第8話:乾いた血の跡と、引きこもる母
光一が仕事の記憶の一部を失い、不機嫌なまま夕食の準備を始めた後、美樹は茜に目配せし、再び書斎へと向かった。
「お母さんとお父さんには絶対に気づかれないように。特にシミは触らないこと」美樹は茜に強く念を押した。
書斎のドアを閉じると、美樹はすぐにしゃがみ込み、カーペットの黒いシミに顔を近づけた。彼女はバッグから小さなルーペと、分析用のキットを取り出した。工務店勤務とは言え、美樹の用意周到さはまるで探偵のようだった。
「やっぱり…これは血だ」美樹は断言した。「乾いて時間が経っている。でも、血液特有の成分がカーペットの繊維に染み付いてる」
「誰の血なの…?お父さんが怪我したの?」茜は顔を真っ青にした。
「分からない。ただ、このシミは自然にできたものじゃない。誰かがこの場所で、意図的に血を撒いたか、あるいは何かを激しく叩きつけたか…。このシミの形、見て」
美樹がルーペで拡大したシミの淵は、わずかに波打った曲線を描いていた。まるで、何かの器官を押し付けたかのような不規則な形だ。
「土屋悟は自分の体の一部を埋め込んだ。爪、髪、歯、そして血…」美樹は震える声で言った。「このシミは、その呪いの一部よ。おそらく、彼の血が、この部屋の中心で、この家と住人を繋ぐ導線になっている」
二人が身震いしたその時、ドアの外からかすかに衣擦れの音がした。
「誰かいる!」美樹は慌ててキットをバッグに戻した。
静かにドアを開けると、目の前の廊下には誰もいない。しかし、廊下の突き当たりの物置のドアが、わずかに開いていた。
「物置…?」
美樹は茜を後ろに庇い、物置のドアをゆっくりと開けた。中には、引っ越し以来手つかずのダンボールが雑然と積み上げられている。そして、隅で秋乃が体育座りをして、膝を抱えていた。
秋乃は光一を避け、自分の部屋ではなく、最も暗く、無機質な物置に隠れていたのだ。
「お母さん!ここで何してるの!」茜が駆け寄った。
秋乃は顔を上げず、震えながら呟いた。「ここにいるとね、匂いが薄れるの。この家全体にある、あの生臭い、微かな匂いが。ここなら、大丈夫…」
「物置にいる方が大丈夫なんておかしいよ!」
美樹は冷静に物置の壁を見た。物置の壁は、他の部屋と違い、断熱材や遮音材の施工が最も簡素な場所が多い。
「秋乃おばさん、落ち着いて。物置の壁は、他の部屋の壁より薄いのよ。もしかしたら、家の外の空気が、一番入りやすいのかもしれない」
美樹はそう言ったが、秋乃の震えは止まらない。
「違う、違うの…この壁の向こうに、誰かいるの。誰かが、ずっと私のことを呼んでいる…」
秋乃は壁に額を押し付け、涙を流した。
「壁の中から声が聞こえるの?!」茜は恐怖に目を見開いた。
「声じゃないの。『言葉』なの。頭の中に直接、『ここにいろ』『出るな』って、ずっと囁きかけてくる。私、もう耐えられない…」
その瞬間、美樹と茜は理解した。職人・土屋悟の呪いは、単なる物理的な異変ではない。埋め込まれた体の一部を通じて、住人の精神を直接支配し、家の中に閉じ込めようとしているのだ。
秋乃は既に、家という名の狂気の監獄に囚われ始めていた。
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