第15話 風を運ぶ者
春の陽が森を照らしはじめていた。
木々の葉の間から漏れる光が、霧を透かし、地面の露をきらめかせる。
鳥たちが枝の上で歌い始め、遠くの村からは水車の音がかすかに聞こえてきた。
ミナは小屋の前に腰を下ろし、草籠の中で薬草を分けていた。
その横で、ルゥが枝の上に止まり、羽を日光に当てている。
「ミナ、また誰かに薬を届けるの?」
「うん。ユトのお母さんが、村の倉庫を手伝いすぎて腕を痛めたって。
だから、鎮痛の薬草を少し。あとは、レナ先生に“声の出やすくなる茶葉”を」
ルゥは首をかしげた。
「人って、忙しいね」
「ふふ、そうだね。でも、それが“生きてる”ってことなんだと思う」
ミナは籠を抱え、戸口を閉めた。
春風が頬を撫でる。
その風の中に、ほんのりと祭りの夜の残り香が漂っていた。
村の道は朝の光で満たされ、犬の鳴き声や水を汲む音が交錯していた。
ミナの姿を見つけた人々が、手を振る。
「おはよう、ミナさん!」
「昨日の薬、よく効いたよ!」
「今度うちの畑にも来てくれ!」
ミナは少し照れながら、微笑んで頭を下げた。
いつの間にか、彼女の存在は村の日常に溶け込み始めていた。
レナの家に着くと、扉の前で声がした。
「おや、ミナさん。ちょうどいいところに」
出てきたのは、教師のレナともう一人――村長の老人だった。
老人は穏やかな笑みを浮かべて言った。
「いつも助けてくれてありがとう。あなたのおかげで、村の子らも元気です」
ミナは慌てて頭を下げた。
「い、いえ、そんな……私、できることを少ししているだけで」
「その“少し”が、誰かの一日を支えるんです」
レナがそう言って笑うと、ルゥがミナの肩で小さく鳴いた。
「ミナ、ねぇ。ぼくも何かできるかな?」
「うん。あなたはいつも風を運んでくれるでしょ?」
「風を?」
「うん。あなたが羽ばたくと、森の香りや草の種が村に届くの。
きっとそれが、誰かの明日を作ってるのよ」
ルゥは嬉しそうに目を細めた。
それは、かつて“観測者”だった竜が初めて抱く、
“誰かの役に立っている”という自覚の微笑だった。
午後。
帰り道の川辺で、ミナは足を止めた。
川面に映る自分の姿が、少しだけ“前とは違って見えた”。
頬の色、瞳の明るさ、そして――隣で羽を休めるルゥの穏やかな表情。
「ねえ、ルゥ。私たち、少しずつ変わってるのかな」
「うん。でもそれって、きっと悪くない変化だよ」
ミナは空を見上げた。
流れる雲が、風に乗ってゆっくりと形を変えていく。
その姿はまるで、観測層から見下ろしていた“世界のうつろい”と重なって見えた。
けれど今、ミナとルゥは――
その“中”にいる。
風に触れ、光を感じ、声を交わしながら。
《観測記録・断章》ティアル=ルゥの記
風は観測できない。
形がなく、音も持たず、ただ世界を撫でていく。
けれど、今のぼくは知っている。
それが“誰かの優しさ”を運んでいることを。
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