第3話:冷たい視線と、憧れの従姉
母、秋乃が「変な音」を訴えて以来、杉山家の空気は完全に凍り付いた。
父、光一は秋乃を無視するかのように振る舞い、秋乃は昼間も薄暗い自室に引きこもりがちになった。茜は二人の間でどう動けばいいのかわからず、無言のまま距離を取ることしかできなかった。
(お母さんがおかしいわけじゃない。だって、新築の家なのに、こんなに息苦しいのは絶対におかしい)
茜はそう思いながらも、秋乃のように「トントンという音」を訴える勇気はなかった。父に冷たく突き放されるのが怖かった。
その日、茜は高校の部活を終えて帰宅した。時刻は午後6時。真新しい玄関を開けると、家の中は異様なほどに静まり返っていた。
「ただいまー」
返事はない。
「お母さん?」
秋乃の部屋は閉まっている。リビングも、光一の書斎も真っ暗だ。
茜は自分の部屋へ向かう階段を上り始めた。その時、ふと、リビングの端にある大黒柱に目が留まった。
その大黒柱は、この家の構造の中で最も太く、力強い存在感を放っていた。光一が内見した際、「最新の木造工法に、これほど立派な柱を使っているのは珍しい」と感心していたのを覚えている。
その柱が、まるで人間のようにこちらを見ている気がした。
冷たい、強い、そして明確な「視線」。
その視線は、茜が第1話で壁から感じた「薄い視線」とは違った。もっと凝縮され、密度の高い、粘着質な悪意を含んでいる。
茜は思わず足を止め、柱を凝視した。大黒柱の木目は、見る角度によって、微かに歪んだ人の顔のように見えた。
「うっ…」
茜は喉の奥から呻き声を漏らした。突然、吐き気を催し、両手で口を押さえた。体が急速に冷えていく。
視線を逸らそうとしても、柱が彼女の瞳を離さない。柱の木目の一つ一つが、無数の爪のように見え、今にも柱全体が波打って、自分を掴みに来るように感じた。
「やめて、やめてよ…」
茜は柱から目を離せないまま、後ずさった。その瞬間、階段の上から、秋乃が顔だけ出して立っているのが見えた。
秋乃の顔は青白く、まるで生気が抜け落ちたようだった。その瞳は、焦点が定まらず、ただ不安と恐怖で揺れていた。
「あ、あかね…」
秋乃が囁いた。「また、匂うの。今度は、もっとはっきり。鉄みたいな、血みたいな…」
秋乃の言葉で、茜は柱から視線を切り離すことができた。
(血?そんなはずはない。でも、お母さんは…)
秋乃は、光一に否定され続けたことで、もう自分がおかしいのではないかと疑っている。そんな母に、自分も「柱に人が見えた」などと言えるはずがなかった。
「お母さん、今日、コンビニでお弁当買ってきたから、それを食べて。私、ちょっと友達に連絡する」
そう言って、茜はすぐに自室に逃げ込んだ。母の絶望的な顔を、もう見ていたくなかった。
自室のドアを閉め、心臓の鼓動が収まるのを待って、茜はスマートフォンを手に取った。真っ先に開いたのは、LINEのトーク画面だ。
相手は、佐々木美樹。
美人で、成績優秀、社会人になっても格好良く工務店で働く、茜にとっての憧れの従姉だ。
『お姉ちゃん。ねぇ、前に言ってた、工務店の話、聞いてもいいかな?』
メッセージを送信した瞬間、茜は自分の行動が、この家の沈黙を破る最初の抵抗になったことを知った。
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