第22話 森の声、風の記憶

 森へ戻る道は、春と夏のあいだの匂いがした。

 柔らかな土の上を歩くたび、足裏から水の気配が伝わってくる。谷での滞在が短かったにもかかわらず、ミナの足取りには、少しの逡巡が混じっていた。

 谷で過ごした日々――人の笑い声、火のぬくもり、誰かと食卓を囲む時間。

 それらが心の奥に溶け込み、彼女の中の「森」が、以前とは違って感じられるのだった。


 木々の間を抜ける風が、ふと彼女の頬を撫でた。

 まるで再会を喜ぶように、枝葉がざわめく。

 その声に耳を澄ませば、遠くから鳥のさえずり、水音、そして獣たちの息づかいが連なって届く。

 ――あぁ、やっぱりこの場所が、私の“帰る場所”だ。


 けれど、その安堵の奥で、かすかな違和を感じた。

 風の流れがどこか途切れている。森の奥、かつて彼女が祈りを捧げていた泉の方角から、重い湿り気が漂っているように思えた。


「……ルゥ、聞こえる?」

 肩に乗る小竜が、首をかしげた。

「風が、少しざわついてる」

「うん。森の気が乱れてるね。長く留守にしたせいかもしれない」

 ルゥは空を一巡して、戻ってくる。

「でも……それだけじゃない。どこか“呼んでる”」


 その言葉に、ミナは足を止めた。

 風に混じる低い響き――耳ではなく、胸の奥で感じる音。

 それはかつて、まだ観測者ティアルとして世界を見ていた頃、彼が何度も記録した“生命の脈動”に似ていた。

 だが今、それを感じ取っているのは竜ではなく、“人としてのミナ”だ。


「……行ってみよう」

 小さく息を吸い込み、ミナは森の奥へ足を踏み入れた。


 木々は以前よりも高く茂り、光の筋が地表に届くまでに時間がかかる。

 足もとの根は複雑に絡み合い、踏むたびに柔らかい音を立てた。

 森が、彼女を試しているようにも思える。


 しばらく進むと、開けた場所に出た。

 そこは泉――以前、彼女が夜ごとに祈りを捧げていた場所だ。

 だが、泉の水は濁り、表面を薄い苔が覆っている。

 その上に、風の渦がゆっくりと旋回していた。


 ミナはしゃがみこみ、水面を覗き込む。

 かつては星を映していた泉が、今は自らの影を返すばかりだった。

「……ごめんなさい。少し、離れすぎてたのかも」

 その声に、風がかすかに応えた気がした。

 ルゥが低く囁く。

「森の流れが鈍ってる。でも、きっと戻せる」

「うん。森は、生きてるもの。ちゃんと話せば、きっと」


 ミナは巾着袋から小さな瓶を取り出した。

 谷の医師が分けてくれた清浄な水。それを掌にすくい、泉へと静かに注ぐ。

 しずくが落ちる音が広がり、風がひとしきり吹き抜けた。

 それと同時に、泉の奥から微かな光が差した。

 まるで森自身が、彼女の帰還を確かめているようだった。


 ルゥはその光を見て、小さく息を漏らす。

「ティアル……」

 ミナが名を呼ぶと、彼は少し笑って答えた。

「もう、その呼び名は要らないさ。今は君のルゥだ」

 その声音はどこか照れていて、けれど深い安堵に満ちていた。


 泉の光がやがて収まり、森に再び静寂が戻る。

 ミナは立ち上がり、空を仰いだ。

 雲が流れ、淡い光が葉を透かす。

 風が再び、森の全体を撫でた。


 その風の中には、確かに“感謝”の響きがあった。

 森がミナに向けて、言葉にならない挨拶を返しているのだ。

 彼女は目を閉じ、静かに微笑んだ。


「……ただいま」


 その言葉が、森のすべてに染みわたる。

 彼女の帰還は、観測者としての義務ではなく――

 生きる者として、誰かを想うことの始まりだった。

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