第5話
〈四〉
季節は師走。枯れた木の葉と、忙しない人々が帝都を行き交う。
喧騒、喧騒。喧騒。きっと風流を楽しむ詩人であれば、毛嫌いするほどの人の混みだ。
だが吟は、ただ歩きたい。それだけ。
彼女の単純明快な願望をかなえるに当たっては、この雑多な街であれ散歩道で十分だ。
ああ、今日はどうしようか。
行きつけの居酒屋で酒を浴びようか。
それとも純喫茶を渡り歩いたり、吉原をふらつくのも悪くない。
どうにかして、気を紛らわしたい。唯一、それだけを考えていた。
だが、わずかな平穏の時は一瞬にして砕ける。
神保町を抜け、神田川が見え始めたその時。
声をかけられたのだった。
「清水さん、清水さん」
「……ア」
清々しい程甘く、憎らしいほど透き通った女の声。
振り返る。
やってきたは、流行りの形に髪を整えた淑女だった。
吟とは正反対の真新しい和洋折衷を纏い、これから降る雪よけの蛇腹傘を抱えていた。
ふと、吟は思い出す。
そうだ、彼女は確か、このあたりに住んでいた女学校時代の友人。
「近藤、さん?」
ボソリと呟いた。
瞬間、淑女は嬉しそうに目を輝かせる。
「ええ、ええ! 清水さん、覚えていて下さったのね。
嬉しいわぁ」
悪意なく、屈託なく笑う。
その清らかさすら、吟の傷に染みた。
「久しいね。元気に、していた……?」
「ええ、この通り。
でも清水さん、顔色が悪いわ……その格好も寒くない?」
「へ、平気ッ」
伸ばされた手をよけ、ゆらゆらと視線をずらす。
悲しげな表情を浮かべ、近藤は微笑む。
「そう。なのね……そうだ。文筆業の方はどうかしら。
毎日夫が読んでいるわ、貴方の本。
全て読んでいるとは言っていたけど、やっぱり最初の頃の本が一等好きだったって。
最近はめっきり出さなくなったようだけど、何かあったの?」
吟は眼球を揺れ動かし、もっともらしい理由を付け加える。
「……病気を患ったんだ」
病気! と淑女は信じ込み、驚くように言った。
「それは大変。
もしかして、今の顔色も……そう、そうなのね」
違う。
私のことを分かったかのように言うな。
喉から出かかる言葉を押さえ、吟は「まぁ、」と曖昧に返す。
「何かあれば言ってね。
夫もきっと、貴方を助けたいと思っているはずだから」
「ありがとう」
その気遣いすら、アタシを殺すのだ。
吐かれた毒すら、彼女は知らない。
吟は愛想笑いを浮かべ「その時は頼む」とだけ笑った。
笑った? いいや、歪に口元を歪めただけだ。
石畳を擦るように踵を返した吟は、愛想を一つ、彼女に送る。
「……じゃあ、さようなら。元気で」
「あらもう行ってしまうの? ねえ、折角の再会よ。
よければ少しお茶でも――」
「人を待たせてあるんでね。
編集が純喫茶にいる」
「まぁ、ふふ。そうなの。
お仕事の邪魔をしてしまったようね。
そうだ」
淑女は懐から、一つ小さな巾着を取り出す。
この近所の神社の名が刺繍された、お守りだった。
「健康守り。
おさがりだけど……どうか、元気になって頂戴ね」
「ありがとう……」
淑女は改めて、にこりと優しげな笑顔を浮かべた。
「呼び止めてしまって申し訳なかったわ。
新刊、二人で楽しみにしている」
またね、と白魚の手が揺れた。
「……さようなら」
手も何も、名残惜しさの一切を振らず、吟は淑女に背を向ける。
その当たりからだろうか。
曇天の灰から、綿雪が舞い落ちる。
嗚呼、嗚呼。
身を軋ませるような劣等感。
屈辱。
孤独よ、糞食らえ。
此は嫉妬だ。
文筆家として生きる為、結婚も何も全て捨てた。
そのせいで親兄妹も失った。
ただ羨ましいのだ。
普通に生き、普通に死ぬ、彼女が。
「どうしてもっと早く、気づかなかったのか」
いいや、頭では理解していた。
わかっていた。
それでも無視したのだ。自分には関係ないと。
「先生……」
おもむろに、手すりに指をかける。
その寸分先は神田川。
あの人が身を投げた、神田川。
きっと、私にこうなって欲しくなくて、先生はきつく言いつけたのだろう。
文を書くなと。
それを破って、このザマだ。
寂しさか、後悔か。
吟の口から一つ、言葉が零れる。
「アタシも、一緒に居たいです。先生」
そっちに行って、良いですか。
誰に尋ねるわけでもなく、吟は問うた。
直後、それを受け入れるかのような追い風が、ボサボサの髪の間をぬっていく。
「……先生、先生……」
それは、久方ぶりの幸福であった。
吟は、薄く目を閉じる。
かつての幸せと、出会い。そして衝動に身を任せながら、ぐらりと体重を前にかけた。
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