」


「わたしは、ただ嫁ぐために来たのではない!

摂津国せっつのくにに住む全ての人々を従わせて強大な武力を我が物とせよ』

あるじである織田信長様のこの命令で嫁いで来た女子おなご

そうならば!

?」


凛が思っていることは何も間違っていない。

祝言の夜に、2人は一つになる……

『べき』であった。


「正妻が産んだ男子が次の当主となる」

古今東西ここんとうざいから続く、この常識ルールからすれば……

摂津国せっつのくにの大名・荒木村重あらきむらしげの嫡男である村次むらつぐに嫁いだ凛が産んだ男子には、荒木家の後継者たる地位が保障されている。

男子を授かれば、凛は後継者の母として絶大な『権力』を握れるのだ。


だからこそ。

恋だの愛だの言う前に、凛は夫と一つになって男子を授からねばらない。


凛が後継者の母になって絶大な権力を握ることができれば……

摂津国せっつのくにに住む全ての人々を従わせて強大な武力を我が物とせよ」

あるじから与えられた使命を果たすことも可能になるだろう。


凛は一刻も早く男子を産んで、荒木家の後継者の母たる地位を揺るぎないものとすべきである。

『戦国乱世』の真っ只中を生きる凛には……


 ◇


ところが!


この人は……

わたしの手を握っただけで何もしてこなかった。

ひとしきり自己紹介をした後、わたしが何に興味があるかなどを1刻[時間]ほど聞いた後……

こう切り出した。


「今日は、さぞかしお疲れのことと思う。

もう休んではどうだろう?

凛殿」


え!?

今、何と?

もう休む?

有り得ない!

祝言の夜なのに、このまま寝るつもりなの?


「ん……

どうなされた?

すまない。

それがし、何か失礼なことを申してしまったか?」


夫はわたしを怒らせてしまったと感じたのか……

慌てて謝り始めた。


「い、いえ……

もう寝るのですか?」

と!


あ……

しまった!

何てことを!

わたしは、にわかに焦り出した。

さすがに自分から子供を欲しがるのはまずい。


「この女子おなごは結局……

一刻も早く世継ぎを産んで、この家を牛耳ぎゅうじりたい『だけ』なのか」


こう思われて夫婦関係に亀裂が入ってしまうかもしれない。

だからこそ。


侍女頭じじょがしら阿国おくにも、こう言っていた。

「凛様。

目的をひた隠しにするためにも……

ご自身から欲してはなりません。

村次様の方から欲するように『仕向ける』ことが肝心なのです」

と。


阿国からも注意を受けていたのに、うっかり口を滑らせてしまうなんて……

わたしはどれだけ芝居しばいが下手なの!


それでも。

夫の反応は想定外だった。


「ん!?

あ、ああ……

すまない。

そなたに無理をさせてはならないと思って……」


「え!?

無理?

何をです?」


「あ……

いや、だから……

1刻だけ会話して、その後は早めに休んでもらおうかと……」


「……」

「それがしが話を中断してしまったことを怒っているのだろうか?

もっと話を聞くべきであった……

凛殿。

すまない」


この人は、相当に鈍い人なの?

それとも……

分かっていて、気付いていない『ふり』をしているとか?


「いえ。

わたくしこそ、すみません。

今宵はもう休みましょう」


わたしは自分が情けなくなった。

こんな調子では……

夫から子供を欲しがるよう仕向けるどころではない。


……


 ◇


ふと。


冷えた身体に、暖かいものが掛けられる気配に気付く。

思わず振り返った凛は驚きを隠せない。

気を遣って布団を掛けてくれたようだ。


「もう起きておられたか、凛殿。

驚かせたらすまない」


「い、いえ……

大丈夫です」


「ああ、もし……

疲れが取れていたら……」


「疲れが取れていたら?」

「城下を案内したいのだが、どうだろう?」


「城下を?」

「うむ。

せっかく、この有岡城ありおかじょう[現在の兵庫県伊丹市]に来られたのだから……

『知って』もらいたいのだ」


「……」

「どうだろう?」


「分かりました。

宜しくお願い致します」


「おお!

では、朝餉あさげ[朝食のこと]が終わったら一緒に出掛けるとしよう!

ゆっくり支度なされると良い」


夫は嬉々とした表情で部屋を出て行く。


 ◇


「凛様。

よく戻られました」


寝所を出て、侍女頭の阿国おくにと侍女の比留ひるが待つ部屋に入る凛を……

2人は労った。


「阿国。

比留。

戻りました」


「凛様。

どうなさいました?

お顔が優れないようですが……」

比留である。


「わたくしは……

駄目でした」


「駄目でした、とは……

何もなかったと!?」


「せっかく阿国に注意を受けていたのに!

わたくしは……

芝居が下手などころか、夫との会話すらまともにできなかった」


「まだ始まったばかりです。

凛様。

機会は十分にありましょう」


「もし良ければ……

凛様。

何が起こったのか教えて頂けますか?」


慰める阿国に対し、比留は詳細を知りたいようだ。

比留にしては珍しい反応に、阿国はいぶかしげな表情を見せる。


「あの人は……

わたくしの手を握っただけで何もしてこなかった。

ひとしきり自己紹介をした後、わたくしが何に興味があるかなどを1刻[時間]ほど聞いた後……

こう切り出した。

『今日は、さぞかしお疲れのことと思う。

もう休んではどうだろう?』

と」


「凛様のことを『探って』いるのかもしれませんね」

こう言う阿国に対し、比留は意外な反応を見せる。


「あくまでわたしの見立てですが。

村次様は、凛様と一つになる『前』に……

?」


「知る!?

一体、何のために?」

凛と阿国には比留の言っていることが理解できないようだ。


「もし、わたしが村次様だったら……

そう思うからです」


「比留が、あの人だったら?

どうしてそう思うの?」


「だって。

夫婦めおとになる相手のことを知りたい、おのれのことを知って欲しいと思うのは『自然』のことではありませんか」


「……」

凛と阿国は返す言葉を失った。


 ◇


荒木村次は凛と侍女たち、数名の護衛と共に有岡城ありおかじょうの東門を出た。


すぐ側に猪名川いながわが流れ、河岸で多くの船が荷物を積んだり降ろしたりしているのを見た凛は……

あることに気付く。


「船が荷物を積み降ろしするための桟橋さんばしが、あまりにも『巨大』だと思うのですが……」

思わず漏らした凛に、夫が応える。


「さすがは凛殿。

良いところに目を付けられたな」


「どうして、これほど巨大なのです?」

南蛮貿易なんばんぼうえきをご存知か?」


「南蛮貿易……

南蛮人なんばんじん[スペイン人とポルトガル人のこと]と行っている交易のことでしょうか?」


「うむ。

日ノ本ひのもとからはるかに遠い異国の港と行き来している南蛮貿易の船は、とにかく『大きい』のだ」


「それで巨大な桟橋が必要だと……」

「父[荒木村重あらきむらしげのこと]は、こう考えられた。

貿

と」


「強大な武力とは何です?」

いくさで勝利するために不可欠な、鉄砲の『弾丸と火薬』のことだ」



【次節予告 第弐節 貿易戦争、開始】

凛は夫にこう問いかけます。

「確かに南蛮貿易の船を泊まらせることができれば、強大な武力を我が物にできるとは思いますが……

巨大な桟橋を用意した『だけ』で、それが叶うのでしょうか?」

と。

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