【SF百合TSアクション短編小説】鋼鉄の魂、薔薇の記憶 ~戦女神の贖罪、あるいは魂が紡ぐ新世界~
藍埜佑(あいのたすく)
第1章:残響
雨が降っていた。
2087年11月、統合地球連邦首都ニューベルリンの夜は、酸性雨と光学スモッグで彩られていた。アリサ・クロウは高層ビルの屋上に立ち、眼下に広がる都市の光を見下ろしていた。左手に持つ9mm拳銃の重みが、現実を確かなものにする。
五年前、自分はこの手に銃を握ったことなどなかった。
五年前、自分は死んだ。
いや、正確には死んだのは別の誰かで、今ここに立っているのは――
「アリサ、準備はいい?」
通信機から響く声が、思考を断ち切った。エージェント・コード「スノウ」。
本名はエヴァ・レンストローム、連邦戦争研究局の同僚だ。
「ええ」
アリサは自分の声が女性のものであることに、まだ時折驚いてしまう。
五年経っても慣れない感覚がある。
声帯は完全にアリサ・ミラーのものだ。
柔らかく、少し高い、若い女性の優しい声。
かつてカイ・クロウという男だった頃の、低く荒々しい声はもう存在しない。
「ターゲットは3階のラボにいる。警備は12名、全員が軍事サイバーウェア装備。気をつけて」
「了解」
アリサは屋上の縁から飛び降りた。
重力加速を計算し、3階の窓に向かって落下する。このタイミング、この角度、この速度――かつて傭兵だった頃の身体感覚が、女性の身体でも完璧に機能する。
筋肉量は違う。
骨格も違う。
重心も違う。
だが、それらすべてを再学習し、最適化した。
窓ガラスが爆発する。
アリサは転がりながら着地し、すでに銃を構えていた。研究室内の警備員三名が反応する前に、三発。非致死性ゴム弾が彼らの急所を捉え、意識を奪う。
殺さない。
それがアリサ・ミラーの遺志だったからだ。
かつてのカイ・クロウなら、躊躇なく致死弾を使っただろう。
だが今は違う。
この身体をくれた彼女のために、彼女が望んだ世界のために、できる限り殺さない。
「ターゲット確認」
研究室の奥、防弾ガラスで囲まれた特別区画に、白衣の男がいた。ドクター・ミハエル・ザウアー、元連邦軍の神経科学者。三ヶ月前から失踪し、非合法組織「ベリアル・シンジケート」に協力していると見られている。
「ザウアー博士、連邦戦争研究局です。大人しく投降してください」
男は振り返った。
60代、白髪、疲れた目。だがその目には狂気の輝きがあった。
「来たか。噂の蘇った女アリサ・クロウ」
アリサの全身に緊張が走った。
なぜ知っている?
この情報は極秘のはずだ。
「驚いた顔だね。ああ、我々は知っているよ。カイ・クロウの魂がアリサ・ミラーの身体に宿っているということを。禁断の魂転送技術。愛のために自らの存在を消した女性の献身。美しい物語だ」
「何が目的だ」
「目的?」
ザウアーは笑った。
「君たちは何も理解していない。人類はなぜ戦争をやめられないのか。その答えを我々は見つけたのだよ。そしてその答えを使って、真の平和を実現する」
「意味が分かりません」
「すぐに分かる。君も、君の仲間も、そしてこの世界のすべての人間も」
背後で爆発音。研究室の扉が吹き飛び、武装した兵士たちが突入してくる。ベリアルの増援だ。
アリサは即座に判断した。
ザウアーの確保は不可能。
情報だけでも持ち帰る。
研究室のメインコンピューターに視線を向ける。そこに何かあるはずだ。
「エヴァ、データ回収の援護を」
「了解。ハッキング開始」
アリサは突入してくる兵士たちと交戦しながら、コンピューターに近づく。銃撃、回避、反撃。女性の身体は軽い。それを利用して、かつてのカイには不可能だった機動を実現する。
コンピューターにデータチップを差し込む。エヴァの遠隔ハッキングが始まる。
「30秒必要」
「時間を稼ぐ」
アリサは防御位置につき、迫る敵と対峙する。弾丸が飛び交う。研究機材が破壊される。
そのとき、ザウアーが何かを起動した。
研究室中央のカプセルが開き、中から何かが現れる。人型の、だが人間ではない何か。サイボーグ? アンドロイド? いや、違う。
それは動き始めた。異様な速度で。
「クソ」
アリサは反射的に発砲したが、弾丸はその生物の装甲を貫けない。
「データ回収完了! 撤退して!」
エヴァの声。
アリサは窓に向かって走った。背後で何かが追ってくる。窓を突き破り、外壁を滑り落ちながら、脳裏にザウアーの言葉が反響する。
「人類はなぜ戦争をやめられないのか。その答えを我々は見つけた」
本当だろうか?
---
セーフハウスに戻ったアリサは、シャワーを浴びながら考えていた。
湯が身体を流れる感覚。
女性の身体の感覚。
柔らかい肌、長い髪、曲線を描く体型。
五年前、初めてこの身体で目覚めたときはパニックに陥りそうになった。
鏡に映るのは見知らぬ女性だった。
茶色の長い髪、緑色の瞳、華奢な身体。
これが自分だと認識するのに、時間がかかった。
だが今では――今でも完全には慣れていないが――これが自分だと受け入れている。受け入れなければならない。アリサ・ミラーが自分の魂を犠牲にして与えてくれた、二度目の人生なのだから。
シャワーを出て、タオルで身体を拭く。鏡に映る自分を見る。
アリサ・ミラー。26歳。
連邦軍の医療士官だった。カイ・クロウが傭兵として負った致命傷を治療しようとして、彼女は禁断の技術を使った。
魂転送。
瀕死のカイの魂を自分の身体に移し、自らの魂は消滅させる。違法で、倫理的に許されない技術。だが彼女はそれを選んだ。
なぜ?
カイはその答えを知らない。
自分とアリサは恋人だったわけではない。
しかも知り合ってわずか三日だった。
いったいなぜ彼女は自分を救ったのか。
その問いに答えを見つけるために、カイはアリサとして生きると決めた。彼女の身体で、彼女の名前で、そして彼女が望んだであろう生き方で。
服を着る。
女性の服。
これも最初は戸惑った。
ブラジャー、ショーツ、ストッキング、スカート、ブラウス。
どれも着方が分からなかった。
だが学んだ。
一つ一つ、丁寧に。
今では自然に着られる。下着のサイズも、自分の好みも分かる。化粧も、最低限はできるようになった。
鏡の前で髪を梳かす。長い髪は手入れが大変だが、切る気にはなれない。アリサ・ミラーはこの髪を大切にしていたはずだからだ。
「アリサ、報告書の準備できた?」
エヴァがリビングから声をかけてくる。
「今行く」
アリサはポニーテールに髪をまとめ、部屋を出た。
---
リビングでは、エヴァがコンピューターに向かっていた。
エヴァ・レンストローム。30歳。金髪のショートカット、青い瞳、知的な顔立ち。元は連邦軍の情報分析官で、現在は戦争研究局の上級研究員。アリサの直属の上司であり、この作戦のコーディネーターだ。
「お疲れ様」
エヴァはコーヒーカップを差し出した。アリサは受け取り、隣に座る。
「回収したデータは?」
「解析中。でも一部は見られた」
エヴァはスクリーンを操作する。そこには複雑な神経回路図と、大量の遺伝子配列データが表示される。
「これは何?」
「人間の攻撃性を制御する神経回路のマップ。そして、それを人為的に操作する技術の設計図」
アリサは息を呑んだ。
「つまり、人間を好戦的にしたり、平和的にしたりできる?」
「理論上は。前頭前野と扁桃体の相互作用を薬物やナノマシンで調整すれば、攻撃性は操作可能。ザウアーの研究は、それを集団規模で実行する方法を探っていた」
「ベリアル・シンジケートの目的は?」
「まだ不明。でも」
エヴァは深刻な表情でアリサを見た。
「もし彼らがこの技術を完成させたら、人類の戦争性向を自由に操れる。戦争を起こすことも、止めることも」
「それは――」
「神になるということ。人類の運命を決める神に」
沈黙が落ちる。
アリサはコーヒーを飲んだ。苦い。だが、この苦味が現実を確かにする。
「ザウアーは言っていた。答えを見つけたと。人類が戦争をやめられない理由の答えを」
「答え?」
「そして、それを使って真の平和を実現すると」
エヴァは考え込んだ。
「逆説的ね。戦争をやめられない理由を使って平和を作る? どういう意味なのか」
「分からない。でも、彼らは本気だ」
アリサは立ち上がった。窓の外を見る。雨はまだ降っている。
「エヴァ、一つ聞いていい?」
「何?」
「私は、本当に女性になれていると思うか?」
予想外の質問に、エヴァは驚いたようだった。
だがすぐに柔らかい笑みを浮かべる。
「何を今更。あなたは完璧にアリサ・クロウよ」
「でも、中身はカイだ。男の魂が女の身体に――」
「アリサ」
エヴァは立ち上がり、アリサの肩に手を置いた。
「魂に性別なんてない。あるのは記憶と経験だけ。そしてあなたは五年間、女性として生きてきた。それは何よりも重要なこと」
「……ありがとう」
エヴァの手の温もりが、心地よかった。女性同士の触れ合い。最初は戸惑ったが、今では自然に受け入れられる。
「それに」
エヴァは悪戯っぽく笑った。
「あなた、この前ショッピングで服を選ぶとき、完全に女の子だったわよ。『この色可愛い』って」
「それは――」
アリサは頬が熱くなるのを感じた。
恥ずかしさ。
これも女性的な感情だろうか。
「ふふ、冗談よ」
エヴァは笑い、アリサを軽く抱きしめた。
「あなたはあなた。それでいいの」
その言葉が、アリサの心に染み込んだ。
---
翌日、アリサは戦争研究局の本部に呼ばれた。
統合地球連邦戦争研究局。第四次世界大戦後、戦争の原因を科学的に解明し、恒久平和を実現するために設立された組織。哲学、政治学、心理学、生物学、社会学、経済学――あらゆる学問分野の専門家が集まり、人類と戦争の関係を研究している。
そして同時に、戦争を引き起こそうとする組織を監視し、阻止する諜報機関でもある。
局長室。
そこにいたのは、局長のマーガレット・シャルロッテ。50代、銀髪を後ろで結んだ厳格な女性。元は連邦軍の将軍で、第四次大戦を終結させた和平交渉の立役者だった。
「よく来たわね、アリサ」
マーガレットの声は低く、権威に満ちている。
「昨夜の作戦、お疲れ様。データは貴重よ」
「ありがとうございます」
「でも、問題がある」
マーガレットはホログラムを起動した。そこには世界地図が表示され、複数の地点が赤く点滅している。
「過去三ヶ月、世界各地で紛争が激化している。アフリカ、中東、東南アジア、南アメリカ。統計的に異常な増加率よ」
「ベリアルの仕業?」
「おそらく。そして、すべての紛争地域で共通点がある」
地図がズームする。各地域の詳細データが表示される。
「紛争に参加している兵士たちの血液から、未知のナノマシンが検出された。それらは脳の特定部位――前頭前野と扁桃体――に集中している」
アリサは理解した。
「つまり攻撃性を操作している」
「その通り。ザウアーの技術は、すでに実用段階に達している。ベリアルは世界中で人々を好戦的にし、紛争を引き起こしている」
「目的は?」
「不明。ただ混乱を望んでいるのか、それとも別の意図があるのか」
マーガレットは椅子に座り、アリサを見た。
「あなたに新しい任務を与える。ベリアルの本拠地を見つけ、彼らの計画を阻止すること」
「了解しました」
「ただし」
マーガレットの表情が厳しくなる。
「この任務には特殊なアプローチが必要。ベリアルは戦争研究の専門家集団でもある。彼らを理解するには、同じレベルの知識が必要」
「つまり?」
「あなたには、我々の研究部門に一時的に配属してもらう。戦争の本質を学び、敵の思考を理解する。そのために――」
マーガレットは別のホログラムを表示した。そこには一人の女性の写真があった。
黒髪のロングヘア、茶色の瞳、眼鏡をかけた知的な顔立ち。20代後半に見える。
「この人は?」
「エヴァ・リー・サトウ。我々の首席戦争理論研究員。トゥキディデス、ホッブズ、クラウゼヴィッツから、最新の神経科学まで、戦争に関するあらゆる知識を持つ天才。あなたの教師になってもらう」
「彼女と共に学ぶ?」
「そして、彼女を守る。ベリアルは優秀な研究者を狙っている。エヴァは最優先ターゲットの一人よ」
アリサは写真を見つめた。
エヴァ・リー・サトウ。
この女性との出会いが、すべてを変えることになるとは、まだ知らなかった。
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